小説 | ナノ 温もり


気がついた頃には、もうとっくに昼を過ぎて陽が傾きかけていた。目の前の壁に掛けられているアナログ時計の短針が4を指している。頭や腕には包帯が巻かれ、左足は固定されていた。ああ、だから体が動かせないのかと納得して、そっと息を吐く。


「先生呼んできますね」
点滴の管理に来ていた看護師がそれに気づき病室を離れた。

銀時に発見されたあの後、そのまま手術を受けてほぼ丸一日眠り続けたそうだ。辺りを見ると、随分と立派な病室で、まるでホテルのようにソファや大型テレビまで完備されている。完全個室のVIPルームというやつだろう。

「失礼しますよー」
目が覚めてまだ10分そこらの働かない脳みそでも、続々と押し寄せる医者や看護師の数が異常だと分かる。半数は恐らく野次馬だと思うが、せめて顔ぐらい洗わせて欲しかった。

ベッドの脇に備え付けられた小さな椅子に主治医らしき医師がドカリと座り、病状を説明しては時々同意を求められる。正直、寝起きの頭には小難しくて、よく分からないまま分かったふりをして、中身のない返事をしていた。
『…傷口も……刺され…こと』
『奇跡よね…天人な……どうやって…』
それよりも、後ろのほうで数人の看護師がコソコソ話している内容の方が気になって仕方がない。

沖田が今回の事件の事は口外するなと指示したようだが、噂というのはすぐに広まるもの。おおよそ、私のことを不思議な力を持った人間のような天人だと思っているのだろう事は言葉の端々から想像がついた。
こっちを見ないで欲しい、勝手に私の事を想像で話さないでほしい。本来ならそう心を閉ざして布団にでも潜り込んだだろう。だが、看護師らから感じるそれは、嫌なものではなかった。皆の表情が、呆気にとられるほど清々しいものだったから。

期待されることも、別に悪くないって勘違いさせるほど。


「では、山田さんから何かありますか?」
「え、なにかって……」
「なんでも構いませんよ」
さあ何を言い出すだろうかと揚々とした面々が一斉にこちらを向く。まるで動物園のパンダの気分だ。何か言うたび、動くたび、誰もがその一挙手一投足に注目する。
「じゃあ、退院するまで、面会謝絶にしてもらえませんか」
想像していたモノではなかったのか、全員がキョトンとした顔をして、それがおかしくて少し笑った。笹でも食べれば良かったか。






自動ドアが開くと、見送りに来た看護師達がその手を差し出す。なんだろう、あげるものなんか何もないぞとその手を眺めていると、痺れを切らしたように若い看護師が流れるように私の手をとり、そして強く握った。

「気をつけてお帰りくださいね、なにか体調の事で不安があったらいつでも来てください」
病院側のご厚意で入院費も払わずに退院の日を迎えた。松葉杖で歩けるようになったことと、痛みも薬でコントロール出来ているからだ。最近はリハビリも退院も速いとかなんとか。痛み止めはいつの日か銀時が飲ませてきた馬もイチコロのやつを一回半分量。しばらく持ちそうなぐらいの量が手提げ袋に入っている。これだけあれば、何かの時に役立てられそうな気もする。
「あの、ありがとうございました。色々わがまま言ったのにご配慮頂いて」
「わがままだなんて。面会謝絶だって言ってるのに来る人達の方がよっぽどのものでしたよ」
「ほんと、皆んなあなたに会いたくて仕方なかったんでしょうね。ほらだって、あなたはこの病院のヒーローですから」
看護師が口元に手を当ててこそっと告げる。言っちゃった、なんて同僚に言うその人は和かな表情で、その顔私がさせてるんだと思ったら、胸の奥底がジワっとした。



外に一歩踏み出すと、快晴のもとで爽やかに吹く風が体を包む。スーッと息を吸って、背筋を伸ばす。外を歩くのさえ久しぶりだ。敷地を出ようかというところで、コツン、コツンと松葉杖が地面を叩く音を掻き消すように後ろで若い看護師が「お元気でー!」と大声を出した。周りの人達が驚いて一斉に振り向く。その視線が辿るようにこちらに向かっている事に気づき、足早に角を曲がる。素直で良い人だったけど、ああいうのは恥ずかしい。
けど、これもまた嫌な感じはしなかった。


松葉杖で歩いていると、当たり前だがいつもよりも時間がかかる。こんなに長い距離はリハビリでも歩いたことはない。時々休みつつ、胸の奥底に湧き出たジワジワとした暖かくてなんとも言えない感情に蓋をしながら、それでも確実に一歩ずつ踏み出して家を目指していく。街並みは何も変わってなく、これからまた日常が戻ってくることを感じた。

並木から漏れる陽射しに目を細める。
「ヒーローね……」
息を吐くようにそんな言葉が口をついた。
私がヒーローって。
あー。にしても今日、すごい青空だなぁ。
スーパーマンなら飛べるんだろうな。

「いつまでそこで立ち止まってんだ、邪魔だろ」
「あ、すみません今避けま、」
松葉杖でトントンと方向転換して端に寄るため身体を捻ると、道が思ったよりも平ではなく、カクンと膝が折れた。やばいと思って片足で踏み止まろうと試みるも、呆気なくその男目掛けて胴体ごと頭突きをかます。思わず伏せた瞼を持ち上げると、見慣れた青と白が視界の隅に映る。

鼻を掠めるのは知ってる匂い。そしてその色。
懐かしい。と思った。
敵うことのない、この世界の本物のヒーロー。

「よォ、元気そうじゃねェか」
「元気でしたよ。坂田さんもお変わりないようで」
頭突きをかましたままの割には普通の会話を交わしている。どうにか体勢を戻そうともがいてみるが、邪魔くさいとばかりに着物の帯を抑え込まれてしまった。
「面会謝絶だか拒絶だか知らねーが、退院すんなら連絡ぐらいよこしやがれ。よほど嫌われてるんですねーじゃねんだよ!チッ」

どうやらすれ違って病室に行ったところ、退院しましたよとだけ軽く言われたそうで、看護師に陰で笑われたらしい。それでか、少し苛立ったように言葉に棘がある。
「面会出来ないって知ってるのに、なんで来たんです?」
「というか、なんで面会謝絶?マジで嫌われてんのか俺。何かした?するわけないよね、どっちかっつーと命の恩人だよねェ?」
嫌いって言ったらどんな反応するか見てみたい気もするが、可哀想だからそれはやめておこう。


にしてもだ。
「あの、足がそろそろ……」
限界だ。
いつまでも上半身が変な体勢で収まったまま、さらに抑え込まれては、筋肉が落ちた体には少々堪える。未だぶつぶつ喋っている銀時に、早くしてくれと願っていると、ひょいと軽く体が持ち上がった。
「お、わっ」
「送ってってやらァ」
松葉杖ごと軽々抱えられて向かった先には銀時の愛車があって、後部座席に下ろされる。街を見ながらゆっくり歩きたい気持ちもあったが、あの速度では時間がかかり過ぎるだろうし、と考えて、ありがたくその肩に掴まった。
「よろしくお願いします」
「しっかり捕まっとけー」

流れる景色があっという間に過ぎていく。
風を切る音に乗って、ほんのりと湿布のにおいがした。それは銀時の右肩あたりからで、いつもこの人はどこかしら怪我をしているなと、無意識に、だけど意識してその肩に置いている右手に力が入る。危険な依頼でもあったのだろうか。手練れが怪我をするのはよほど相手が強いか、誰かを庇ったか。

自分の肩が重くなるのを感じて、だらりと垂れてしまいそうな腕を銀時の腰に回した。この方が楽だ。



「……着いたぞ」
何か言いたげな声で、銀時は原付から降りて手を差し伸べてくれる。
「松葉杖、あっ!ちょっと!」
松葉杖を渡してもらえれば自分で行けると最後まで言葉を紡ぐことが出来ないまま、有無を言わさない二度目のお姫様抱っこはどうにも気まずさを感じた。きっと銀時は気づいている。

鍵を取り出すと奪い取られ、鍵穴はやや錆びついた音を立てて回り、行儀悪く足で玄関が開けられると、こもっていた空気が外に逃げていく。さすがに2週間も空けていたんだから掃除しないとな。お掃除ワイパーでいいかな。
「うわ、なんかちょっとしけっぽいなぁ」
適当な事を言って、じっと見つめる銀時の視線から逃れようとしたが、あまり意味は為さなかった。

玄関の上がりかまちに腰を下ろされ、ようやくその熱から解放された。と、同時に銀時はわざわざこれ見よがしに自らの襟ぐりに手を突っ込み、ニヤつきながら湿布を剥がしてはペラペラとこちらに見せつける。
「これ、捨てといてもらえますゥ?」
やっぱり気づいてたか。
「運んでもらったお礼に、他にも怪我してたら治しますよ」
「いらねーよ」
ベタベタの湿布が頭に乗せられた。うわ、と非難の声を上げるも無視され、銀時はブーツを脱いで上がっていってしまい、湿布が頭に乗ったままその後ろを追いかけた。




丸まった湿布はどうにかゴミ箱で眠りについてくれた。私の髪の毛2、3本と一緒にだ。剥がすときに抜けたやつ。粘着力強すぎてその程度で収まったのはラッキーだったのかも知れない。いや、そもそも頭に乗せられなければゴミ箱にいる彼らも私の頭皮で生きていたはず。恨めしく銀時を見ながら、テーブルを挟んで向かい合い、互いに茶を啜る。

上がりかまちからハイハイで移動した私を横目に、台所に向かって手際よく銀時が淹れた茶だ。思わず眉間に皺がよるぐらいにはなかなか渋い。
「ちょっと痩せたか?」
「まあ、病院食だけ食べてリハビリ以外はほとんど寝てましたし、筋肉は落ちました」
「で、なんで面会謝絶なんだよ。おめーに分かるか?俺があの場で受けた辱めを、この屈辱を」
「随分根に持ちますね。というか辱めも屈辱も同じような意味ですね」
「どうでもいいわ!」
「いてっ」

小突かれた頭を反射で押さえて銀時をジロリと覗き見ると、思いのほか真剣な眼差しと目が合ってしまい、咄嗟に逸らす。
「……なんとなく、です」
「はぁ?」
「私のこと、あの病院の人達みんなヒーローだって言って持て囃すんですよ……今まで生きてきてこんなこと初めてだったんで、だから恥ずかしくて、知り合いに会いたくなくて」
あはは、とヘラヘラした笑いが思わず漏れる。
右手を握って開いてを繰り返しながら、気まずさを誤魔化すように一口お茶を飲み込んだ。

「正直、浮かれてるんです。この力、確かに使うと痛みが伴います。でも実際に怪我をするわけじゃない。血を流すわけじゃない。死ぬわけじゃない。それで沢山の人が救われるなら、使えばいいのかなって。丁度よく、痛み止めも沢山貰ってきましたし、病院はさすがに目立つから、例えば整体院のような場所で働けたら、」
そこまで言って、喋り過ぎたことに気づく。
銀時が話を聞きながら頭を抱えたからだ。
「……だから、面会謝絶にしたのは、私が恥ずかしいからっていうそんなつまらない理由ですよ」
銀時から舌打ちするような音と、念仏を唱えるような声が漏れてきている。
「辱めを受けさせて、すみませんでした?」
「疑問形かよ、つーか噛み合ってねェんだけど」
何が、と言葉が口から出る前に、まるで捕らえるように右手首を強く掴まれる。

反動で持っていた湯呑みが倒れ、ほぼ飲み終わっていた茶の残骸がテーブルを汚す。
「死にかけてんだろーが」
「へ?あ、」
袖が汚れる、と意識がテーブルに向いてしまった。腑抜けた言葉が口から漏れるとそれが銀時の苛立ちを煽ったらしい。

「何がヒーローだ笑わせやがって。その足はなんだ、怪我じゃねえってか?血も流して死にかけただろ。あんな事件一つでボロボロになりやがって。そんな人間に何が出来る?自惚れんのも大概にしろよ」
「っ……そこまで言いますか」

銀時も、山崎も、私が何か行動しようとすると何もするなと牽制する。そして庇護対象を見るような目で、暗黙に伝えてくるのだ。私には出来っこないってことを。

そりゃそうか。

「ははっ」と乾いた笑いが口から漏れて、とうとう銀時の顔は見れなくなった。何も出来ない人間だとこんなにも正面から告げられることがあるだろうか。
「……自惚れてんのは確かに否定しませんよ。でも別にヒーローになろうとしてる訳じゃない。ええ、私にはなれませんよ。そんなこと、わざわざ言われなくても、自分の力量がどんなもんかなんて、自分でちゃんと分かってるってば!!」

部屋から反響した声が途絶えると、怖いくらいの静寂が訪れた。銀時が言ったのは本当の事だ。そう、ただ事実を言われただけ。別に、大声出して反論するほどのことじゃないのに。

私、ほんとに自惚れてたんだ。それを自覚すると途端に恥ずかしくなった。顔に熱がこもるのを感じる。
「……なーんて。そんな真に受けないでください。あと、腕、もう離して下さい。ちょっと、布巾持ってきますね」
掴まれた右手首がそろそろ血の気を引いている気がして、なかなか離してくれないそれを左手で剥がすと、案外簡単に抜け出すことが出来た。何度か反動をつけてから片足立ちし、逃れるように台所へとギプスを引き摺りながら向かう。


台所に干していた布巾を手に取って、何もないシンクを見つめる。銀時の姿が見えなった安心感でか、ズルズルと流し台の前でしゃがみ込んだ。

震えた手でシンクの淵をギュッと握る。
恥ずかしさと情けなさが波打つように押し寄せる。
このまま、もう帰ってくれないだろうか。と祈る思いでいたが、居間のほうからは物音一つ聞こえなかった。




何分間そうしていただろう。
痛み止めが切れてきたのか、それとも、ずっとしゃがんでいたからか、ギプスの下がズキズキと脈を打つ。

すると居間の方から足音が聞こえて、台所の入口でまた止まった。帰るなら早く帰ってほしい。でも、一言でも謝った方がいい。そう自分に言い聞かせて、振り返ろうとシンクから手を離すと、右肩に温かい熱が伝わった。

視線だけを動かして見えるのは、ゴツゴツした指先で、その指にぐっと力が入ると簡単に背中が後ろに倒れた。
そして一瞬その手が離れたかと思えば、腹と首周りに巻きついてくる腕に、息が止まりそうになる。
「何、してるんですか」
背中にも温かい熱が触れて、右肩から銀髪が覗く。

そのまま吸収されてしまいそうなほど深く抱き止められて、背中はくっついたまま、そっと腕は離れていく。
「なかなかどうして、伝わんねェもんだな」
それは消え入りそうな聞いたことのない声で、本当に後ろにいるのはあの銀時なのだろうか。顔を見たくなかったのに思わず振り返ろうとすると、頭を撫でられたことでそれは叶わなかった。

「……あん時、階段の踊り場で花子を見つけた時、肝が冷えたわ。コイツはなんなんだと思った。死んだって構わねェって面で満足げな顔しやがって」
「そんな顔、してました?」
「ああしてたわ。そう見えた」

銀時が喋る度に首筋に息がかかる。
思わず左側に首を傾けると、動くなとでも言うように頭に乗せられた手で元に戻される。
「その後すぐに涙と鼻水だらけの汚ねえ顔になったけどな」
それは、覚えてなくていいのに。
「死にたくはねェが、結果死んでもしょうがねえとか思ってんなら……」

言いかけた言葉の続きは聞けないまま、あークソ!と言って突然銀時が立ち上がる。
「え、なに……」
支えを失った背中がゴロンと床に倒れ、逆さまの銀時を丸くなった目で見上げる。

頭を掻きむしって言葉を選んでいるのか、逡巡しているその様をまじまじと見ていれば、それに気づいた銀時は、諦めたようにまたしゃがみ込み、横たわった私の頭をワサワサとまた撫でる。捨てられた犬を愛でるみたいな。そんな強さ。

「言葉選ばなくていいので、言って、ください」
「泣き叫ぶなよ」
「……しませんよ」
意を決したようなその姿に、どんなきつい言葉が浴びせられるのかと身構える。出来るならきちんとした佇まいで聞いた方がいいのかも知れないが、チグハグなこの格好がらいしといえばそうなのだろう。

頭を撫でる手がとまる。
「自己犠牲も大概にしろ。犯人と渡り合えやしねェんだから自覚して大人しくしてろもやしっ子。なんとかなるなんて思うな。逃げろ。誰でも助けられるなんて自惚れて痛みに慣れるな。勝手に死のうとしてんじゃねェ。つーか勝手に怪我すんじゃねェ。助けられるところに、手の届くところに居てくれよ。頼むから、花子。てめえの大事にしてるもんが自ら壊れていく様を見せつけられて、怒らねェヤツがいるなら教えてくれ」

この気持ちを、なんて言葉にしたらいいのか分からない。
出来ない側の人間だと思い知らせたい訳じゃないってことは分かった。いつか、私がもう大事なものの中に入っていると言ってくれたあの言葉も、ちゃんと伝わっているのに、銀時は多分、伝わっていないと思っている。そうじゃない。それに応えられないのは銀時が悪いわけじゃないのに。
そんな考えがぐるぐると頭を駆け巡る。

「大事にしてるものが、壊れていくのは、私も嫌です。私にとって松子さんは、大事だった。大事にしていけたらと思う。あの看護師も、命は大事でしょ?坂田さんのことも大事です。あなただっていつも自己犠牲で自分から怪我をするから、だから見つけたら治したくなる」
「張り合ってんじゃねェよ負けず嫌いか」

負けず嫌い、確かにそうかも知れない。銀時と張り合ったって勝てっこない。でも、銀時を大事に思う気持ちは、この町の人を大事に思って守りたい気持ちは、あなたほどじゃなくても、私にもあるのだ。

「坂田さん、私、多分無理だ」
「何がだよ」
「きっとこれからも、誰かの怪我や病気を治すと思う。それで多分、苦しむ。死にたくはないけど、守りたいものはある。守られてるだけじゃ、私がもうダメなんです。たとえ死にそうになったって、何もしないで死んだように生きるよりはずっといい。ずっと、そうやって生きてきたから。だから、無理だ」

これしかないんですよ、私には。
「一人で苦しんだっていい。だから取り上げないで下さい」
この右手しか、誰かを守る方法が思いつかない。自分の価値を高めるものが、縋れるものが、これしかないから。

肯定されなくてもいい。でもせめて。
「死人が出なかっただけで十分だって言ってくれたでしょう?……よくやったって、褒めて下さいよ……っ…」
床に向かって静かに流れる目尻の雫が、ポタポタと落ちて小さな音を立てる。
「泣くなって言っただろーが」
「……叫んでは、ないでしょっ…」
「あー……クソ」
また汚い言葉を吐いて、横たわった体が浮かび上がる。今日三度目のお姫様抱っこ。



離したくないと思うのに、また、離れていく。生きてるのか死んでるのかさえ分からないような空気をたまに出すこの女が、ただ護られてさえいてくれるようなヤツだったら、どんなに気が楽になるか。そんなことは、もう言えないのか。
モヤモヤした気持ちと一緒に抱え上げた体はやっぱり軽くなった。

銀時はそんな思いを飲み込んで、花子を運ぶ。




居間に入るなり、テーブルを見ればこぼれたお茶はそのままで、そういえば布巾を掴んだままだったことに今更気づく。
なんとなくその布巾を腕を伸ばしてテーブルに近づけようとするが、銀時の足はそのまま通り過ぎていき、だらしなく布巾だけが歩行に合わせてゆらゆらと揺れた。それを見て、地に足がつかない私のようだと思った。

移動した先は寝室で、寝室というにはお粗末な寝床には、布団が敷かれている。押し入れにしまっていたそれは、何故が敷かれていて更にふかふかだ。
「え、なんで……」
「ああ、大家がクリーニングに出してたな」
なんでそんなことこの人が知っているのか。そんな疑問も口に出す間もなく、銀時の足で掛け布団が剥がされると、ゆっくりとその身を下された。
そして滲む涙をその指で拭われる。
「……」
「……」
泣いたことで頭がぼんやりしている。そんな顔で銀時を見つめると、しばらくの間が空いて、突然思い立ったように銀時も同じ布団に入り込んでは、体を布団に沈められ、掛け布団がバサリと音を立てて降りかかった。

「いや、え、まだ午前中……」
たぶんそういう事じゃないが、涙なんかとっくに引っ込んだ目で隣の男を見やる。
「寝るのに朝も夜もあるかよ」
あるだろ。
「眠くないんですけど……セクハラだし、眠いならお一人でどうぞ……テーブル、拭いてきますから」
「なに、意識しちゃってんの?」
「いや、ちがっ」
布団から這い出ようと右隣にいる銀時に背を向けて上体を起こそうと首を持ち上げる。すると出来上がったその隙間に銀時の腕が入り込み、一瞬のうちにまた背中に熱がこもった。

首も、腹も苦しい。
なのに人の温もりというのは恐ろしいもので。相手が銀時だからなのか、緊張よりも安心感が勝り不思議と落ち着く。

なんとなく腹に回されている腕に右手で触れると、離せと訴えていると取られたのか、冷たさが嫌だったのか、より強く抱え込まれた。ここまでされるともはやプロレスでは。
「苦しい」
「あっそ」
聞いちゃくれないような返事だったが、力は少し緩くなった。ただ、しばらくそうしていても、銀時からはいっこうに寝息なんてものは聞こえてこなくて、やっぱり寝るつもりなんかないことは分かっていて、起きようと体を捩ると、それは許してくれなかった。

本当になんなんだろう。

悶々と考え込んでも埒があかず、こうしていても時間が過ぎていくだけ。ずっと気にしていた事をまずは片付けようと口を開いた。
「あの、さっきは、大声出してすみませんでした」
「別になんとも思っちゃいねェよ」
「嘘だ」
「ああ、ビビってちょっとチビった」
「え、汚い……」
「っるせーさっさと寝やがれ」
「いやだから眠くないって言ってるのに」
意を決した謝罪は軽く流されたが、それが今は少しだけ気を楽にしてくれた。

喋りながらもなんとなく腹に回されたその腕に触れ続けていて、その先を辿っていくと、ささくれだった人差し指に触れた。ほぼ無意識に右手を当ててしまえば、それぐらいのささくれは1秒とも経たずになだらかになった。

だが後ろから銀時のため息が聞こえて、頭に吐息の熱が触れる。この程度でも気づいて、そして銀時はそれをいつも嫌がる。大した痛みもないのに。
「……痛みに慣れるな。それだけは覚えとけ」
口に出していただろうかと思う言葉にどきりとした。
「あともう一つ」
「なん、でしょうか」
「一人になるな」
頭に浮かぶのは、銀時や新八、神楽、そしてこの町の人達の顔。憎たらしいのは、一瞬だけ沖田も過ったことだろうか。

どう返事を返すべきかまごついていると、あともう一つと銀時が呟いた。
「整体院はダメだ」
引っかかるとこそこなのか。
なんでダメなんですかと聞けば、エロ親父の溜まり場だとか、若い女が働く所じゃねェとかなんとか。
「そう思うってことは、坂田さんはそういう目的で通ったことがあるってことでいいですか。最低だなぁ。というかそれ、本当に整体院ですか?」
「ダメなもんはダメだ」
否定もせず、少しムッとしたような拗ねた口ぶりでお父さんみたいな事を言う。

「あーあと、しばらく泊まるからよろしくゥ」
そしてそんな爆弾を突然落とすのだ。
「なんで!」
「なんでっておめー、その身体じゃ不便だろ。身の回りの世話してやるって言ってんの。風呂も入れて綺麗に洗ってやるから安心しブフォ!!」
腹にのめり込んだ肘は、非力ながらも案外効いたようで良かった。



もうそろそろお昼だろうか。腹時計が空腹を知らせる。
恥ずかしげもなく音を鳴らす腹をさすれば、銀時がさすがに笑って起き上がった。
「飯、食うか」
「え、カップ麺食べたいです。精進料理みたいな味薄いものしか食べられなかったから、こってり豚骨か豚キムチ」


布巾がようやく役目を果たし、二人で啜るラーメンは美味しかった。そもそもなんで布団に入ったのか、ぐずった子供を寝かしつけるそれだったのか、理由はよく分からないままだった。温かいという安心感だけが心を満たして。

だけど距離が縮まっても、多分お互いの気持ちのベクトルは同じ方向を向かない。なんとなくそれは二人とも分かっていた。銀時は、これからも私をそちら側には立たせてくれない。私は、これからも好きに苦しむだろう。

今は、それでもいい。
勝手に結論づけて、隣で美味そうにラーメンを啜る銀時を見る。納得していなさそうな、そんな空気を纏いながらも、ただ生きるためにご飯を食べる。
簡単に、何かのきっかけで変わる。世界なんて簡単に変えられると松子に言ったが、変わってしまった世界でどう生きるのかは、結局難しいままで。

まあ、今は、ラーメン美味しいからいいか。




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