夢の中で見た、
のに






夢を見ている。ここはどこだろうか。知らない街だ。人がたくさん行き交っているが、物音は何ひとつ聞こえない。

「…、…っ」

そんな中、微かに聞こえたしゃくり上げる誰かの声。俺はきょろきょろと辺りを見回してみるが、人が多すぎて波に飲み込まれそうになる。その声はどこから聞こえているのだろう。

「……、っ、く」

ああ、この夢は。この辺りでいつも気づく。この夢は、昨日も、その前も見た夢だ。同じ夢を繰り返し見ていた。そう、この後俺は、ある男を見つけ出すのだ。人の波に逆らって進めば、道の真ん中で立ち止まっている男を。

「……」
「、…っひ、っく」

周りにたくさんいるはずの人間は誰一人目もくれない。まるで俺しか気づけない存在とでも言うように。けれども俺は彼を知らないのだ。今日もまた、その姿は見つけるのに、君の名前も顔も何ひとつ知らないのだ。男はずっと泣いていた。初めて見つけたその日から、ずっとずっと泣いている。

「う、…っ、」

ぽたりぽたり、と地面に落ちるその涙は、アスファルトに吸い込まれていく。その涙が落ちて弾けるその瞬間、俺の心がツキンと痛む。それでも思い出せないのだ。一体君は、誰なのか。








「起きたか?」

目を開けると、そこは右も左も真っ白な空間だった。その中で唯一光を持ち、金色に輝く髪を見つける。臨也はそっと身体を起こした。

「…うん」
「よく寝てたな。…ああそうだ、これ、食べるか?」

彼、は包丁を器用に動かし、真っ赤な林檎を剥いていた。皿の上には既に綺麗に切られた林檎が並んでいる。彼は笑って臨也にそれを差し出してきた。

「…今はいい。…まだちょっと、眠いんだ」
「そうか。…じゃ、切るだけ切っとくな」

そしてまた包丁へ意識を集中させる。しゃり、しゃりと静かに林檎を剥く音だけが響いた。部屋の中には臨也の寝ているベッドがひとつと、イスが2脚。そのうちのひとつは、彼がいつも座っている。金髪の彼。…名前は、

「…ねえ、静雄くん」
「なんだ?」
「……また夢を見たんだ」

臨也はぼそりと呟いた。静雄は林檎を剥く手を少しだけ止めたが、またすぐに再開した。彼の名前は静雄だ。平和島静雄。仕事があるだろうに、臨也の元にずっといてくれている。優しい男だった。…今の臨也の中にあるのは、そのくらいの情報だけだ。

「あの日からいつも見る、ほら前も話した、あの夢だよ。…あの夢を見ると、いつも不安になる」
「……そうか」

あの日。5日前のあの日、臨也は全ての記憶を失った。公園にある階段から落ちて頭を強く打ったショックで、自分の名前も、家も、何もかもを忘れてしまったのだ。今、臨也の頭の中には、5日間のうちに覚えた必要最低限のことしか入っていない。

「臨也、全部剥けたぞ。…冷蔵庫、入れとくな」
「あ、…うん、ありがとう」

階段からは落とされたのか、自分から足を踏み外して落ちたのか、覚えていないのでわからない。夜の公園で、通りすがりのカップルに発見されて救急車を呼ばれなければ、もっと酷い状態になっていたかもしれないと医者は言った。幸いにも命には別状はなかった。そんな臨也の病室に、一番に来てくれたのが、この静雄だった。目を見開いて、その手はかたかたと震えていて。

「…悪いな、ちょっと煙草吸ってくる。すぐ戻ってくっから、」
「うん、いってらっしゃい」

申し訳なさそうに笑って、静雄は病室を出て行った。静雄はよく笑う。臨也が記憶をなくしたことを知った後から、臨也に心配をかけさせまいとしてか、よく笑ってくれた。臨也の高校時代からの友人らしいが、静雄は詳しくは言わなかった。『おまえのことは、よく知ってる』としか口にしなかった。高校時代からの友人、というのは、同じく友人であったらしい新羅という男から聞いた話だ。

(……誰なんだ)

静まり返った病室で、臨也は再びごろんとベッドに横になった。眠ればまた、夢の中のあの男は泣いているのだろうか。逢えば辛い。君が泣いていると辛い。けれど解決しようにも、君がわからない。







臨也が記憶をなくした。何ひとつ憶えていないのだという医者の言葉を、静雄はまず信じることができなかった。だが、実際に病室で臨也を見ると、信じざるをえなかった。

『…俺、憶えてないんだって。ごめんね、…君は、誰なのかな?』

ああ、本当なのかと静雄は目の前が真っ暗になるようだった。それでもなんとか、唇の端を上げることに成功した。

『…平和島、…静雄だ。おまえのことは、よく知ってる…』

それだけ言うのが精一杯だった。臨也は『そうなんだ、ごめんね』と苦笑するだけだった。謝罪の言葉が痛かった。その赤い瞳には、静雄なんて映っていなかった。昨日までは確かにそこに静雄はいたのに。瞳にも脳にも、心にだって静雄が存在していたのに。今の臨也は誰でもよいのだ。

『…心配すんな、記憶なんてそのうち戻る…』

自分にも言い聞かせるようにそう言えば、臨也は安心したように笑った。初めて見るような笑顔だった。知らない臨也がそこにいた。静雄は臨也の身の回りの世話を任されることにした。心のどこかで、そうすれば臨也は、愛していたはずの自分のことを思い出すかもしれないだなんて、甘いことを思っていたのだ。

『静雄くん、ありがとう』

何も甘くなんてないのに。面会時間は夜の8時までなので、その時間ぎりぎりまで静雄は毎日臨也の傍にいた。事情を聞いた上司は仕事のことは気にしなくていいと言ってくれた。静雄が帰宅する時、臨也はいつも礼を言った。その礼を聞くと、静雄は悲しくなる。

『また明日な』

願わくば、おまえが俺のことを思い出しますように。静雄は毎日そう祈る。だがどうにも臨也の記憶は戻らなかった。臨也は毎日夢を見ると言う。男が一人、泣いている夢だと。それを見ると苦しいと言う。静雄はその夢の話を聞くと、いつだって、…抑えている涙を、流してしまいそうになる。おまえは気づかない。何も気づけないのだ。

「静雄!」

静雄ははっとして顔を上げた。病院のすぐ傍にある公園のベンチには暖かい日差しが当たって、ついついぼーっとしてしまう。そこには見知った男の姿があった。眼鏡をかけたその男は、友人の新羅だった。

「新羅、…臨也の見舞いか?」
「まあ、そんなとこかな…静雄の様子も気になったし」
「俺?…俺は平気だ、臨也の面倒見るくらい、なんてことねえよ」

今のあいつは大人しいしな、と静雄は思い出したように煙草を口にした。新羅は静雄の隣に座った。手にしているコンビニ袋には、見舞いの品が入っているのだろうか。

「…それにしても、びっくりしたよ。あの臨也が記憶をなくすなんてね」
「そうだな、…」
「まだこのことは知れ渡ってないようだけど、臨也の名前は広いからなあ、…あの折原臨也が記憶をなくしただなんて知れたら、大変なことになりそうだよね」
「ま、病院にいる間は大丈夫だろ。…なるべく早めに、記憶、戻ればいーけどな」

ふう、と静雄は煙を吐き出した。新羅は静雄をじっと見る。静雄はできるだけ平静を装っているつもりだが、新羅にはわかってしまっているのではないかと思うと、怖かった。

「…そうだね。静雄も、…あんまり無理はしないでね」
「…ああ。ありがとな」
「臨也、退院はいつ頃?」
「どうだろうな…他の怪我もまだ治ってねえみたいだし、あと一週間くらいじゃねえか」

階段から落ちた時に足や背中を痛めたらしく、骨にヒビが入っている箇所もあると医者が言っていた。それが完治するまでは動けないだろう。それに記憶が戻っていない状態で新宿に戻ってもどうしようもない。ならば病院で守られているほうが余程いいだろう。それに静雄も傍にいる。何かあったら、守ってやれる。

「…静雄、まだここにいるかい」
「……ああ。もうちょい」
「そっか。じゃあ僕、ちょっと臨也のところに行って来るよ。…プリン、静雄の分も買ってきたんだ。冷蔵庫あったよね?いれとくね」
「…サンキュ」

新羅はコンビニの袋を指差して言った。そして立ち上がると、軽く手を振って病院の方向へ消えていった。静雄はそっと煙草の火を消した。






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