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*長編3-2から分岐するイメージですが、未読でも読んでいただける内容です。


 砂を纏った無機質な壁面を指で撫でる。ザラつく砂粒を手の中で握り締め、両の眼で前を見遣った。

 ここに立つのは数百年ぶりか、あるいは数千年ぶりか。記憶の中にある眼前の壁──否、扉は空の色よりもさらに深い青色をしていたはずだ。
 今目先に佇む扉は時の流れと共に朽ち、今ではそこらに転がる瓦礫と同じ黄檗色に成り果てていた。

「────」

 瞑目し、遠い昔の光景を瞼の裏に映し出す。
 それはただの想起ではなく、その光景を現実に再現するための具体化だ。これから使う魔術を成功させる確率を、ごくわずかにでも上げるために。
 音のない呼吸を数回繰り返し、意識を一本の糸のように集中させる。長く息を吐き出し、最後にゆっくりと瞼を持ち上げて──、

「うりゃっ」
「…………、」

 唐突に後方から軽い衝撃がのしかかり、意識の糸はばらばらと虚しく散っていった。

 舌を弾いて背後へ視線を遣れば、予想通り、短絡思考を振りかざす部下リシャナが主人の腰にしがみついていた。
 目を細めてその顔を睨めば、部下はわずかに頬を強張らせて唾を飲み込む。

「……何」
「……気休めになるかなと思って」

 そう答えた考えナシな部下の額を強めに弾くと、彼女は呻き声を上げてその場に蹲った。快音が響いたため、骨ごと脳が揺れたのだろう。自業自得だ。

 だが、同時に自身の奥底で燻っていた焦燥にこいつも勘付いていたということに気づき、嘆息が落ちた。
 ……今さら何を臆することがあるのか。何の懸念も無いはずだ。言い聞かせるように自問自答を繰り返し、思考の渦から逃れるように目線を上げた。


 時の神殿。
 オルディン地方で取り逃した巫女がラネール地方へ向かっているという報告を受け、ワタシは部下を連れてこの地へと赴いた。

 ここに立った目的はただ一つ。眼前に佇む、時の扉。
 ──それを“巫女よりも早く使うこと”だった。

 これまでに魔族が時の扉へ干渉出来たことは一度たりともない。それでも扉を使うことに踏み切ったのは、魔王様の封印が緩み、大地に蔓延る女神の力が失われつつあるからだ。

 加え、巫女が過去に逃げ込めば今度こそ希望は断たれてしまう。
 それならば、どれだけ成功する確率が低かろうと試してみるべきだという結論に至った。

「────」

 胸中に影を落とす不穏な予感ごと握り潰すように、ワタシの手のひらは固く固く結ばれる。

 そこにふと、柔らかな体温が乗った。

「……大丈夫ですよ」
「…………、」

 手のひらを乗せたリシャナは透き通った眼差しで主人の顔を見つめ、唇を緩める。
 何の根拠があって、という反論は抱きはしたが口に出ることはない。

 代わりに額を小突くと苦鳴が上がって、生意気な部下にはやはりこれが合っていると苦笑が浮かんだ。


「始めるよ」
「……はい」

 短く宣告をし、長年の眠りにつく扉へ片手をかざした。扉はそれに応えるかのように淡い光を帯び、周囲には光の粒子が漂い始める。

 その手応えに、小さな身震いをした。
 今まで一切の反応を見せなかった時の扉が、この時を待ち受けていたかのように光を集め、術者を過去へ導くために動き出そうとしている。
 踏み切るまでにあまりにも多くの時間を費やしてしまっただけで、最初からこうすることが正解だったのだと、呆気なさすら感じる感触を覚えた。

 ──結論、これは“正しい”方法だったのだ。
 歴史を修正する。修正した歴史を正しいものとする。望む結果を、自らの力で手繰り寄せる。

 そうすることで、“正しい”歴史に必要のないものが取り除かれるという、ただそれだけのことだった。


「──リシャナ?」

 その名前を呼んだ時、魔力に包まれた時の扉は既に開きかけていた。

 黄檗色をしていた壁面は深い青色に彩られ、そこに刻まれた紋様が仄かな光を帯びている。
 あと少し、この魔力を注ぎ切れば扉は完全に開かれ、過去と現在は繋がる。部下の様子に気を取られている場合じゃないと、主従共にわかっていたはずだ。
 それが出来なかったのは、その体に決定的な異変が起きていたから。

 ──膝を屈したリシャナの体が、消え始めていたからだ。

「まさか──、」

 その変化が時の扉を開いたことによるものだということはすぐに察した。何が影響を及ぼしたのか、何が起きているのかもわからないが、考えるよりも先に魔力を注ぐ手を時の扉の元から引き離そうとした──その時だった。

「!!」

 引き戻そうとした手は、他ならぬリシャナの手によってその場に押し留められた。
 それどころか数瞬扉への供給が途絶えた分の魔力を、彼女が無理矢理自分の魔力を注ぎ、繋ぎ止めたことがはっきりと伝わった。

 咄嗟の事態にその手を振り解くことは出来ず、扉を開くための最後の一石がリシャナの介入によって投じられる。
 やがて青色の輝きを完全に取り戻した扉は静かに時を刻み始め、リシャナは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

「お前……!」

 すかさずその体を抱えると、存在が消えかけた体はまだ触れることが出来た。
 しかしそこに体温は生まれず、空気の塊を掴むかのように不確かな感覚だけが手に伝う。

 リシャナは俯いたまま吐息をこぼし、淡く唇を噛んでいた。
 それでも、ゆっくりと顔を上げて、主人を映した瞳は万感の感情に満ちていて──、

「おめでとうございます。……マスター」

 ──慈しみに溢れた笑顔をたたえ、主人への祝詞を紡いだ。

 心の底からの祝福を手向けられながらも、未だ目の前で起きていることへの理解が及ばない。何故、祝福をされているのか、わからない。
 そうして唖然とすることしか出来ない主人へ、リシャナは困ったように微笑みを投げかける。

「いつかこんな時が来るってわかってたのに、いざその時が来ればなんて言えばいいのかわからないですね」
「なにを、言って……」
「時の扉の前に立った時から、なんとなくわかってたんです。このまま行けば……私は消えちゃうだろうって」

 驚きを隠しきれない主人に対し、部下は酷薄なまでに冷静に状況を飲み込み、自嘲的な笑みすら浮かべていた。

 彼女が口にした通り、原因はやはり時の扉を開いたことにあるのだろう。
 だが、力を取り戻した扉はもはや止まろうとしない。リシャナの消失を止める術は、見当たらなかった。

 ……意味が、わからない。
 何かの間違いか、何かの幻覚を見せられているのか。思考が自分らしからぬ甘ったれた方向へと逃げ出そうとしていく。
 無論、それは主人の腕に抱かれたリシャナにも容易く伝わり、彼女は眉尻を下げながら小さく首を傾げた。

「……そんな顔されたら、お別れしたくなくなっちゃいますよ」
「──ッ、」

 何かの間違いだという寄る辺のない憶測は柔らかな声音で否定され、希望と共に全て全て瓦解する。
 彼女の口から紡がれた“別れ”という言葉に、四肢の感覚ごと焼かれるような錯覚を刹那抱いた。

「もう少し早くこうなるってわかってたらマスターの記憶に残るような大演説が出来たのに、少し時間が足りなかったです。本当は伝えたいこと、たくさんあるんですよ?」

 わざとらしく嘆息をしてみせ、軽薄な口調で普段通りの生意気な態度が演じられる。
 返せる言葉は何もない。リシャナは数秒を置いて短く吐息し、温度を確かめ合うように主人と額を合わせた。

「……でも、考えてみれば私からマスターに偉そうに言い残せることなんて何もなかったかもしれません。私はきっと、最初からマスターの隣にいさせてもらっていて、与えられてばかりだったんですね。もらってばっかりで、ちょっとだけ悔しいくらい」

 語られ、謳われる、信頼と称されるべき決別の言葉。
 優しく、愛おしげに、真綿で首を絞めるように確定した未来を嘯き、子どもへ言い聞かせるように穏やかに現実を突き付ける。
 後頭部に回されたリシャナの指が柔らかく主人の髪を梳いたが、ほんのわずかに毛先が揺れるのみだった。

「……だから後はこの扉をくぐった先で、貴方にとって一番の結末が待っていることを願っています」
「ッ、そんなものは、どうでも──、!」

 ──どうでもいい。
 反射的なその言葉が声音として叫ばれ、解き放たれる前に。

 リシャナの唇が、それを押し留めるように、重なった。

「……だめですよ、マスター」

 温度も感触もない唇が離れ、微かに震える彼女の吐息を感じる。
 そこでようやく、その体の中には何重もの感情が必死に抑え込まれ、滅茶苦茶に掻き回されながらも決壊を堪えているのだと理解した。

 リシャナは瞼を伏せたまま深く呼吸し、崩れかけた笑みを再びワタシに向ける。

「きっとそれ以上言ったら、後悔しちゃいます」
「……っ、」

 頭を振って、感触が曖昧になった手を握りしめて。ワタシが咄嗟に口走りかけた願いを踏み躙る言葉を、彼女は否定した。
 同時に思ったのは、迂遠な言い回しであってもリシャナが主人の意志を否定するのは初めてだということだ。

 目の前で起きている何もかもを踏み砕きたい。認めたくない。しかし、彼女はそうすることを絶対に許さない。
 主人にとっての最良を、最善だけを残そうと。自分の存在すらも投げ捨て、頑なな意志で主人を願いの元へ導こうとする。
 ──だから、

「──マスターの大切なものを守るのが、部下のお仕事ですから」
「!!」

 だからいいんだと言いたげな、納得と諦念の声音で甘やかに微笑んだ。
 部下から与えられた透明なキスは、最後の最後に主人の矜持すらも守り抜いたのだ。

 認めるべきなのだろう。主人として、役目を果たした部下を賞賛するのが正解なのだろう。
 彼女にとっても、それが納得して存在を終えられる道なのだろう。

 ──でも、それなら何故、

「……リシャナ、」

 何故、今にも泣きそうな顔をしている。
 何故、その涙を最後まで堪えようとしている。

 肺から押し出された声が小さく部下の名前を呼ぶ。
 そこでリシャナが主人の言葉に耳を傾けたなら、彼女にとっての結論を出させずに済んだのかもしれない。
 けれど彼女がそうすることは、やはりなくて、

「いつか貴方が魔王様と会えた時は。……私のことは、忘れてください」
「────」

 存在を賭け、ワタシにとっての最善だけを願った。
 それは、かつて彼女が憧れだと口にした主人の姿と同じで、彼女が幸せだと謳っていた生き方で。
 きっと、手向けられた言葉の全てを受け止めて、その意志を胸に刻みながら彼女を見送ることが正解だったはずだ。

 ──そう、わかっていたのに、

「──ふざけるなッ!!!」
「……!」

 押し殺そうとした感情は、激発する。

 叫びに近い怒声を上げて、既に薄れつつある存在を無理矢理引き戻すように強く強く肩を掴み、引き寄せた。
 唖然と見開かれたリシャナの瞳に、激昂する自身の姿が映り込む。肉体が消えかけたリシャナの向こうには黄檗色の砂風景が見え始めているはずなのに、その瞳の中の光景だけは鮮烈に網膜を焼き付かせる。

「部下のくせに一方的に悦に浸りやがって……ッ! 俺がいつ、そんな勝手を許した!?」

 身勝手すぎる、理不尽すぎる、卑怯すぎる。
 勝手に想いを伝えて、勝手に満足して。勝手に側にいておいて、勝手に独りにして。
 部下のくせにやはり生意気で、主人の命令に反してばかりで。単純な癖に、主人を守るための嘘ばかりをついて、肝心なことは何も言わない。

 今までも、昨日までも、それは変わらないまま、頼んでもいないのに隣にいたくせに。
 ──明日も、明後日も、隣にいると思っていたのに。

「俺はまだッ! お前を手放すつもりなんてないッ!! だから勝手に消えるなんて許さない……絶対に許さないッ!!」
「……!!」
「お前、が……お前が、主人の大切なものを守りたいと言うのなら──ッ、」

 そこでリシャナの表情が歪み、それ以上の言葉を拒絶する。こんな別れの間際に聞きたくなかったと、本当は消えたくなんてないと、その瞳が訴えている。彼女の存在を消す引き金を引いておきながら、あまりに残酷な言葉を突きつけようとしているとわかっていた。

 それでも、最後の最後に生まれた“もう一つの願い”は、消えてはくれなくて。

「……俺が願いを叶えた後も、ここにいれば、良かったんだ」

「…………ぁ、」

 罪深い、響きがした。主のための存在が、主以外のために持つ、許されない願いだった。

 罪悪感も、後悔も、ある。
 でも口にしたそれは、嘘をついて無かったことにするには、あまりにも温かで手放し難い響きをしていて。

「……嬉しいです、マスター」

 今度こそ、リシャナが幸福に満たされた笑みを浮かべる。
 生意気なくらいに満足げで、さっきまでの毅然とした態度はどこに行ったのだと言いたくなるくらい、寂しげな笑みだった。

「リシャナ、俺は──、」

 震える言葉をこぼした唇は、彼女の人差し指に留められる。そこにはもう触れられた感覚すら生まれないのに、言葉は静かに響きを失う。
 投げ出された声を継ぐように、リシャナは唇を解いた。

「……どうか、ずっと、幸せに」

 空気がわずかに揺らぐだけの、遠い遠い声音。
 夢の終わりにたどり着いたように、曖昧な感覚が全身を捉えていく。
 それでもその声音を聞くために、彼女の体を強く強く抱きしめた。

 そして最後の瞬間、耳に届いたのは、

「── ■■しています、マスター」

 主人と同じ罪を背負った、部下の告白だった。


 *


『──過去に戻れるとしたら、どうする?』

 赤く、塗り潰されようとしていた砂世界で。
 彼方に滲む遠景を目に映した後、背後に立ち尽くす部下へ視線を交わし、一つの問いかけを投げ出した。

 部下は数瞬目を見開き、束の間の逡巡を見せる。その瞳の奥で複雑な想いが吹き荒び、彼女の心が掻き乱されたと理解した。

 だが、彼女は一度唇を引き結び、真正面から瞳の中に主人を映してこう告げた。

『──“私”も、魔王様復活のために使命を果たします』

 ──そう、そうだ。
 部下のこの言葉を耳にして、ワタシは巫女を生け贄に捧げるという手段を捨て、目先の不安をかなぐり捨てるために時の扉に頼るという方法へ逃げ込んだ。
 自分の意志を捨てて使命に生きると言い切った部下の姿を見て、ワタシも自身の使命を優先させることを選んだのだ。

 本当は気づいていた。その手段はあまりにも不確かで、早計で。そしてあの方を復活させるためなら何を捨てても良いと、使命に準じられるならそれで良いと、自棄にも似た行動だった。

 結果失った代償が、願いの果てまで共に戦うと約束を交わした部下で。
 皮肉にも、主人のために生きるという部下の誓いだけが、果たされた。

「────」

 思考の帳が降りる。
 長年追い求めていた願いに独りたどり着き、目を開けばきっと部下の姿はそこにない。

 最後の身勝手として部下が残した言葉は、ずっと彼女の奥底に秘められていて、最後まで言うことを禁じていた言葉だったのだろう。

 いつかははっきりと言わせたいと思っていた言葉だった。
 そのはずなのに、耳にした瞬間突如として映像が掻き乱されたように彼女の声音が聞こえなくなったのは、

「──……マスター」

「────」

 今はまだその言葉を聞くべきではないと、わかっていたからかもしれない。


 *

 *

 *


 ──時空石は未だ解明されていない謎が多い鉱石だ。
 錬石場を中心にラネール地方全域で活用され、比較的豊富な資源である鉱石。にも関わらず、時間遡行を起こす仕組みについては研究が進んでいない。
 それどころか、天地分離を経て大地から人間が消えてからはその研究自体が埃を被った遺産と成り果ててしまった。

 異なる時間を繋ぎ、過去を再現する力。あるいは現在の事実さえも捻じ曲げてしまう可能性すら、この石は持っている。
 無論、特殊な力は恩恵ばかりを授けてくれる訳ではない。使い方を一歩間違えれば、現在あるはずの存在の消失を招く恐れもある。
 そこまではいかずとも、過度に時空石の力に当てられたなら、封印した過去の記憶やあり得たかもしれない未来を見てしまうということもあるそうだ。
 
 意図せぬ形で見せられる、別の時間軸の自身、あるいは周囲の者たちの姿。それらが落とす影は私たち──特に彼にとっては重い意味を持っているはずで。

「…………」

 ぎゅっと閉じていた瞼を緩く持ち上げる。世界はじわじわと色彩を取り戻し、ここが拠点の一室であることを思い出す。
 必死に調べ上げた過去の文献と、聞き回った魔物たちの話を頭の中で整理している内に少し眠ってしまっていたらしい。
 直接的な解決策を見出すことは出来ず、歯痒い気持ちはいつまでも胸に居座っていた。

「……っ、」
「…………、」

 私の思考はそこで途切れ、浅くこぼれた吐息の音が耳に届く。
 膝上へ目を向けると、寝返りを打った彼が何かの苦しみに堪えるかのように体を丸めていた。
 私はわずかに乱れた白髪を柔らかく指で梳き、その額に手のひらを添える。

 ──ギラヒム様が唐突に倒れてから、三日が経った。
 彼が倒れたのはラネール地方から帰還をした直後のことだった。
 戦闘で負傷をした訳でもない。敵から特殊な魔術をかけられた訳でもない。何の前触れもなく、あまりに予告なく、唐突としか言いようのないほどに急な出来事だった。

 回復兵と呪術専門の魔物が調べた結果、判明したのはそれが時空石の力に当てられすぎたことによる副作用だということ。
 倒れたきり彼は一度も目を覚まさず、終わらない悪夢を見ているかのように苦しげにうなされ続けている。
 これだけ苦しんでいるならば、彼が見ているのは大切な人との記憶なのかと思っていた。

 ──しかし、

「…………リシャナ、」
「────」

 荒い呼吸に紛れてこぼれ落ちたのは、私自身の名前。それを聞くたび、必死に落ち着かせようとする感情の海にさざ波がたつ。
 私は再び目を伏せて、投げ出された彼の手を両手で包み込む。たとえ名前を呼ばれたとしても、今の私に出来ることはたったそれだけだ。

「──……マスター」

 せめて、彼を飲み込む悪夢が一秒でも早く彼を解放しますように。ささやかな祈りを捧げて、その手を握りしめた。

 ──やがて、私が瞼を持ち上げたのは、浅い吐息の落ちる音が耳に届いた時で。

「あ……」

 ふと私が顔を上げると、呆気に取られた表情したギラヒム様が、両眼の中一杯に部下の顔を映していた。そして、

「良かった、目が覚めたんです……ね゛っ!!?」

 目覚めた主人への安堵の言葉を言い切る前に──何も言われず伸ばされた手が、思いっきり私の額を弾き飛ばした。
 舌を噛みかけ、意識が飛ばされかけ、主人が目覚めた喜びすら危うく吹き飛んでしまいそうになる。

 が、額を抑えつけて彼に文句の叫びを上げようとした、瞬間。

「な、なにするん、で──?」

 怒りは急速に萎びて消えていく。代わりに私の頭を埋め尽くしたのは戸惑いと疑問符だった。

 起き上がったギラヒム様が、私の体を強く抱きしめたからだ。

「マスター……?」

 最初は、彼を突き動かした感情に圧倒的な憤怒の気配を感じた。けれど続いて伝わってきたのはない混ぜになった恐怖と、混乱と、安寧だった。
 部下の体を一心不乱に掻き抱く彼の表情は何も窺えないけれど、何か恐ろしい光景を目にして、今もその時見たものを恐れているということはなんとなく理解が出来た。

 私は少しだけ悩み、ゆっくりと片手を伸ばす。

「……大丈夫、ですよ」

 後頭部にその手を伸ばして綺麗な白髪を撫でると、彼の肩が微かに震えたことが伝わった。
 数秒の後、すぐ傍らで長く深い息が吐き出され、私の頭には彼の頬が押しつけられる。

「…………馬鹿部下」

 そこに触れるだけのキスを落として、ギラヒム様はもう一度私をきつくきつく抱きしめる。

 失くした何かを見つけ出したかのように腕の中の感触を抱き続けた彼は、その終わりに小さな声音で「温かい」と呟いたのだった。


(220122/らむ様リクエスト作品)


遺跡でぇとの最後、「過去に戻れるとしたら、どうする?」という問いかけに対し、部下が自分の恋心を捨てて「使命だけを果たす」と言い切ったため発生した分岐ルート、というイメージでした。