無言電話
「今日ね?」
また、繭は女にこっそりと電話をかけている。
「彼がね?」
バレずにいられるような妙案などひとつもないが、男にバレないよう、せめて気持ちだけでもこっそりと。
「手、つないでみる?──って」
さり気なくも周到に手に入れた女の電話番号。確か、いまだ人に頼られていたいらしいあの男が、せっせと加齢臭を洗い流しているすきに手に入れたのだったか。
「なんか急に提案してきやがってさ、もうぜんぜん意味わかんねぇの」
特に規則性のない電話番号だが、繭は数字に強かった。一瞬のうちに記憶し、今では空で言える。語呂あわせしなくても、まるでクローゼットから下着を取り出すように、なんの引っかかりもなく脳裏に浮かばせられる。
盗み見の横着で手に入れ、一瞬のうちに記憶し、かれこれ三ケ月が経つ。
今日もまた、ずいぶん広くなってしまったリビングの片隅に体操座りをし、繭は女に電話をかけている。株の予想を終えた男が帰ってくるまでの、際どい夕べのこと。
「でね?」
無意識のうちに踝を撫でている。初回の手持ち無沙汰が癖になっている。
「あたしがどう応えたか、わかる?」
他愛もない質問。しかし、女はなにも応えない。ずっと噤んだままにしている。たまに、吐息や咳嗽や洟を啜る音声が仄めくように聞こえるものの、言語はなにひとつとして返ってこない。この三ケ月の間に、一度も。
ところが、聞いていないわけではないらしい。仄めく音声の距離感でなんとなくわかる。女は、繭の話をちゃんと聞いている。
それが証拠に、
「どうせ他の女にもおんなじこと言ってんでしょ?──って」
今、繭の鼓膜を吐息が叩いた。ふふふ──そう聞こえた。
特別なオチがあるわけでもない話題。ちょっとだけ気に入っている同年代の男の話題。面白くもなんともない話題。しかし、あたかもそれを笑ってくれたかのような女の吐息。
確かに、彼女は繭の話を聞いている。
心の底から可笑しくて笑ったのか、真相は闇の中。でも、繭の平たい胸は優越感の熱に沸きはじめた。少しだけ早口になる。
「したら、んなことねぇよ!──つって」
ゆったりと後ろ手をつく。
「なんか焦ってやがんのアイツ。ふふふ」
傾いた太陽が十六畳の白い空間に散りばめられ、繭のハープシコードの声に黄金のエコーをまとわせる。
気の遠退きそうなふくよかな倍音。安息日に遊ばせる鼻歌のボサノバ。季節感をなくしたドライな太平楽──なんだかいい気分。さらに饒舌になる。
「男ってみんなそう。言葉遊びってものを知らないんだから。どいつもこいつも真面目に受け止めちゃってさ。そんなことはあるかもね──って言っとけば、こっちだって可愛らしくキレてあげれるのに。だって、あたしだってさ、べつに本気の本気で質問したわけじゃないんだからさ」
するとまた、ふふふ。
相変わらず女の心理を知る術はない。しかし、繭の優越感に優越感が重なり、もはや手に負えないほどの浮遊感になる。
「ホント、男って子供」
手に負えない浮遊感、その捌け口を探し、繭はうっすらと瞼を細め、黄金色の源泉を見やった。
バルコニーへと続く巨大なスライド窓に、わずかながらにも満遍なく埃が付着、ヴェールをつくりあげている。しかし、その向こう側、並び建つ双子のマンションの濃厚な影を遮蔽するには至っていない。
影が濃いのは、逆光のせい。ふたつとして存在しない、太陽のせい。
仲睦まじく寄り添う双子の中央で、今、自身の輪郭さえも霞ませるほどの強い存在感を放ちながら、太陽が眠りにつこうとしている。まるで、眠くもないのにベッドへと促されて不貞腐れる幼稚な存在感。幼稚であるがゆえの、純粋無垢な存在感。純粋無垢であるがゆえの、導火線の短い存在感。
その、むずかる存在感を思わず直視してしまい、途端に繭の眉間がこそばゆくなった。視線を逃がし、しばしばと瞬く。
有るのに無く、無いのに有る。
直視できないのだから、無いも同じ。
眉をくすぐるのだから、有るも同じ。
曖昧な太陽。
明瞭な太陽。
矛盾をひとつにした太陽。
濃厚な影を双子のマンションが背負い、犠牲となり、だから太陽は存在感を発揮していられる。
繭は、もう、違うのかも知れない。
いや、まだそうなのかも知れない。
どちらなのか、繭にはわからない。