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*夢主登場ナシ

「ッてぇ……!」

 地に足が着くと同時に腰の痛みが鈍く疼いて、悪態がこぼれた。
 どうやらかなり勢いよく打ち付けてしまったらしい。変に意地を張らずロフトバードに助けを求めに行かせればよかったと、バドは薄い後悔に顔をしかめて歯噛みした。

 腰をさすりながら背の高い草を踏み分けていると、木々の隙間から覗いた景色からここが女神像の島の下層部なのだとわかった。とりあえず上を目指して歩き続ければ、この湿気った場所からは脱出出来るはずだ。

「なんでオレ様がこんな目に……」

 誰に向ける訳でもない恨み言を落とし、全身にのしかかる虚しさに項垂れる。
 数分前までロフトバードに乗って気分良く飛んでいたというのに。──まさか急旋回に失敗して体ごと吹っ飛ばされてしまうなんて。

 子分のラスとオストも共に飛んでいたが、自分だけかなりのスピードを出して前を行っていたため途中ではぐれたのだろう。こんなところでひっくり返っているなんて思いもしないはずだ。……この姿を見られなかったのは不幸中の幸いだ。

 とにかく、どこか腰を落ち着けるところにまで出てしまいたい。少なくともこの草木が生い茂っている島の裏手よりは、女神像の周辺まで出た方が落ち着けるはずだ。

「くそ、ついてねぇ……」

 何度目かの悪態が口を衝いて出て、湿った土の匂いを嗅ぎながらひたすら進む。
 そうして数分歩き続ければ、ようやく見覚えのある景色──女神像の足元に位置する、高い外壁に囲まれた広場が見えてきた。

 ここまでたどり着いた自身を慰めるかのように、柔らかな日差しが頬を撫でる。バドは安堵と疲労が入り混じった盛大なため息を落とし、ふらふらと女神像のもとへ歩み寄った。

「……?」

 刹那。暖かな風に乗って、何かの音が耳を掠めた。無意識にも聞き入ってしまう声──否、歌声。
 腰の痛みも忘れ、その音色に導かれるように足は引き寄せられる。それは今まさに目指していた女神像の敷地から聞こえてきていて、バドはおそるおそる敷地の入口を覗き込んだ。──そして、

「……お、?」

 ──そこにいたのは、女神だった。

 正確に言えば、女神と見違えてしまうほどに美しい少女だった。風になびく金色の髪が太陽光を反射してキラキラと煌めいている。その下から桜色の頬が覗き、長い睫毛に縁取られた青の目は慈愛の眼差しをたたえていた。
 バドが直感的に抱いた感覚は、決して過剰な比喩ではない。目に映るもの全てに見入られてしまう神聖な美しさが、その少女にはあったのだ。

 彼女は携えた金色のハープに白く細い指を巡らせ──ふとそれを止めて、ゆっくりと顔を持ち上げる。

「……バド?」
「お、あ……」

 彼女が同級生だと気が付いたのは、透き通った瞳の中に驚きに満ちた顔が映り込んだ時だった。

「ぜ、ゼルダ……?」

 ぽかんと開いた口から彼女の名前がこぼれ落ち、対する少女も大きく見開いた瞳を数度瞬かせる。

 ……ああ、相変わらず綺麗な目してんな。
 どこまでも澄み渡っていて、一欠片の濁りもなくて、吸い込まれてしまいそうな蒼色。束の間の夢遊状態からバドが引き戻ったのは、ゼルダが唐突に息を呑んだ時だった。

「──どうしたの!? その傷!」
「へ、へ?」

 呆気にとられたバドは駆け寄ったゼルダに戸惑う間もなく腕を引っ張られる。瞬間、軽く刺されるような痛みが走って、バドは目を剥き自身の右腕を見遣った。
 バドが視線を注ぐ先、ちょうどそこには肘から手首にかけて数センチほどの浅い切り傷が刻まれていた。おそらく先ほど草を掻き分けていた時にでも切ってしまったのだろう。

「血、出てるじゃない……! ちょっと待ってて!」
「べ、別にこんな傷、どうってこと、」
「いいから!」

 ぴしゃりと遮られ、情けなく口を噤むままバドは肩を落とす。
 ゼルダはハープを小脇に抱えて白いハンカチを取り出し、滲んだ血を丁寧に拭き取っていく。ほのかな甘い香りが鼻孔をくすぐり心拍数が一気に上がるが、ゼルダが気づく様子はない。

「もう、どうして突然怪我なんてしてるの……」
「さ、散歩してただけだよ。き、きっとどっかに引っ掛けちまったんだろ……」

 苦し紛れの言い繕いに桜色の頬がわずかに膨れたが、深くは言及しないでくれた。

 処置の最後に傷口へギュッとハンカチを結ばれると、ようやくゼルダの表情が綻ぶ。

「……うん、これで大丈夫」
「お……おう」

 バドは自身の頬が緩みかけていたことに気づき、ゼルダが顔を上げる前にそれを引き締め直す。
 そして何度か声を出すことに失敗した上で、眼前の少女を見下ろし問いかけた。

「て、ていうかゼルダこそ、こんなところで何してたんだ?」
「わたしは……えっと、」

 深く考えず投げかけた質問に、今度はゼルダの歯切れが悪くなる番だった。だがそうなる理由が見当たらず、バドも言葉を続けられないまま気まずい沈黙が訪れる。
 聞いちゃいけないことだったか……?と、今さらな焦りが湧いて出てきて、言い淀む彼女に何かを告げようと口を開きかけた──その時だった。

「……あっ」

 先に声を上げ、視線を上げたのはゼルダだった。つられてその方向に首を捻ったバドが目にしたのは、円を描きながら青い空を旋回するロフトバード。次いで真上から聞き覚えのある声が降ってきて、考えずともあの鳥に乗っているのがバドを探しにきたラスなのだとわかった。
 ──と同時に、ラスの姿を確認したゼルダが蒼色の目を見張り、口元を覆った。

「いけない……! ラスもこっちに来ちゃう……!」
「え、お、おい……?」

 途端ゼルダは踵を返し、ぱたぱたと広場の出口へと駆け出した。バドは何も言うことが出来ず、行き場を失った手だけが中途半端に宙に浮かび静止する。
 彼女を止めようとする言葉は喉奥まで出かけていた。しかしそれを発することは叶わない。

 ──敷地を出る直前。ゼルダがこちらへ振り返り、その顔は柔らかな微笑みで彩られていて、

「──わたしがここでハープの練習してたこと、みんなには内緒ね?」
「────」

 薄い唇に人差し指をたてて、鈴の声音がそれだけを告げた。

 ロフトバードから飛び降りラスが駆け寄ってきた頃には、バドは微動だにせず立ち尽くしたままだった。「バドさん!」と声を張り上げられたはずなのに思考の遠く彼方へ通り抜けていく。

「急にいなくなるんでびっくりしましたよ! こんなとこで何してたんすか? つかさっきいたのってゼルダっすか?……バドさん?」
「………………」

 一切反応が返ってこないバドに対し怪訝な顔色を浮かべたラスは、バドの顔とゼルダが去った後の景色を交互に見遣り──そして何かを察したように顎を引く。次に彼を呼びかけた声はやや音程が下がっていて、

「さすがに、それは無理っすよ……」
「うッせえ!! 何も言ってねぇだろ!!」

 低い位置にある頭に拳を落とすと悲痛な苦鳴が上がった。「本当のことなのに!!」と余計な一言まで返ってきたが、そんなことはもはやどうでもよかった。

「…………」

 腕に結ばれたハンカチを見遣る。頭の中で何度も巡り、反芻されるのはあの透明な歌声と柔らかな笑顔。腰の痛みとここまでに溜まった疲労はいつの間にかどこかへ消え失せていて、代わりに胸に抱いたのは一つの決意だった。

 ラスの言う通り、自分じゃ手の届かないところにいる存在なのかもしれない。さらに言うなら、あの子にとってはあの幼馴染の方がお似合いなのだろう。そんなことは誰が見たってわかる。──でも、

「……次は、」

 今日はたくさん怒らせてしまったから。次は絶対笑顔にしてやろうと強く強く思った。最後に見たあの笑顔を、今度は自分から咲かせてやりたいと思った。
 次だけじゃない。これから何度も、何度でも。それならあいつにだって負けないはずだ。

 きっとあの子は──ああして笑っている方が、よく似合うはずだから。


(HD発売記念カウントダウンSS-バド)