──そろそろ普通のキスが欲しい。
それはあまりに欲張りな願望で。
それはあまりに部下として不躾な要望で。
それはあまりに深刻である切望だった。
「────」
だから、それこそ最初のうちは心の底からこの瞬間を喜んでいた。
おそらくただの気まぐれだったのだろう。ふと名前を呼ばれ何の気無しに主人、ギラヒム様の元へ歩み寄れば膝に乗せられ顎を掬われた。
そのまま数度、舌を挿れることもなく柔らかな唇の感触と淡くかかる吐息の熱だけを与えられ続け、やや気恥ずかしくなりながらも「マスターにもキスだけしたい時があるんだ」なんて少しだけ感心してしまった──時だった。
「…………?」
その感触が不意に唇を離れ、別の場所──私の鼻先に落とされた。
それだけで私が瞼を開くことはなかった。
一旦離れた唇がたまたま鼻先に当たっただけかもしれないし、そもそもこの仄温かい幸福感に揺られながら至近距離で彼の整った顔を目にするのは心臓に悪かったからだ。
「────、」
「ッ!!?」
しかし、二度目はそうはいかなった。
かぷ、という効果音が聞こえそうなほどに自然な動作で、彼の唇が私を食んできたからだ。
その場所は唇でも耳でもなく──私の、鼻の頭で。
「な、なに、んむッ!?」
何をされているのか一ミリたりとも理解が出来ず、私は瞼を開き喚き声を上げかける。が、黙って食されていろと言うかのようにその口は彼の大きな手により塞がれた。
抵抗を訴える手段は敢え無く奪い取られたが、それでも彼がしようとしていることだけは見定めようと私は懸命に視線を持ち上げる。
文字通り目と鼻の先にある主人の顔。私の鼻筋を柔らかい唇が包んで、そのラインに沿って薄く跡をつけるように硬い歯が宛てがわれる。
……と思えば、次は眉頭と鼻根の間をぬるりと彼の舌先が這って、その箇所を緩く吸われた。それで彼の謎の行為が終わりを告げることはなく、鼻の骨の感触を確認するように甘噛みされ、唇だけで食まれる。
「──ッッ、」
くすぐったい、そわそわする、気持ちいいかどうかと聞かれたらよくわからない。
彼も彼で何が楽しいのか、何に興奮するのか。艶やかに目を細め、口を塞いでいた手を私の後頭部へ回しているあたり、思う以上に彼も夢中になっているのかもしれない。
何より与えられる感触に加え、唇にキスをする時以上にギラヒム様の魔貌を間近で感じて、逃げられもせず彼の腕にしがみつくことしか出来なくて。状況が飲み込めないまま頭が熱暴走しかけていた。
「……ん、」
そうして混迷に溺れる私の耳に、低く小さく掠れた彼の声音が届く。と同時に鼻の頭に彼の唇が柔らかく添えられる。
穏やかな温もりがそこを包んで……これはもしかしたら、滅多に与えられない純粋な愛情を持ったキスというやつなんじゃないかと思い始めた。──その瞬間だった。
「──はぐ、」
「いぎぁッ!!?」
温かさを纏っていた鼻先に──歯を立て思いっきり噛みつかれ、可愛らしい咀嚼音に対して喉奥が潰れた間抜けな悲鳴が上がった。
確実に歯形が残ったであろう自らの鼻を両手で庇いながら、やはり悪魔でしかなかった主人から膝上で最大限可能な距離を取る。
鼻血は出ていないがつけられた外傷がじんじん痛み、つまり何をされたのかさっぱり訳がわからない。
「意味が、意味がわからない、です、マスター……! 私の鼻がなんか悪い事しましたか……!? これは何のプレイなんですか……!?」
「フン、ワタシの純粋無垢で微笑ましい好奇心というやつだよ。情緒のない奇声のせいで全て台無しになったが」
「情緒ないのは貴方の噛み癖のせいですいつ何時だって!!」
小動物の噛み癖なら愛らしいで済んだかもしれないけれど大の大人(という範疇に彼が収まるか否かは定かでない)が、しかも下手したら肉をも裂く牙を持つ魔族が噛み付いてくるのだから毎度毎度命懸けだ。
今しがた襲われた鼻も、しっかりくっきり噛んでくださったせいで歯形付きのまま過ごさないといけなくなってしまった。マーキングするにしてももう少し女の子にとって夢のある付け方にして欲しかった。
「これで私に変な性癖が生まれたらどうするんですか……そこは普通でありたいんですけど私……」
「さあ? お前が何を好もうと求めようとワタシには関係がないね。いつだってお前はワタシの嗜好に使われる側でしかないのだから」
「嗜好って言っちゃった」
先ほどの一連の行為について、好んでやったとドヤ顔で自白した主人。
その膝上に乗せられ次に試される嗜好、もしくは性癖は何なのか。私はただただ辟易としたまま彼に身を委ねることしか出来ないのであった。
(2021春企画)
ナザリンガスというらしいです。鼻吸引フェチ。