無言電話
「したら彼、ビビって手を引っこめようとすんの。やめろよぉ──とか言って」
結局、留守録を再生することはなかった。結局、留守録は男に丸投げし、繭は無言を貫いた。誰が、誰に?──わからないまま。
あれから、留守番電話が点滅することはない。少なくとも、繭の知るところではない。知ったことではない。
届けるのはあたし──これからも守りつづけるだけ。
「言い出しっぺのクセにさぁ」
テーブルの上をちらと見る。シルバーの鍵がぞんざいに置かれてある。男にもらった合鍵。女がいなくなって初めて持つことの許された、秩序立った薄っぺらな塊。
ついさっきまで黄金に輝いていたのに、もう、本来の鋭さを取り戻しつつある。
テーブルを越えた先を見やる。赤い鞄が床に慎ましく置かれてある。繭には似合わなくなった頑丈な鞄。確か、これをくれたのも男だったか……いや、思い出せない。
ついさっきまで褐色に照っていたのに、もう、本来の鈍さを取り戻しつつある。
ふたたび、窓の外を見る。
マンションとマンションの中央で存在感を放っていた太陽は、すでに一方の大きな背中へと隠れ、両者を黒く染めはじめていた。
間もなく、すべてが消えてしまう。闇になってしまう。
繭は、まるで自分が沈んでしまったかのような虚しさに陥った。すべてを闇に変えるのは、きっと自分なのだと。
そろそろ、この部屋に男が帰ってくる。かつてこの女を深く愛していただろう、今や、がらんどうと化してしまったリビングへと、繭だけを愛するために。
もしもこの密会を彼に知られたら、いったいなにを咎められるか知れたものではない。叱られるかも知れない。嘆かれるかも知れない。いずれにせよ、繭の望む展開など訪れようはずもない。
きっと、誰かが傷つく。誰かが闇になる。
今日は、もう、潮時。
世間ではあり得ないと蔑まれるのだろうこの友情を、繭は固唾とともに飲みこんだ。近況報告を強引に打ち切る。踝をひとつだけ撫でる。そして、黄金の残渣を鼻の奥まで吸いこむと、
「ねぇ……」
しかし、これまでの饒舌さがまるで嘘だったかのような脆いハープシコードで、繭は女に尋ねていた。
「……げんき?」
すると、ぼふぉ──厳冬の風を思わせるヒロイックな吐息が、初めて耳もとに返った。つらいのはあなただけじゃないの──そう溜め息でアピールしてみせたかのような、せせこましいヒロイズム。
お門違いのヒロイズム。見当違いのヒロイズム。でも正直なリアリズム──悲しいなと思った。
思ってすぐ、悲しくなったことに苛立った。悲しくなるような自分にムカついた。そして、優越感を、友情を、あてもなくおぼえたことが急にバカらしくなった。
バカバカしい。
そんな関係じゃなかった。
最後にはがっかりする。がっかりし、同時に、がっかりさせているのかも知れない。でも、それは繭のせいではない。女のせいであり、男のせいなのかも知れない。少なくとも、繭のせいではない。絶対に、絶対に自分は悪くない。
しかし、いつものことだが、最後には自分が悪者であるかのような気持ちになる。すぐにそれを否定し、頭がこんがらがり、ついにはむずかる。
いつものこと、最後にはなにもかもに腹立たしくなる。日増しに大きくなる、この背丈さえ。
永遠に届かないものもある。そんなことはわかってる。なのに、届くだろうと錯覚し、期待し、ついつい打電してしまう自分に腹が立つ。
バカバカしい。
そんな関係じゃなかった。もう。
「じゃあ、切るね?」
不貞腐れるように告げると、
「バイバイ……ママ」
腐ってみせる名女優な自分にも腹を立てながら、繭は優しく受話器をおろした。
【 終わり 】