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*もし魔族長が部下にべったりになったら


 ──それは、遠い“いつか”の願いだった。


「ギラヒム様! すんごく数、増えてます!!」
「見ればわかる」

 目に映る光景をそのまま口にして、間髪入れず淡白な返事が返ってきた。

 とある日。とある戦場。とある包囲網。
 無数の敵に囲まれるという状況は、主従にとってありふれた日常の一端でしかない。
 主人は余裕を見せつけながら剣と魔術と部下を使って敵を圧倒し、部下は敵の攻勢と主人の無茶ぶりに悲鳴を上げながらなんとか戦い抜く。

 見た目だけなら普段と何も変わらない戦場。
 ──しかしその中で、主人が抱える欲の一つが振り切れた時。
 殺伐とした戦場に、ある変化が訪れた。


「こんな、魔術ばっかり使う相手に私が出来ることなんて無……っわ!!」

 増え続ける敵の数に辟易としている間にも、四方からの魔力の光が容赦なく身を襲う。基本剣しか使えない私にとって、魔法の攻撃は避ける以外に対処のしようがない。
 触れれば身を焼く炎の弾道を躱し、なんとか間合いを詰めるための道筋を探ろうと視線を走らせる。

「やば……!」

 だがそれを見つける前に、私は何手も先に動いた敵に取り囲まれてしまった。
 逃げる間も与えず、彼らは一斉に武器を掲げて魔力を集め出す。そして絶体絶命の危機を迎えた、その瞬間。

「──!!?」

 目の前で起きたことに、私は目をしばたたかせた。

 私の傍らに立つのは、我が主人ギラヒム様。
 彼は魔剣を片手に放たれた魔力の光を全て消し飛ばし、呆気に取られる私の体を抱えていた。

 つまり、鬼畜の化身であるマスターが、私のことを──守ってくれていたのだ。

「ま、すたー……?」

 理解が追い付かない状況に、口に馴染んだはずの敬称ですら途切れてつっかえる。
 彼は困惑を深める私の腰に腕を回し、耳に唇を寄せ──そのまま、

「──愛しているのだから、当たり前だろう?」
「ッッッ!!!」

 自然な口ぶりで、私を殺す一言を囁いた。

 注がれた言葉に私の内臓はダイレクトにぶち抜かれ、肺と心臓の機能が数秒制止する。
 為す術なく地面に崩れ落ちた私に対して、主人は何か文句があるのかと言いたげに顔をしかめた。

「……何。守ってあげるのもこう言ってあげるのも、初めてではないだろう」
「そう、です、けど……は、破壊力が……! どっちかというと今、マスターに殺されかけました……!!」
「なら、そうなってしまわないよう毎分言い聞かせてあげるしかないね?」
「早死にするだけですからそれ!!」

 戦場にいるのに敵の攻撃以外で強烈な一撃を食らい、もはや半泣きになる。が、当の主人は頑なに態度を崩さず、ついでというように部下の額と唇にキスを落とした。

「ん……そう言いながらイイ顔をしているじゃないか。舌も入れてあげようか?」
「何の提案されてるんですか私!? 絶対今そういう状況じゃないですよね!?」
「なに、遠慮はいらないよ。お前の唇ならいつでもいくらでも楽しんでいられるからね」
「何の文脈も通ってないです、マスター……!!」

 敵の前でもお構いなしに部下を愛でる主人。これは教育し直さなければと思うのに、頭を撫でる穏やかな手の感触に私の精神が早くも限界を迎える。
 場合によっては拷問や尋問よりも致命傷に至りかねない彼の愛情表現に心が折れそうになった。

 ──瞬間。

「……むん」
「わっ……!!」

 死角から眩い閃光が飛んできて、主人が間一髪の瞬間移動でそれらを避ける。
 彼に身を抱えられたまま視線を巡らせると、態勢を立て直した敵さん方がさまざまな武器をこちらに向けていた。
 主従の舐めた振舞いに、神経を逆撫でされた彼らの敵意はさらに鋭いものへと成り果ててしまったらしい。

 対する傍らの主人は眉根に皺を寄せ、鬱陶しげに嘆息をこぼした。

「不愉快極まりないね。このワタシの至福の一時を邪魔するなんて」
「い、いやマスター、そもそも人前でというか戦場でイチャつくのは、よろしくないんじゃないかなって……」

 小さく反論する私に彼はちらりと視線を送る。次いで端正な顔立ちは心底不服そうに歪み、

「……四六時中、お前に触れていないと気が済まないというのに」
「────ッッ」

 不貞腐れた主人の言葉が、今度は私の気管を圧し潰してきた。
 彼の口調と表情と言葉の全てが比喩でなく私を低酸素状態に追い遣り、危うく気絶しかける。なんで私、実の主人に何度も殺されかけているんだろう。
 そんな部下の懊悩を他所に、ギラヒム様は悠然と髪をかき上げ吐息を落とす。

「どうせ今から死ぬ奴らなんだ。冥土の土産に素晴らしい光景を見せてあげているのだからむしろ感謝して欲しいくらいだね?」
「マスター……たぶん、それは呪われます……」

 肩を竦めて平然と横暴をのたまう彼の頭に、自重の二文字は欠片も存在しないらしい。
 それだけならまだしも、合間合間に飛んでくる攻撃を視線も寄越さず片手で往なしているのだから、そろそろ敵さんにも同情したくなってきた。
 敵さんの殺意は色濃くなるばかりだが、主人は全く動じず蔑んだ笑みを彼らに送る。

「そう言うのなら、片手間で往なせてしまう程度の攻撃しか出来ないあれらに文句を言え。片手が空いてしまうなら、その手でお前を愛するしかないだろう」
「戦闘も愛するのも片手間でやることじゃないので今は戦うことに集中して下さいッ……!」

 全く筋の通ってない主張だが、また一つ飛んできた魔術をあっさりと弾き返してしまう彼の姿を見ていると否定する気も起きなくなってきた。

 けれど、そろそろ本気で戦わなければ埒があかない。
 私は体を抱いたまま離そうとしない彼の胸板を軽く押し返し、なんとか顔を上げた。

「か、帰ったら、何でもしていいですから、ちゃんと戦いましょう?」
「────」

 苦し紛れの提案をすると、じっと睨まれた後一度だけ唇にキスを落とされる。
 彼はそのまま、ほわほわと茹った私の頭に直接言葉を注いだ。

「二言はないね?」
「…………う」

 意味深な響きを持つ彼の言葉に渋々頷くと、満足げな笑みを浮かべ鼻を鳴らされた。

 と思えば、腕を引かれて彼の前、つまり戦線へと私は立たされる。疑問符を浮かべ主人の顔を見上げると、温度の低い眼差しが返ってきた。

「ほら、間抜けな顔をして突っ立っていないでとっととお前も剣を抜け」
「私も戦うんですか!?」
「当たり前だろう。一秒でも早くワタシに身を捧げるために、全力でやれ」
「……そこらへんはブレてなくて安心しました」

 あれだけ甘々な対応をしておきながら、部下としての務めは軽くならないらしい。主従である限り、その辺りの宿命は逃れられないのだろう。

 一度項垂れ、とにかく早く終わらせようと私も腰の魔剣を抜いた。

 *

 ──数分後。

「さ、全滅したよ?リシャナ」
「したよ?って……」

 明るい声音で振り返られたのは、最後の一人が主人の魔剣で捌かれた直後だった。

 敵を殲滅し終えた戦場に何の感慨も抱かず、早々に魔剣を消した彼がこちらへにじり寄ってくる。
 結局、ほとんどの敵は主人の手により斬り伏せられ、私は殺気立つ彼の背後で戦々恐々としながら援護に回ることしか出来なかった。

 そんな主人はといえば、待ちきれなかったと言わんばかりに部下を思いっきり抱き締めてくる。
 頭を撫でくり回され首元の匂いを吸われ、やりたい放題された後、ふと体を離した主人が顔を覗き込んできた。
 余裕を保っているようで、その眼差しは心なしか期待が滲んでいる。

「これで邪魔者はいなくなったよね?」
「そんな晴れ晴れした顔で言われても……」
「……いなくなった、よね?」
「うう……」

 圧を込めて繰り返される言葉の意味は、聞き返さずとも理解出来る。
 ……要するに、戦闘お疲れ様ですのちゅーをご所望らしい。

 しかもこういう時は私からしないと絶対に納得してもらえない。
 気恥ずかしさに苛まれながら待ち受ける唇へ自身の唇を重ねると、すかさず後頭部を鷲掴まれ角度を変えて深く口付けられた。

 敵もいなくなって欲を留める理由が無くなった彼は一切の躊躇なく舌を絡めて唇を貪ってくる。
 やがて呼吸のために一旦唇を離した主人は、私の腰に腕を回して艶やかに囁いた。

「リシャナ」
「……はい」
「……シたい」
「絶対ダメです」

 空気に流されかけた理性をなんとか保ち、部下の服に伸びる手をがっしりと掴む。
 固い意志でそれ以上のおイタを防ぎ、数秒不満げに睨まれたが渋々ながらもようやく解放された。

「拠点までそんなに遠くないですし、我慢してください」
「…………チッ」
「今お外ですよ、マスター。天下の魔族長が見せちゃいけない拗ね顔です、それ」

 かなり不満げではあるが、拠点に帰ることは納得してくれたらしい。
 一秒でも早く帰りたいようで、私の身は早々に彼の腕に抱き上げられた。

 このテンションで連れ帰られたら何をされるのか。私は後々待ち受けていることを想像して身震いし──、

「────」

 そしてふと、あることに思い至った。
 彼の横顔に視線を注ぐと、普段と変わらない整った顔立ちがそこにある。
 対し、普段では考えられない甘ったるさで私を愛でた今日の主人。

 それらを眺めながら、私は一つの結論にたどり着く。

「マスター」

 敬称を口にすると、歩みを止めて視線を寄越される。
 感情を読み取れない視線を受けながら、私は少し悩んで、小さく口元を緩めた。

「きっと……これが今日で終わっちゃう夢だったとしても、」
「────」
「──愛してるって言ってもらえて、すごく幸せでした」

 その言葉に返ってきたのは、数秒の沈黙。
 それに次いで、先程まで部下を甘やかしていた時の面影もない、見慣れた嘲り顔だった。

「鈍いお前にしては、気付くのが早かったね」
「……あれだけ振り切れてたら、さすがの私も気付きますよ」

 推測混じりだった私の言葉を主人はあっさりと首肯する。
 要するに、夢なのか幻覚なのかわからないが今のこの状況は本物ではなくて、帰る私たちを待ち受けているのは拠点ではなく現実ということらしい。

 そうわかってしまえば、あれだけ振り回されておきながらそれはそれで寂しいと思う気持ちが湧き上がってくる。 
 だって──目の前の彼が囁いてくれた言葉は、本当の私が心のどこかで望んでいたものだったはずだから。

 私は主人のマントを軽く引っ張り、その胸元へ頭を押しつけて最後のおねだりを口にする。

「……いつか、今日のことが現実になったらいいなって。心のどこかで願うだけなら許してくれますか?」

 その願いを耳にした彼がどんな表情をしていたのか、私が目にすることはなかった。
 やがてその唇からは短い笑みがこぼれ、 

「気が向いたらね」

 互いに手を絡め合い、もう一度だけ唇を重ねられた。


 ──遠い“いつか”に抱く願い。
 何度も心を乱され、最後の最後にはちょっとだけ寂しくなった、短い一時。

 それでも確かに、幸せな時間だった。