月なんて、何時振りに見ただろうか。こうやって只夜空を見上げて、過ぎていく時間に身を委ねる。そうしていると、何か動いていなければいけないような焦燥感がちりりと胸にくすぶる。嵐の様な忙しさに慣れてしまった弊害だ。




「静かだなー」




精霊廷通信の脱稿が終わった後の九番隊隊舎は、張り詰めていた糸が切れた後の様な、緩やかな静寂に包まれる。あたしはその静けさが訪れると、直前まで走り回っていた隊舎の縁側でお気に入りの酒を独りで嗜む。自分へのご褒美、というやつだ。



酒瓶を傾けて猪口に注ぐ。と、後ろに知った霊圧。




「またそんなとこで飲んでんのかよ」



「…よう、副隊長殿」




疲れ切った声に振り返ると、檜佐木が腕を組んであたしを見下ろしていた。目の下のクマが、月明かりでもはっきり見える。




「そんなしんどそうな顔してんなら休みなよ、あんたがへばったらしわ寄せはあたしに来るんだから」




隊のナンバーツーの檜佐木が休めば、三席のあたしに仕事が回ってくるのは当然の事。今でも十分忙しいのに、これ以上は無理。




「そんな事するかよ、仕事は俺がちゃんと引き受けてんだから」




檜佐木のその口調は、副隊長としての責任感以上の重さを含んでいるようで。あたしは自分の中にもその重さがのし掛かってきたのを感じた。




この重さがあったところに、今まではまっていたものの、存在。あの一件の後から、檜佐木は空いてしまった場所を埋めようと、ただその為に動いているように見える。あれから時間はそれなりに経ったけど、未だに彼の中には穴が空いているのだろうか。




「ま、無理はするなって事よ。いる?」




そう言ってあたしが酒瓶を軽く持ち上げると、ん、とだけ言って檜佐木はあたしの横に座り込んだ。月明かりの所為か、顔に走る傷がいつもより強く存在を主張している様に見えた。




猪口は一つしかないので、あたしの使っていたものに酒を注いで渡す。檜佐木はゆっくりと上を向いて飲み干すと、そのまま顔を下げずに空を見上げた。視線の先には、満月を過ぎた、ほんの少し形の歪んだ月。




「…一度さ、月は綺麗かって訊かれた事があんだよな」




檜佐木がぽつりと呟く。誰にか、なんて訊かずとも分かる。檜佐木の、あたし達の信頼を根こそぎ奪って、暗い暗い空の切れ目の向こうに行ってしまった、盲目の上司。




「で、何て答えたの」



「綺麗だけど、綺麗すぎて好きにはなれないって」




綺麗すぎる、ね。何とも檜佐木らしい答え。何事も綺麗だけじゃないのを知っているから。だからこそ、割り切れないまま月を見て消えた上司を思う。まあ、彼がそれだけ信頼を寄せていたから割り切れないのは当たり前なのだけど。




「で、その後は何て」



「自分には綺麗かどうかは分からないが、優しいとは思う、って」




やはり、あの人らしい答え。視えないことを恥じず、それでも自分の感覚を信じて、真っ直ぐ歩く人だった。だから、あたし達は何の迷いも無く後ろを歩くことが出来たのに。




その導が無くなった今、あたし達が頼るのは間違いなく目の前の檜佐木、副隊長。中の葛藤、外からの期待と依存。あたしには到底耐えられないだろう、重圧。きっと恨み言も言わずに彼は何もかもをこなすんだろう。あたしでは代わりなんてなれないし、三席という役目を抱えてる以上、これ以上の助けは出来ない。そう自覚する度に膨れ上がるあたしの中にある無力感。自分で手一杯、それは彼も同じ筈なのに。前と同じく振る舞う檜佐木は愚痴もこぼさず、同期のあたしにさえ隙を滅多に見せない。ああ、自分に出来る事なんて無いのかと彼を見る度に吐きそうな位の痛みが心臓の辺りに走る。



檜佐木は間違ってもあたしに縋ったり助けを求めたりはしない。けど、今ならば、今みたいに少しだけ彼が弱音を吐くのを堪えてるような、そんな時くらいは、少しでも救えるだろうか。あたしでも、彼を。




「あたしには月見ると月見団子しか思い浮かばないけどね、この間阿散井から美味しい和菓子屋教えてもらったし」



「…お前のそういうとこ、良いなと思うわ」



「褒め言葉として受け取っとくわ。もう一杯、いる?」



「ん、頼む」




あたしは隊長のように、彼を導く月にはなれないから。せめて彼の眉間の皺が少しでも緩むように。その目が少しでも穏やかな光を灯すように。僅かな光でもいい、彼の心を少しでも暖かく照らせたら。あたしにはそれくらいしかできないから。せめて、彼の為に笑っていようと思うのだ。





せめて、君の六等星でいよう



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