花束に込めて:エヴァ・アームストロング(羽川)
一面の花畑、ではなく見晴らしの良い丘の上。草原の中にぽつぽつと咲いている花を掻き分けて、小学生低学年程の齢に見える少女と少年が歩いていた。無表情にも近い少年と、楽しいという表情を前面に押し出した笑顔を浮かべる少女。対照的な二人は途中にあった大きな岩に腰かけた。すると少女はすぐに立ち上がり、少し離れた場所に咲いた花に近寄って、指差した。
「ほらこれ!」
「……?なあに?」
ぷつり、子どもの柔らかな掌が茎を包み込んで凛と咲く花を摘み取り、側にいるもう一人の少年に差し出した。少年はというと花が摘まれた瞬間に、ふるりと揺れたのをまるで震えているようだと感じていた。
「どうしたの?」
怪訝そうな少女に表情を窺うように覗き込まれた瞬間、はっとしたように漸く言葉を返す。
「花がどうかしたの?」
「えへへ、ほら!」
ずい、と目前に差し出された花に少年が受け取ろうと手を伸ばすが、少女の手はその手を躱して少年の左の米神付近に花を差し込んだ。くるり、と茎を結ぼうとするが上手く行かず「あれ?」戸惑うような声と共に花は落ちてしまう。何度かそれを繰り返した後、諦めたのか少女はその花を手で抑えたままからりと笑った。
「同じ色!」
少年の瞳はラリマーのような薄い透き通った海の色をしている。少女が見つけて来た花は色が濃く、どちらかと言えば紫色に近い。そんなに似てないじゃないか、と少し唇を尖らせた少年の様子にも気付かずに少女はにこにこと笑みを浮かべている。何故だか少女の笑顔を見た途端に気恥ずかしくなって、少年は添えられている少女の手から優しく花を抜き取った。
花をくるくると回しながらじい、とその動作を見逃さないように見詰めている少年に、少女はくるりと背を向けた。
「風、気持ちいいね」
鼻歌交じりに囁かれた言葉に、少年が顔を上げる。きらり、照り付ける夕焼けに一瞬目を顰めるが、それよりも先に少女のスカートが風によって下着が見えそうなラインまで持ち上がっているのにぎょっときて目を見開く。
少女は少年が気付いたすぐ後に「あ、」と小さく呟いてスカートの前と後ろを手で抑えて、「えへへ」誤魔化す様に笑った。少年はちらりと見えた肌に頬を赤く染め、誤魔化すようにそっぽを向いた。
「…お転婆だと、お嫁さんに貰って貰えないって、先生が言ってたよ」
「それはやだ!私の夢、お嫁さんだもん」
ぷくり、と頬を膨らませて少女は再び少年の隣へと腰掛けた。なんと返そうか迷った少年が言葉を発するよりも早く、少女が「あ!」と唐突に声を上げた。
「ど、どうしたの」
戸惑う少年をよそに、少女は少年の花を持ったままの手に手を重ねた。突然のことに目を瞬かせる少年に悪戯が成功したかの様に少女はくすくすと笑う。その時ふと吹いた風が、二人の周りの草原を揺らす。夕焼けに燃える黄金色の景色の中で、二つの影が重なった。
「私が――」
――
時は流れて十余年。背丈程もある革張りのコートを風に弄ばれながら、少年――否、見た目は少年そのものだが、実年齢は青年――が一つの建物を見上げて立っていた。後ろ手には一輪の花を携え、その面持ちは緊張感を感じさせる。ふう、と一息吐いた青年が、震える指先でインターホンを押す。すぐさまピンポーン、と外にまで聞こえてくる大きさでベルが鳴る。はあい、とその音に呼応する声に、青年が背筋をぴしりと伸ばす。
「はい、お待たせし……エヴァ君!」
「……久しいな」
がらら、と横開きの扉が開いて、女性が顔を出した。下に向いていた視線をぐっと上げたところで、青年の名を呼んだ。その様子にくすり、と笑いながら青年――エヴァも言葉を返す。さてどう切り出そうか、とエヴァが脳裏で思案し始めた瞬間にひゅう、と吹いた風。
それにふるりと彼女が身を震わせたのを見逃さず、エヴァは「取り敢えず中に」と促して二人で玄関内へと入る。近頃はアイチュウとしての活動が忙しく、なかなか訪れることのなかった玄関には相変わらず下駄箱の中に所狭しと小さな靴が並んでいた。変わらないその光景に、エヴァは小さく笑う。整理されていないのを見られてしまったのを恥ずかしく思ったのか、彼女は焦ったように笑みを浮かべて「これから掃除する予定だったんだよ」と取り繕う様に靴を整理する彼女に、エヴァはこちらも変わらないな、とまたも小さく笑った。
「今日はどうしたの?」
「…その、だな」
くるり、振り向いてそう問いた彼女にエヴァは思い切り顔を逸らした。いまだ後ろ手に持つ花は彼女から隠すように、エヴァの手に収まったままだ。珍しく言い淀んでいる様子のエヴァを不審に思い始めたのか、彼女は笑顔から怪訝な表情へと変わって行く。
「エヴァ君?」
「……今日は、あの、」
ぎゅう、とエヴァの花を掴む手に力が加わっていく。それと同時に紅潮して行く頬に更に彼女が不安そうな表情を浮かべた時、エヴァは「これ」と口を開こうとした。……のだが、
或る夏の日の:三千院鷹通(羽川)
三千院鷹通という男には、忘れようにも忘れられない大切な想い出がある。瞼を下せばいつでも鮮明に思い出せるような、そんな大切な想い出。
――
茹だる程に暑く、雲ひとつなく明るい青空。そんな日は、いつもその思い出を思い出してしまう。らしくもなく、あのたった一日の非日常に今も囚われている自分に鷹通は苦笑する。
鷹通が青空を見上げて無意識のうちにその日を思い出していた時、団扇で自分に風を送っていた一誠が声を掛けてくる。
「お前、夏になるとよく上の空になるよな」
「……そうか?」
俺もそう思う、と横から割入ってきた双海の明るく同意する声に訝しそうにしていた鷹通は眉を上げる
Lancelotとしてアイチュウとなって、何度目かの雑誌撮影を迎えた今日。鷹通、一誠、双海の三人は撮影準備に取り掛かっている現場からの呼び出しを待つ為に楽屋へと戻っていた。相も変わらず仕事の為にと翻弄する顔馴染みのプロデューサーはこの間も現場で走り回っている。
「(……そういえば)」
あの日もこんな状況だったな。鷹通は一誠達の質問を黙殺して、静かに瞼を閉ざす。懐かしい想い出を、頭の中で大切に閉じ込めた想い出を、違えぬように。
――
「本当にごめんなさい……!」
ぱん、と目の前ですまなそうに頭を下げ、両手を合わせた相手に対して、鷹通はただ黙していた。双海は「まあまあ」とにこにこと笑んで相手を気遣い、リーダーである一誠もまた「お前のせいじゃないだろ」と小さく息を吐いた。
顔見知りの雑誌の編集者、その人物が頭を下げているのに鷹通は何も告げることは出来なかった。否、告げようにも告げられなかった。胸中を察しているが故に、彼女に対して掛ける言葉を持っていなかったのだ。
彼女の本日の撮影に対するやる気は並々なるものではなかったし、Lancelotの面々もその熱意を感じて本日の撮影を楽しみにしていたのは事実であった。しかし、当日を迎えて見れば何かの間違いでスタジオがダブルブッキング。相手は大手の事務所で最近テレビに出突っ張りのアイドル。彼等が優先されるのは当然のことで、まだあまり世間に名を知れていないLancelotの撮影は後日に後回しされる結果となった。
重苦しくなるその空気を払拭する術を持たない鷹通がどうしようかと逡巡したその時、「じゃあ今日はこれしか仕事なかったし、全休ってことで良いよね〜?いやあ、休めるって最高だなあ」と双海が力の抜けた柔和な笑みを浮かべて楽屋へと踵を返す。
途端にその場に流れていた嫌な空気は霧散し、一誠もまた「仕方ねえな」と頭を掻いた。
「(暇だな…)」
思いがけず訪れた休日。へらりと平素のように力の抜けた笑みを浮かべてさっさと帰宅した双海、寄る所があると去った一誠に対して、鷹通は特に何もすることが無かった。その上、スタジオがある場所はあまり土地勘もなく二人が去った後……スタジオのあるビルの前にて、顎に手を宛て、立っているだけであった。
通行人の奇妙なものを見る視線も何のその、鷹通はタクシーでも呼んで帰るか、と携帯を取り出す為にポケットを弄ろうとした。その時。
「ご、ごめんなさい! どいて!」
「…え?」
ドン、小さな衝撃音が鷹通の身体を通り抜ける。驚きに目を見開いた鷹通とその原因、ぶつかってきた女の視線が交錯する。が、突然すぎたその衝撃に、鷹通は足を踏ん張ることが出来ずに地面へと女と共に転がる始末であった。どすん、情けなくも受け身も取れずに地面に転がった。
「いっ、つつ……」
「ご、ごめんなさい! だ、大丈夫……ですか……?」
地面に座り込んだまま声を上げる鷹通に対して、女は咄嗟に鷹通が庇った為に傷一つ付いていない様子で、焦った表情を浮かべて鷹通を気遣った。未だ座ったまま、土の付いた両手を叩き合わせながら大丈夫だ、と返す鷹通に対して女は漸く安堵の息を吐いた。……が、その表情はすぐに一変する。
「おい、あそこだ!」
「追え!」
女が鷹通にぶつかってきたその方向から、黒服にサングラスを掛けた、見るからに屈強な男が三人現れ、鷹通と女を指差し、二人に向かって走ってくる。は?と呆然と声を漏らし固まっている鷹通に対して女は軽い身のこなしですぐに立ち上がると、空中で浮いたままになっていた鷹通の手をぎゅう、と握った。
「走って!」
「は?」
鷹通は突然のことに対応することも出来ず、女のなすがままに手を引かれて走り出した。一体何だ、これは。そう思う間もなく、華奢な背をする女に引かれて足を動かす。何だこれ?ドッキリか?そう思う鷹通の気持ちを置いて、時間は過ぎて行く。
美味しい金曜日:十文字 蛮(友人)
大人しくも活発でもない性格で、飛び抜けて成績が良いわけでもなければ運動だって人並みの域を出ない。趣味の欄を埋めるには小一時間頭を悩ませて、ひどく無難なことしか書けないくらい、突出した何かを持たない私の毎日は、まるでコピーペーストしたように代わり映えがない。学校へ行って、帰ってきたら実家のパン屋の手伝いに店頭へ出て、近所の気心知れた人たちと交流しながらパンを売り――一日はあっという間に終わり、また朝日が昇ると一連の流れを繰り返す。そんな不幸ではないが幸せとも大っぴらに言い難い平凡な日々の中、今日のような「金曜日」だけは、毎週だって、欲張って良いなら毎日だって、繰り返したい幸せの曜日だった。
「こんちはー!」
「いっ、いいらっしゃいませ……!」
毎週金曜日、夕方になると決まって十文字蛮くんは、うちのお店にやってくる。
彼は近くにある養成学校で駆け出しのアイドルとして活動しており、今日もそこでのレッスンの帰りなのだろう、鼻歌交じりにトングを取って嬉々とパンを見つめる横顔からは、いかに空腹かが伝わってくる。大きな声で挨拶をしてくれる快活さも、眩しすぎる笑顔も、人を選ばない愛嬌も、全部が魅力的な蛮くん。初めて彼がお店に来たのは三ヶ月くらい前からだが、私はそれよりもずっと前から、彼のことを知っていた。
友人から、蛮くんが所属するアイドルユニット、RE・BERSERKのライブに誘われたその日、舞台の上であどけなくも妖艶に歌う三人の中、私の眼はずっと罪人の道化師だけを捉えていた。可愛いとも格好良いとも分類するのが惜しいような、あまりにも魅力的なその姿に心奪われるのは一瞬で、気がつけば物販で彼のグッズを一通り買い揃えていて――早い話が、彼のファンだった。
敬愛する神様にも等しい、ましてや駆け出しといえどアイドルという立場の彼が、近場とはいえ辺鄙な場所にある小さなパン屋にやって来ようというのだから、最初の頃は緊張しっぱなしで接客さえままならなかったが、今となってはこうして横顔を盗み見れる程度には心に余裕も出来てきた。
うん、今日も格好良いし可愛い。内心だけで思う存分胸の丈を吐き出しつつ、一週間ぶりの癒やしに頬を緩ませていると、それまでトングを休ませる気配もなかった蛮くんが立ち止まって視線を右往左往させ始めた。どうしたのだろう、と暫く様子を見ながら、ふと、すでにパンの山が出来上がったトレーを見て、もしやと思い当たる。
「あっ、メロンパン……?」
私の呟き程度の投げかけを、しかし的確に捉えたように蛮くんは素早く振り返る。
「! そーっす、メロンパン!もしかして今日はもう売り切れっすか!?」
「追加が後十五分くらいで焼きあがるので、お時間大丈夫なら待っていただければお出しできますよ」
「よかった〜〜もち!十五分くらい余裕っす!」
二つ返事で頷けば、彼はトレーをしっかり掴んだまま店の隅っこへと向かっていった。生憎と店にイートインスペースは無く、蛮くんに腰を落ち着けて待ってもらう事ができないのが心の底から申し訳ない。しかし、他のお客さんが来ても邪魔にならない位置で綺麗な直立体制を崩さない、到底芸能人とも十代の男の子とも取れぬような大人びた謙虚な面を見られたことに喜んでいる自分も居て。惚れた欲目と知りつつも、やはり十文字蛮という人間に対する神格化は止まらず――勝手に湧き上がり溢れた興奮のせいで、いつもより前のめりになった感情が言葉を続けさせた。
「…いつもメロンパン、買っていかれますね」
「へっ?! あ、……あー、その、メロンパン買ってこないと拗ねるやつがいて」
「拗ねるやつ?」
“やつ”と称するくらいなのだから、さぞ、我儘を言い合う気の置けない仲なのかもしれない。歳も近いと聞くし、同じグループのデスクロノスくん、基、澪くんとかだろうか。マスターことエヴァ様も見た感じ、歳はそう変わらぬようにも思うがステージの上での姿が印象としては色濃く、メロンパンよりも処女の生血の方がしっくり来る。まあ、そんな事を言えば澪くんだってヤモリとか魔女の爪とかそういった類のほうが遥かに求めていそうではあるけれど。
下らない妄想は尽きず、ああでもないこうでない、と昂ぶらせた感情に無慈悲な冷水を浴びせたのは――他でもない彼だった。
「そ!『あそこのパン屋に行ってきてメロンパン買ってこないなんて使えないわね!』って」
澪くんでもエヴァ様でもない、女の子言葉で見知らぬかの人を模した蛮くんの頬は朱色がかっていて、その子への愛おしい、という感情がそうさせるのだと疑いようのないほど幸せそうにみえた。
バックヤードから聞こえてくるパンの焼き上がりを知らせるきらきら星のメロディをBGMにしながらぼやけた感情の中、知覚できたのは後悔だけだった。普段みたく店員に努めて、興奮しなきゃ良かった。好奇心に殺された猫って、多分こんな気分なのだろう。
ナマケモノと葡萄:赤羽根 双海(友人)
出会ってから間もないあの頃、一誠は彼女の事を“妙な女”と称しつつも凛としたその性格を気に入っていて、鷹通は分け隔てなく自分に接する稀有な態度をやはり好ましく思っていて。そして俺はというと――努力を惜しまず、綺麗で青臭い言葉を臆さず発する、誰にでも愛され誰をも受け入れる彼女のことが、大嫌いだった。
「――ホテルのオープンセレモニーで生け花?」
「そう! 駅前に建設中のホテルがあったでしょ? そこのオーナーから、生け花パフォーマンスをしてほしいって依頼なの」
月日は流れ約十年、大嫌いだった同級生と一度は切れた縁だったが、アイドルとプロデューサーという立場に変わって再び繋がってからもう一年が経とうとしていた。アイドルになっても昔以上に惰性に身を落とした俺とは対象的に、昔と変わらず生真面目な彼女は今日も今日とて、精力的に仕事を取ってくる。
「え〜〜もう今日の双海くんは閉店です。 またのお越しをお待ちしています」
「まあまあ、そう言わずに営業時間少しくらい延長しようよ」
冗句にしっかり乗りつつ、新曲を録り終えた直後で既に帰る気満々の心情を察したように、逃すまいと先手を打った細い手は俺の腕をしっかり掴む。そうして、もう片方の手には件の仕事のチラシと思しき紙切れを携えて「どうかな!」と、嬉々とした笑みを浮かべている。嗚呼、面倒くさい――俺はげんなりとした声色も溜息も隠さぬまま、紙面を陣取る題字に目をやった。
中央にはホテルの完成写真が大々的に載せられており、チャペル付き、豪華プール付きという時代錯誤も甚だしい、富の象徴のようなホテルの説明を流し読みしつつ、最後にホテルの経営者名を見て――成程。合点がいった俺はもう一度、深い溜息を零した。
「俺に、じゃなくて“赤羽根”に頼みたいって言ってるんじゃない? 実家が何度かこの会社から依頼、受けてたしね」
自分個人に生け花をしてほしいという仕事内容からして、嫌な予感はしていた。理由は単純で、Lancelotというグループの知名度は多少上がってきた自覚はあるものの、赤羽根双海という一個人にわざわざ仕事を持ちかける物好きが居るとは思えなかったからだ。赤羽根双海が華道の家に産まれたことを知る者は業界にだってそう多くないし、それがファンでもない一企業となれば、珍しい名字と言えども赤羽根から華道を彷彿とするだけの繋がりがあるということ。そして予想通り、経営者の名前は自分がまだ家にいた頃に参加したパーティーやセレモニーの主催者であった。もっとも、記憶にある限り件の会社に纏わる花を生けたのは全て兄で、自分は裏方として準備をしていただけ、なのだけれど。常通り赤羽根家に――もっというと贔屓にしている兄に頼まず、わざわざ一介のアイドル事務所を通し、自他共に認める愚弟の己に依頼するなどという遠回しな手段を取る理由がわからない。
ただでさえ仕事嫌いの身に寄せられた、疑心を抱かせるには充分すぎる内容に俺が訝しむのを察したらしく、彼女が遠慮がちに唇を開いた。
「えっと……あちらからは確かに赤羽根さんになら信頼できるし弟さんの作品も是非って話だった、けど。 でもね、Lancelotにも演奏を頼みたいってお話も頂いているの」
「ん〜〜……花生けるのは嫌いじゃないけどさぁ、人に見られながらはちょっとね。 Lancelotとしての演奏だけでも良くない?」
「…………赤羽根くんは、生け花、したくない?」
「したい、したくないじゃなくて適材適所の問題っていうの? “俺”じゃなくて“赤羽根”にどうぞ、って伝えといて」
この話はこれでお終いという意思表示も兼ねて、彼女の手をやわく払って背を向ける。
「違うよ。 私は、貴方の意思を聞いてるの。したいか、したくないか」
「そりゃもう、面倒なことはしたくない」
「もう……どうしてそう、いつも不真面目というか、突っ掛かるかなあ」
悪びれもせず面倒と笑って見せても、手を払われて、背を向けられても、その程度で諦めるような“プロデューサー”なら、あの一誠が認める筈もない。食い下がる彼女の視線も言葉もどこまでも真っ直ぐで、居心地は最悪だ。だって、この眼に見つめられると、心臓が、苦しくなる。
「そりゃあ、あれでしょう」
「? あれってなに」
「単純に俺とキミの相性が悪い、それだけのことだよ」
心臓をあげる:華房心(羽川)
さらり、と流水を想わせる程の艶やかな髪が揺れるのを目に入れた瞬間、無意識に溜息を吐いていた。それはこのスタジオ内の誰もが同様で、男性でも女性でも性別を問わず――彼に意識を奪われていた。
「お疲れ様でした!」
特に大きなトラブルも何もなく、無事に撮影が終わった瞬間。華やかな笑顔と共に中性的な声が発した声がスタジオに響く。それに呼応するようにパチパチ、と拍手が撮影セットから降りた心に浴びせられた。スタッフさんに愛されているなあ、私も嬉しい。
胸の内で仄かに喜びながら他のスタッフと同様に心に拍手を送っていたプロデューサーの横に、中肉中背、そんな言葉が似合う男……今回のディレクターがそっと寄り添い立った。
――いつもながら、心さんの気配りは素晴らしいね。
プロデューサーの耳元で囁くように吐かれた言葉に、ひっ、という小さな悲鳴と共に彼女は肩を震わせる。
「プロデューサー」
むすり、漫画だったならばそんな擬音を顔の横に携えていそうな心がプロデューサーの名を呼んだ。
「ご機嫌損ねちゃったかな……?」
苦笑と共にその男はプロデューサーからぱっと離れるとひらひらと手を振った。心はそんな男を一瞬だけ睨め付けると、すぐにぱっと表情を笑顔に変えた。
「お疲れ様でした!今日の心、どうでした?」
流石華房さん、と瞳をきらりと瞬かせて心を見るプロデューサーに反して、何かを感じ取ったのかディレクターはひくり、と口元を引き攣らせて「あ、ああお疲れ様……今日も最高だったよ」と早口で告げるとそそくさとその場を去って行った。
「あ、あれディレクターさん……?」
「プロデューサー、行くわよ」
さらり、先程と同じく桃色の髪を揺らして、心はプロデューサーに手を差し出した。プロデューサーはというと、それに戸惑って手を眺めたまま立ち止まってしまうのだが、心はくるりと振り向いて「ん!」と再び手をプロデューサーに向けて伸ばした。それでも「ええ」と渋るプロデューサーについに痺れを切らしたのか、心は無言でプロデューサーの手を掴むと今度こそ歩き始めた。
びっくりした、とプロデューサーは心の中で小さく声をあげていた。重なった掌の温度に、何故だかむず痒い気持ちを覚えてしまう。
(華房さん、意外と手大きいんだなあ……男の子、なんだなあ)
目の前の心の小さな背中を眺めながら、改めて事実を確認する。そう、この綺麗な女性に見える子は、紛うことなく男性なのだ。
プロデューサーが初めて心と出会った時には既に、彼は“華房心”として生きていた。
心は男の娘、という特殊な形で生きていくことを誰よりも誇りに思っている。事実それを仕事という形で昇華していた。初めて出会った時からプロデューサーにとって心は“華房心”という性別等で区別の出来る存在ではなく、ただ一人の個人であったのだ。プロデューサーにとって、心は出会った時から既に高潔な存在の様に、それこそ、正しく彼の様な人間がアイドルになるのでないだろうか、と思っていた。
現場ではスタッフ一人一人に声を掛け、気を遣うことを忘れない。自分の終わった仕事を必ず振り返って、次の自分の糧にする。現場では、常に笑顔を忘れない。
それは全て、心が努力しているから成り立つことだ。プロデューサーは自分の担当しているアイチュウをとても誇らしく思っている。心もまた、自分を光り輝く場へと引き上げようと努力を重ねてくれているプロデューサーに常に感謝している。
そんな二人に訪れた、唐突な出来事。プロデューサーが吃驚したのは何も、心が男だと再確認したから、というだけではない。そうして積み上げてきた二人のイメージが一気に崩れてしまうような、心のディレクターへの態度に驚いていたのだ。先程も述べた通り、心は誰にも笑顔で、常に心象が良くなる様に接していた。というのに、突然スタッフもいる中でのこの行動に、プロデューサーは驚きを隠せなかったのだ。
「は、華房さん……」
「ちょっと黙ってて」
仕事が終わったと同時に、普段ならば確認に向かう筈の心が自分の手を引いて楽屋へと一直線に戻っていることが現実だと到底思えない。どうしよう、結局のところ自問しても何も出来ず、プロデューサーは心に言われた通り静かに黙ったまま、心に手を引かれて楽屋に向かうことしか出来なかった。
貴女が欲しい:山野辺 澪(友人)
『辛い事を乗り越えた先は嬉しい事が待っている』それは、まだ今よりずっと小さい僕に、エヴァ様が教えてくれた魔法の言葉。
その頃の僕といえば、同級生に「捨て子」と揶揄されるたび、僕はそいつらに石を、暴言を投げつけて、施設の裏庭に逃げ込んでいた。
親に捨てられた自分の境遇を憂いてなどいなかったが、日々学校に通いながらも僕を育ててくれたエヴァ様が、ただ血が繋がっていないという理由だけで蔑ろにされていることが悔しくて、一人で膝を抱えて泣いた。そんなときエヴァ様はいつも決まって僕を探しにきて、ただ頭を撫でながら決まって言うのだった。
『今は辛くても、乗り越えればきっとその先は嬉しくて、楽しい事が待っているから。だから泣くだけ泣いたら、前を見据えてまた進もう。澪にはその強さが備わっている。なぜって――澪は、我の家族なのだから』
エヴァ様の言葉は、悔し涙も忘れるくらい強くなった今も、僕の中に根付いている。けれど。
*
「……〜〜っだからって、やっぱり我慢でーきーなーいーっ!」
「っわ!み、澪どうしたんっすか、いきなり大声だして」
「誰のせいだと思ってんだよクズ!」
この間プロデューサーと食べに行ったケーキ屋なんすけど――そう切り出して、蛮が無邪気に彼女と出かけたことを語り始めたのは撮影の休憩時間にはいって直ぐのことだった。
今日はRE:BERSERKのフォトブックの撮影だけがスケジュールの大半を占めており、移動時間が嫌いな僕にとっては一箇所に常駐していられるぶん、常より気分が良い仕事だった。そう、蛮がこんな話をし始めなければ。エヴァ様とプロデューサーが打ち合わせで席を外していなければ、こいつと二人きりでなければ、最高の一日だったのに。
ショートケーキよりもモンブランが美味しかったとか、セットになってるカフェオレの香りが良かったとか、プロデューサーさんがクリームを顔につけるというベタな事をやってたとか。尊いエヴァ様の教えを反芻しながら聞き流していられたのは、情けないがものの数分で。苛立ちが頂点に達した時、ついに喉奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出して蛮の座っていた椅子を力いっぱい蹴っていた。
「そんなに自分だけプロデューサーさんとケーキバイキング行ったの自慢したいのかよ!」
「んなつもり無いっすよ!第一、澪がロケで外出てたから誘いたくても誘えなかったって言ってるじゃないっすかぁ〜〜」
「あっそ。本当に誘うつもりがあったのか怪しいもんだね、前科だってあるし?」
「前科……?」
僕が散々自分を冷静に保とうとした努力を微塵も知らない、知る由もない蛮は、そのくせ突然怒り散らす僕に食って掛かるでもなく、先程まで崩していた相好を引き攣らせて、心配そうにこちらを見て首を傾ぐ。そういう鈍感で、愚直な優しさが僕の憤怒を一層昂ぶらせるとも、やはり知らず。
「この間の取材の同行に、教会の撮影……ハロウィンの時だって、一緒だったくせに」
「んなこといっても大半は仕事だし。つか、エヴァ様だって仕事のときはプロデューサーと一緒じゃないっすか」
「エヴァ様は!……エヴァ様、は」
まるで魔法にでもかかったように、エヴァ様はいいの、と言おうとした唇が意図せず止まった。
「エヴァ様は?」
蛮は不思議そうに、さっきとは違う方向に首を傾いだ。僕は、エヴァ様は特別なんだからと続けることも叶わない重い唇に、指をあてる。何にも変になっちゃいない。
今の今まで、自分が苛立っているのを自覚していても、苛立つ理由は明確ではなかった。エヴァ様に僕のことだけを見ていて欲しい感情に似たものを彼女に抱いているのは断言できたから、追求するまでもないと本気で思い込んでいた。あくまで此れは親愛で、彼女が僕より蛮ばかりを構うことが気に食わないだけだと、そう、思っていたのに。
「〜〜っお前になんか言うもんかバーーカッ!!」
「いっ痛い、痛いっす澪!お菓子投げちゃダメ――」
「ちょ、ちょっと澪くん、蛮くんどうしたの!!外まで声聞こえてきたよ!」
「お前たち……また喧嘩か」
重たい扉が開く音と共にその人の声が聞こえてくると、安堵と切なさが綯交ぜになった熱いものが胸に広がって嫌でも気付かされてしまう。
エヴァ様がプロデューサーと二人きりで過ごしていることさえ本当は、蛮に思い出話を聞かされるのと同じくらい嫌だと思ってしまっている自分に。
現の夢と、:轟一誠(羽川)
「……」
「……」
その時、轟一誠は目前にいる人物が固唾を呑む様子に頭が痛くなった。その人物は漸く現状に気が付いたのか、手に持ったグラスを机に叩き付けるように焦りながら置いた。その表情からはしまった、というのがありありと伝わって来てしまい、一誠は更に頭が痛くなった。
「お、おひゃようごひゃいまふ!」
「……今、夜だぞ」
――
轟一誠はその日、Lancelotとしての撮影が入っていたのだが、ダブルブッキングという予期せぬ事態により唯一入っていた仕事が立ち消えた。兼ねてより、夕方には訪れようと思っていた場所があったので、結果としてそれを前倒しにしようと考えて一誠は鷹通と双海と別れたのであった。
支度を整え、漸くビルを出た所で鷹通が立っていたのだが、何かを思案している様子であったので、一誠は声を掛けるのを憚られたのでそっと横を通り抜けた。と思えば、知らない女に手を引かれて隣を駆け抜けていったので、奇妙な状況に、一誠はクエスチョンマークを浮かべてしまった。
そんな珍事を迎えながらも、一誠は目的の地へと漸く辿り着いた。
とある繁華街を外れた住宅街にひっそりと建つ、外観は海外のパブの様な出で立ちをしている小さなジャズバー。この店を一誠が見つけたのはアイチュウになってすぐのことで、たまたま店の前を通った時、店の前に出ていたブラックボードの“ジャズバー”という文句に惹かれて訪れたのであった。
一誠が初めて訪れた時は夕刻時、十七時を過ぎた頃であった。入口の扉を開けば、カラン、と鈴が鳴った。中にはカウンター席、テーブル席が並んでいて、座れる人数は明らかに少ない。その場に居た人たちは明らかに常連といった様子で、中には本を読みながらコーヒーを煽っている者や、英字新聞を読む者もいる。
一誠は取り敢えず、店長であろう人物がコーヒーを淹れている目の前のカウンター席に座った。老紳士という言葉が似合う、老齢のマスターは目の前に座った一誠に蓄えた白髭を揺らして微笑みかけた。手渡されたメニューを一瞥し、ブラックコーヒーを注文した一誠は、コーヒーを淹れるマスターに、この店の説明をされる。
昼間はマスターオススメのクラシックが流れるカフェ、夕刻を過ぎればジャズが流れる粋なバーとなる。へえ、と感心したように頷くと同時に出されたコーヒーを口に含んでみれば、鼻腔へと抜ける香ばしさと味の深みに舌鼓を打ってしまう。どうやら十八時を迎えると店内はジャズバーへと切り替わる様で、
そんな出来事の後、この店をすっかり気に入ってしまった一誠は、考え事をするにも最適なので隙を見ては訪れていたのだ。
今日もまた、雑誌撮影が終われば訪れようと考えていた折の出来事であったので、どうせならばカフェもバーも堪能しようと思っていた矢先のこと、である。
一誠の気に入っているカウンター、マスターの仕事振りをまじまじと観察出来る特等席とも呼べる、マスターの正面の席。そこにぐずぐずと鼻を鳴らしながら、一人の女が座っていたのだ。
時刻としては十七時半を少し過ぎた頃、まだこの店はカフェとして運営している時間帯だ。だというのに、仄かに風に乗ってくる香りから、その女のグラスには酒の類が淹れられていることがはっきりとわかる。
別に一誠は、見知らぬ女が喚き散らしながら酒を呑んでいれば迷惑だと告げるだけだ。だが、今回の場合は違った。ぐずぐずと嗚咽交じりにマスターへと零す愚痴の中身には”Lancelot”という言葉や“一誠”、や“鷹通”、“双海”、“クマ野郎”等聞き覚えがあると言葉ばかりがつらつらと並べ立てられている。
はあ、何だか頭が痛くなってくるその状況に、小さく一誠が息を吐いた瞬間、何かを察したのかその小さな背中がぴくりと揺れて、がばっ、と身体ごと振り向いた。
……そして、冒頭へと至る。
――
「ったくお前……」
「いやはや、いっへーさんもあのおみへふひなんへふね!」
「……まだ酔ってんなお前」
千鳥足で隣を歩く、先程までマスターに愚痴を零すロボットの様になっていた一誠含め、鷹通や双海のプロデューサーでもある彼女を見つめながら一誠は再び溜息を吐いた。先程から、何度溜息を吐いたかわからない。そもそも数えてはいないが、軽く十は超えているだろう。どうして自分が…という気持ちで一杯の一誠に対して、べろべろに酔ったままのプロデューサーは一誠の目前にぴん、と人差し指を立てた。
「よっへまへん!」
「酔ってない人間だったら正しい発音出来るだろ」
「いっへー!」
「言えてねえ」
Just for me. :三千院 鷹通(ゲスト様)
大人になると、どうも自分の気持ちを正直に吐き出すことが、躊躇われる。小さい頃は、周りや相手の気持ちなんて考えずに、心に浮かんだ言葉を伝えていた。それが、出来なくなってしまった。そんな昔と比べ、結構時間が経ってしまった、と少しの自重の上に少しの不安が募る。けれども姿見に映る彼の表情は、ひどく穏やかだった。今は、怖くない。
「失礼致します」
背後から聞こえ視線だけ追うと、昔から世話をしてくれた老執事――爺が、深々と頭を下げた。シャツのボタンは上まできっちり留められ、まっすぐと伸びた白いヒゲが綺麗だった。お着替え中に申し訳ございません、と言いながらモノクルを弄りつつ音を立てずに扉を閉じる。と、同時に。
「ぼっちゃま、お準備はいかがですかな?」
「さっき終わった。それから爺……ぼっちゃまはやめてくれ! 俺はもう25歳だぞ!」
「鷹通ぼっちゃまは、いつまで経っても鷹通ぼっちゃまですからな」
「どういう意味だっ! 全く……」
ネクタイを締め終わると、失礼、と爺が鷹通のネクタイをきっちりと締めなおす。制服に始めて自分で袖を通したとき、こうしてよく爺にやってもらっていた。時間が経って自分でマスター出来た時は、既に忙しく時間も取れず。アイドルを始めてからは家に帰る頻度も少々減った。同じくらい、爺達に顔合わせや、直接世話をしてもらえる事にもなかなか巡り合わなかった。
爺もだいぶ歳を重ねているのに、こうして献身的に、三千院家に勤めてくれている。子供扱いは直らないが、それでも鷹通にとっては本物のおじいちゃんがもう一人居るみたいで、こんな風に言葉を交わせるのが嬉しかった。
爺は、鷹通が生まれてから既に三千院家に勤めていた。父親にとっては本人曰く、祖父のような、友人のような、親友のような、相棒のような人物らしい。なんとも曖昧で、それ以降掘り下げる気もなかった。けれど、仲が深まるうちに、叱ってもらえるうちに、段々と彼がどんな人生を送ってきたのか、どうしても気になってはいた。それを本人に吐き出しても、『ただの、執事に御座います』としか返してくれない。けれども初めてその言葉を聞いた日以来、鷹通は『クールな大人』に憧れ始めた。隠していたけど、案外バレるもので。どうか無理をなさらず、と毎回頭を撫でられた。
「なあ、爺。俺は、変わったか」
彼の友達である二人ともう一人は、そんな鷹通を『クールな大人』ではなく、『ちょっとかっこつけてる』と捉えた。だから悔しくて、どうしても納得させたくて、無理な背伸びをするのではなく、理想に近づけるよう未来のためにも自身のためにも努力を重ねた。
「私にとっては、どんな貴方も鷹通ぼっちゃまでございます」
「爺にとっての俺は、どんな俺なんだ?」
「ほっほっ。泣き虫で、優しく、強いお方にございます。もし――」
よく誰かに馬鹿にされた時、こうして家で泣きながら爺に訪ねた事があった。すると決まって、爺は笑いながらこう答えるのだ。爺もそれを分かってか、一度咳払いをして、何度も繰り返された台詞を優しく伝える。鷹通は全て聴き終わると、ありがとう、と残し正されたネクタイをスーツに収め、部屋を後にした。
と同じタイミングで。部屋の外で気配を消しながら佇んでいた彼女も、音を立てまいとしながら慌てて駆け出した。
*
三千院家は敷地面積がおよそテーマパーク1つ分、客を出迎えたりや普段寝泊りする本館が大体、鷹通の通っていた高校と同じくらいだった。そこから更に大きな庭のような森、それから離れもあるのだが、過ごす分には利用せずとも困らない。三千院家の『本館』の2階、家で一番小さなバルコニーで、鷹通と、そのプロデューサーである彼女は、軽い食事を終えて一息吐いた所だった。冬には珍しく、夜空に星が煌々と瞬いている。
鷹通と同じユニットのメンバーである一誠や双海とは、昔も今も、よくここでダラダラと過ごしていた。しかし、そこに彼女を呼んだことは数える程しかない。今回こうなったのも、全ては偶然、たまたま。
「十文字君に、渡してあげたら?」
「元よりそのつもりだ。あそこまで頼まれたのなら、喜んだ顔を見てやりたい」
蛮がスクールで、スタッフから頂いた差し入れを食べている最中のこと。ふと、10年以上前に食べた、名前も知らない洋菓子にそっくりだと気付いたらしい。するとなんだか徐々に食べたくなって、独り言のようにあの洋菓子店に行きたい……と呟けば、それを偶然鷹通が聞きつけ。
しかも、偶然、現在は三千院家のパティシエとして働いているらしい。自慢したくて告げたはずなのに、ものすごい食い付きだった。しかも最後の方は手を握って上下左右に勢いよく振り、『ぜーーーったい、今日は鷹通の家に行くっす!』と豪語したものの。彼の所属するリ・ベルセルクはリーダーであるエヴァの提案の下、今夜から三日間、ヨーロッパに出張だった。
「スクールから直接空港へ移動って、大変だねぇ。ユニットのイメージをもっと強固なものに! ってエヴァ君言ってたけど、澪君は完全に旅行気分だったし、十文字君は帰国したら真っ先に三千院君のところに行くからね! って何度も言ってたし」
「そういえば、ヨーロッパじゃ日本語通じないだろ。誰が喋るんだ?」
「あっ。IBのメンバーも明日から三日間、オフだった気がする」
と、そこで彼女は手前にあったマドレーヌを一口、口に運ぶ。はちみつの味がゆっくり溶けて広がり、噛めば噛むほど落ち着いた気分になれる。
「……やっぱり意外だな。お前がそこの洋菓子を知っていたなんて」
「そりゃあ、まあ」
前に『高いけど食べたことないくらい美味しいお菓子屋さん』の噂を聞いて店の前にまで行った事があった。赤い傘を半分切り取ったような屋根と、立てガラスが三枚はめ込まれただけの、ビルに設置されたお洒落なお店だったと記憶している。ショウウインドウ越しに確認出来た値札で、とてもじゃないが入る気は起こらなかったのだ。けれどこうして、鷹通のおかげでアッサリ夢叶ってしまった。
「三千院君、本当に何でもできるんだね」
「出来る事は、だがな。お前だって、これだけの数のアイドルの面倒を見てるんだ。それって、すごいことじゃないのか」
「そんな事は、ないよ。きっと、三千院君にもできるよ」
「いいや、ダメなんだ。昔から子供には泣かれるし、他人の面倒なんて見切れない。自分とあいつらと……後は、お前だけで手一杯だ」
「……私、三千院君に何かしたっけ?」
思い当たらなくていい。なにせ、若干八つ当たりのようなものなのだから。鷹通ははぐらかすようにせせ笑い、ワインを一口煽った。今夜は満月だ。輪郭までハッキリと捉えられる。続いて、彼女も空を見上げた。
「三千院君にとっての私って、どういう風に映ってるのかな」
「昔から思った事は即行動するじゃじゃ馬」
「……。じゃあ、私から見た三千院君は、どうだと思う?」