小説 | ナノ 労働


あれから1か月経った。大変だった。自分が中二病に巻き込まれた絶望感と戦うこともだが、身分証明書もない私がどうやって仕事を得るかどうかが。とりあえず張り紙を見て交渉したり、大家からもらったチラシを頼りに有名どころには全て行ってきた。だがやはり大手は門前払い。ファミレスやスーパーといった接客業は玉砕だった。

「すみませんが、身分を証明できるものがないと万が一何かがあった時に大変ですので」

つまり、そんな怪しいやつうちに入れるのは迷惑、ということだろう。どこもかしこも訝しげにあしらわれて、でも確かにそうだよなとは思う。皆がきれいな着物に身を包むなか、洋服を着ている私は確かに怪しい。それも季節外れの半そでに右手だけ手袋といった風貌。手袋は自分の体に無意識にでも右手が触れると震えるほど冷たいからという理由だが、決して右手が鬼の手になったわけではないのに。

安定した職業を得ようとした自分が間違っていたのかもしれない。納得したと同時に寂しさに似た感情が湧き上がるのは、自分がイレギュラーである事実をまざまざと思い知らされたからだろうか。やはり、現実では主人公になることは出来ないのだ。いくらトリップしたからって特別な存在になった訳ではない。
「……笑える」

この一か月間で、私はだいぶ諦めが早くなった。働けてお金がもらえるならどこでもいい。接客業なんて人と触れあう仕事、今思えばかなり面倒だし、と。

そして見つけたのが今の仕事。ビルの清掃員。ビルといっても5階建てぐらいの個人事務所みたいなところだ。清掃員は自分を含めて3人。ローテーションを組んで1日4時間ほど働いている。まあパートといったところか。掃除中はゴム手袋着用が義務づけられているし、マスクと帽子、作業着も支給されている。今の私にはお似合いだった。作業着もジャージみたいな甚平だったから今では普段着にもしてしまう始末。完全に干物女だ。(楽なんだよ)

ほかの2人は私が入る前から1年間ほど仕事をしていたようで、仲良し2人組として有名だった。こういう仕事では珍しく若い(たぶん私よりは上の)女性2人で、休憩はいつもおしゃべり、仕事中も連携を欠かさず協力し合い(ただペラペラ喋ってるだけ)、お休みの日はカフェで女子会。もちろん私は誘われることも誘うこともなかった。今更誘われても気まずいだけだからむしろ有難いんだが。だけれど、5階建てでも結構な数の部屋があるのに彼女たちは2人一組で2階分の清掃しかしなかった。これがいじめであることに気づいたのは勤務して数日もたたないころだった。

たまたまトイレで私が個室ドアを開けようとしたところ2人が入ってきて、ドア越しに聞こえる笑い声に身を潜めていた。
「ねえ、あの子、山田だっけ?あいつ超暗くない?私たちより若いらしいけど、いっつも作業着着てるし、マジダサーい。あんなんじゃ男寄らないよね〜!」
(お前に男の心配されたくないわ)

「ほんと、かなり気つかうし〜!いっつも無愛想で何怒ってんの?って感じ。」
(あんたらが仕事しないで喋ってるからだろーが)

「アハハ!わかる〜!仕事もテキパキ過ぎてお前ロボットかよって!アッハハハ……あ!ねぇ、良いこと思いついた。あいつにさ、三階分やらせない?仕事が早い山田さんならいけそうじゃん。それに最近営業の神川さんと話す時間減っちゃってさー」
「あんた、それで前の女も辞めさせてるじゃん。酷いね〜!ま、私は賛成だけど!」
「「アハハハハハハ!!」」

前に働いていた鈴木さんという人は、仕事が出来て性格も良い、ちょっと地味な女性だったらしい。一身上の都合で辞めたと聞いていたが、そういうことか。

どうやら私は、ケンカを売られたみたいだ。

―――ドォォォン!
強く蹴り開けた個室トイレのドア。振り向く二人の顔は今でも忘れない。
「あら、すみません。ちょっと強く開けすぎました?なんかこう、力が有り余って大変なんです。三階分の清掃、頑張りますね!」
「あ、い、いや」
「それじゃ、早速掃除しないと!一人で三階分かぁ、終わるかなぁ」

ゆっくりと出口に足を進め、ドアを半分開けたところで、二人のほうに振り返る。たまたま、本当にたまたま持っていた爆弾を、ちょっと試しに投下してみたくなった。

「あぁそうだ。営業の神川さん、来月結婚するそうですね。なんでも幼なじみとだそうで。ラブラブですねー。お互いの酸いも甘いも知り尽くして結婚なんて、こりゃあ入り込む隙なんてありませんね。あー残念。ちょっと狙ってたのに」

バタン、と閉まるドアを背に、私は無音の爆風を浴びた。










「おはようございます」
「おはよう花子ちゃん。そうそう、これ、昨日作り過ぎちゃって。食べてちょうだい!」
「あら、田中さんも?私も花子ちゃんにお裾分け持って来たのよ!」
「すみませんいつも頂いてばっかりで。ありがとうございます!」

あの一件から変わったことは、女性二人組がおばちゃん達になったこととだ。あの二人は次の週に辞めていったのだから。
まあ今となっては過去のこと。私は何もしていない。ただちょっとドアを強く開けすぎて、そのあと世間話をしただけだ。
「うわ、この蒸しパン美味しいです!」





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