あわい、あわい
後編





「…知り合い?」

隣にいる彼女はきょとんとして小声で臨也に話しかけた。臨也ははっとして我に返る。静雄は仕事帰りなのか、スーツ姿だった。背の高い彼にはよく似合っていて、大人の雰囲気を更に濃くさせていた。

「…まあ、その…えっと」
「…学校帰りか?随分遅いな」

臨也がぼそぼそと言葉を濁していると、静雄はそれを遮るように笑って言った。臨也はなんだか嫌な予感がした。

「…うん、…」
「いーなぁ、可愛い彼女で〜」

ああやっぱり、そうだ、彼はこういう人だ。その言動には何の意味もなく、ただそう思ったから単純に口に出したのだろう。隣の彼女はその言葉に顔を赤くなんかするもんだから、余計に彼は信じ込むはずだ。臨也はぐっと鞄のベルトを握り締めた。

「いや、その」
「まあ、気持ちはわかるけどよ…あんまり羽目、はずすなよ」
「だから、」
「お、…そういやドラマあるんだ、帰らねえと!臨也、また遊びに来いよ」

じゃあまた、と静雄はくるりと背を向け、あっという間に去っていってしまった。臨也はここが道路であろうとも構わない、ごろんと寝そべってしまいたい気分だった。いや、寝そべるだけでなく、手足をばたつかせて喚きたいくらいだ。なんだかもう一歩も…歩ける気がしない。

「…折原、くん?そ、そのっ…私、あの、全然気にして、ないから…」

いや、俺はとても気にしているよと臨也はすぐさま心の中で突っ込んだが、口には出さず苦笑だけしておいた。女子寮の門まで彼女を送って別れると、臨也は我慢していた盛大なため息を思いっきり吐いた。このままではまずいと、気が気ではなかった。彼のことになると、本当に余裕がなくなるのだ。









その日、静雄は残業だったため帰りが遅かった。駅前でファーストフードの夕食をすませ、ぽつぽつと光る街灯を目印に家路を歩く。慣れないデスクワークに、静雄は首や肩の痛みを感じていた。

(…早めに寝ねぇと…)

まだ週末までには日がある。大学の頃とは打って変わった、忙しい日々が続いている。次の休みは朝から思いっきり寝てやろうと月曜日から決めていた。アパートに辿り着き、郵便受けを確認してから階段を上ると、静雄はぴたりと足を止めた。静雄の部屋の前に、誰かが座り込んでいるのである。

「…、」

静雄はそうっと近づく。座り込んで顔を埋めているが、着ているものはブレザーのようで、学生だとわかる。静雄ははっと気づいて、そこから早足で男の元に寄った。屈んで、ぽんと頭に手を置く。

「臨也」
「、……」

やっぱり臨也だったか。顔を上げた男を見て、静雄はふっと微笑んだ。臨也は静雄を見上げると、ポケットから携帯を取り出して時間を見た。そしてはあ、と息をつく。

「…やば、……門限…」
「あ…ああ、ごめん、俺残業で…じゃないや、なんでおまえ、ここに…」

臨也は携帯をパチンと閉じて立ち上がる。静雄は鍵を鞄から出して、鍵穴に差し込んだ。とりあえず上がれよ、とドアを開けば、臨也は少し迷ったようだが「…お邪魔します」と呟いた。

「連絡くれれば、もうちょい早く帰れたのに」
「…シズちゃんの番号、知らない」
「え?あー、そうか…ほら」

静雄は靴を脱ぎながら、自分のスーツのポケットに入っていた携帯を臨也に差し出した。臨也は不思議そうにそれを見つめている。

「赤外線で、移しとけ」
「………」
「できるだろ?なんか若い奴って、こーいうの得意だよなぁ」

臨也は無言で静雄の携帯を受け取り、靴を脱いだ。静雄はスーツのジャケットを脱いでネクタイも緩めると、冷蔵庫を確認した。昨日買ったばかりのウーロン茶のペットボトルがあり、それを取り出してドアを閉める。グラスについで、テーブルに置いた。

「ミルクティーより、いいだろ?」
「…うん」
「……なんかあったのか?」

臨也はカチカチと二台の携帯電話を操作する。静雄の携帯はそれはシンプルなもので、待ち受けは初期設定のままだし、電話帳も必要最低限の人数しか入れていない。臨也は携帯電話同士を向かい合わせた。

「……言いたいことあって、来た」
「言いたいこと…?」

静雄はソファにぼすんと座る。臨也もその隣に座った。赤外線通信が終わったらしく、臨也は携帯をテーブルに置いた。

「この間、会った時」
「…ん?」
「会った、じゃん。…俺、女の子と歩いてて」
「…ああ、」

そうだったな、と静雄は煙草を出そうとして、臨也の前だということを思い出して止めた。臨也は別に構わなかったのだが。静雄は代わりに自分の分のウーロン茶を手に取る。

「可愛かったな」
「…彼女とかじゃないから」
「へえ?…勿体無いな」
「……」
「おまえ、モテそうなのに」

そうして静雄はまた笑う。静雄の言葉には昔から裏表がなかった。この間もそうだ。だからこそ、辛い。臨也はぼそりと呟いた。

「…どうかな」
「ふうん?…で、どうした?」
「どうした、って…」
「え?…それだけ言いに来たとかじゃ、ないだろ?」

きょとんとした静雄の表情。コトンと静雄がウーロン茶をテーブルに置いたのを見計らって、その腕をぐいと掴んで体重をかけた。静雄は「、わっ」と短く声を上げる。ぼす、と背中をソファに受け止められる。静雄は思わず閉じていた目を開く。そこには臨也の顔と、天井が広がっていた。

「…臨、」
「…それだけ、だよ」
「……」
「悪い?」

この前告白を受けたあの女子生徒。あの子をこうして押し倒したら、きっと真っ赤な顔になって、上目ででも見上げてくるのだろうが、静雄は違う。驚いたような表情を見せるだけだ。

「…悪くは、ないけど…なんか、必死だな?」
「必死にも、…なるよ」
「俺は、女の子じゃ…」
「知ってるよ!」

思わず声が大きくなる。臨也には静雄しか見えていなかった。どんな可愛い女の子でも、どんな綺麗な女の子でも、臨也の瞳には映らなかった。臨也は静雄だけを見て、静雄だけに恋心を抱いてきた。

「知ってる、…けど、」
「…臨也?」
「俺はっ……」

静雄の目は真っ直ぐに臨也を見ている。そこで臨也はある恐怖を感じた。このまま、静雄にこの想いをぶつけて、静雄に拒絶されたら。せっかく出逢えたのに、こんなにすぐに壊してしまうのは嫌だった。臨也はそっと静雄から手を離した。微かな温もりを離すのが、こんなにも切ないことだなんて。

「……なんだよ?気になるじゃねぇか」
「…やっぱり、いい。忘れてよ」
「……おまえ、彼女作んないんだってなぁ」

呟いた静雄の言葉に、臨也は驚く。そんなこと話したっけ、と考えていると、静雄はゆっくり起き上がった。

「こないだ会った…次の日くらいか。おまえと一緒に歩いてた女の子を、駅前のコーヒー屋で見たんだよな。偶然にも、後ろ側の席で」
「…そう、なんだ」
「何人か女友達といて。そこで聞いたんだよ…折原くんは、彼女作らないって。告白もやっぱりダメだった、けど昨日一緒に帰ってもらった…って、まあ…」

だから知ってたんだよ、と静雄は言う。臨也はどこかほっとした気持ちになった。ここ数日、誤解されていないか、それだけで頭がいっぱいだった。静雄には、静雄だけには、誤解なんてされたくなかったのだ。

「さっきも言ったけどよ、…勿体無いなぁ」
「……いいんだ。…一途に生きるから…」
「…好きな子はいんのか。ああ、だから彼女作らねえって……」

臨也はソファの背もたれに体重を預け、目を閉じた。昔から疎いし鈍感だとは思っていたが、まさかこれまでとは。いや、伝えなかった自分が悪いのだが、少しくらい気づいてくれてもいいのではないか。静雄はうーん、とか唸りながらリモコンを手に取った。

「同年代?」
「…いや、年上」
「へえー、先輩かぁ」
「…間違っちゃないけどね」
「どういう感じ?」
「…金髪で、…甘いものが好きで、…今はどうか知らないけど、昔はバニラシェイクが好きだったな」

臨也が目を開ければ、静雄がこちらを向いていた。そうっとその薄い唇が開かれる。

「…俺も、好きだった、つーか、今も好きだけど」
「…ああ、バニラシェイクのことね」
「俺も年上だし、金髪だし、甘いもん好きだ、し……んん?」

静雄のつけたテレビから、バラエティ番組の軽快な音楽や笑い声が流れてくる。だが臨也と静雄の耳にはその音は全く入ってこなかった。ゴトン、と静雄の手からリモコンが落ちる。

「…あれ?」
「……ここで気づくって、…どうなの、かな…」
「……え、…っちょ、…え、お、俺…え、……俺?」

かあああ、と一気に静雄の頬に赤みが増す。ここで余裕に笑えたら臨也も大人だったのだが、自分の顔も急に熱くなったのに気がついて、臨也は右手の甲で自分の頬に触れた。案の定、手が冷たいと思うほどに熱かった。あわい恋は、ひとつ色を足した。



201104