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*夢主登場ナシ

 ──夢。夢をみていた。

「────」

 その場所は暖かな木漏れ日が降り注ぐ森の中にあった。
 ざわめく木々の喧騒は遠く彼方。今立ち尽くしているこの場所が、地上を深く深く穿ち螺旋状にくり抜かれた穴の最下層に位置しているからだ。

 故に、意識を上層から目の前の景色へ移せば耳に届く音は無に等しくなる。それはここが無骨な岩壁に囲まれているからではなく、生命の気配が一切感じられない地であるからでなく──ある存在が作り出す厳粛たる静寂に満たされていたからだった。

「────」

 視線はここに訪れた当初から眼前にあった。
 奪われている感覚は視覚だけではない。防音壁に囲まれているような静謐をたたえ、濡れた土の匂いがするはずなのにそれすら断絶され、思考は全て中央のあの存在に支配される。

 同時に鈍い疼痛が頭を侵し、小さく顔をしかめる。本当は、雑念を全て切り捨てて感情の色を見せず振る舞うべきなのだろう。
 だがここに立つ時はいつも、先の見えぬ閉塞感が首を絞めて喉笛が押し潰されそうになる。

「────、」

 これまでならば見えぬ隔たりの外からそれを望み、そうして後は引き返すのみだった。
 しかし此度は、髪を撫でつけ音のない呼吸を数度繰り返し、束の間の逡巡に燻っていた双眸を持ち上げた。やがて止まっていた足を一歩、二歩と進めて──、

「──っ、」

 ──ギラヒムは細い指先を、初めて封印の石柱へと伝わせた。

 返されるのは何の変哲もない感触だけだ。冷たくも温かくもなく、わずかにザラついた無機質な手触り。それすらなければ、目の前のこの光景が幻だとも思い込んでしまえる。

 今までこの石柱に触れてこなかったのは、ここに眠る者への無礼に当たるからだと思っていた。けれどこうして触れてみれば、全てを奪った小さく脆いこの杭の存在を自覚したくなかっただけなのだと思い至った。

 呼吸を押し留め静かに瞑目する。脳裏に過るのはここに至るまでの長く長く果てしない戦いの系譜だ。
 初めて石柱を目にし、自身と主の繋がりが断ち切れた生々しい感触と突き落とされた絶望の渦。女神の監視が為され踏み入ることすら出来なかった地にようやくたどり着き、再びあの方の前に立った時の幾千ぶりの安息。

 そして、長きに渡る戦いの終わりを始めようとしている今。あるのは女神に対する憎悪と、時を経ても朽ちず濁ることのなかった忠誠のみだ。

「……ここから解放されたなら、貴方は、」

 冷たい空気に響くはずだった声はそこで途切れて地に落ちる。その先を口にするのは、あまりにも未練がましいと思ったからだ。

 全てを終えた後のことなど、考えたところで何の慰みにもならない。賛辞どころか言葉すら貰えないかもしれない。共に戦場を駆けていた時と同じだ。あの方の心は、数千年の時を経たとて変わらぬ大望の元にしかないのだから。

 ──だから、その大いなる道を拓くための武器として、手段の一つとして自身が使われる。それでいい。その時が来たなら、それで。

「……フ、」

 そこまで思考を巡らせ、自嘲的な苦笑がこぼれ落ちた。我ながら単純なものだと思った。考える時間はいくらでもあったというのに、結局結論はいつも同じだ。呪いのようで希望のような、たった一つの命令が自身をここまで導いてきたという事実に変わりはないのだ。

 再び眼下の古びた石柱を見遣る。そうして数十分前にここに訪れた際、頭の中で廻った追想を反芻する。

 ──夢を、みていた。
 見ていたのは懐かしき過去。主を失う前――言ってしまうなら自身が最も幸せだった頃の、泡沫のような光景だった。
 この地に赴いたのは主を失ってから今までの記憶を巡らせ決意を固めるためだった。しかし頭を満たしたのは無意識下で思い出すことを避けていた、主と共に戦場に立っていた頃の記憶だ。

 それを取り戻すために果てぬ時を彷徨った。
 それを取り戻すために幾度も幾度も牙を研いだ。
 それを取り戻すために剣を振るい続けた。
 再び助けになるために、生き続けた。

 だから、

「マスター」

 ──次にこの敬称を紡ぐのは、貴方の前に立つ時だ。

 魔族長──否、ここにおいてはただ一人のための存在である彼は。
 奥底から込み上げる熱の温度を確かに感じながら、分厚い雲が覆う天上を見上げた。


(HD発売記念カウントダウンSS-ギラヒム)