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「もう……むり……」

 辛うじてその呟きだけを残し、私の体は柔らかなベッドへと投げ出された。
 心の底から安心出来る自室の、沈むだけで幸福感に包まれるお布団の中。私はしばらく間抜けな呻き声を上げながら顔を突っ伏し、待ちに待った瞬間を噛み締めていた。

 主人に従順たる部下でも、世界にとっての悪者でもある魔族でも。人間である限り充分な睡眠は必要なのだ。至極当然の真理だけれど、今なら声を大にして主張出来る。
 ──二徹からようやく解放された、今なら。

 戦地で二晩を明かしたなら、仕方ないと言えただろう。
 しかし今回ばかりは純粋に休息をとる時間がなくこうなってしまった。

 稀にあることだった。夜行性の魔物たちのお世話をしたり、次の作戦を練ったり、空へ物資調達にいったり、主人のお世話をしたり。魔族長の部下という役割は思いの外やることが膨大だ。
 無論、主人のお世話以外は私一人のお仕事という訳ではないが、時と場合が悪ければ全て自身で賄わなければならないこともある。
 それらが重なりに重なったりするとこうして数日寝られない状況が発生したりする、というわけだ。

 ……そうしてお務めに追われ、やり過ごし、合間合間で主人にいじられ。ついに私は自由な時間を得たのだった。今からすべきは睡眠一択だ。
 たとえ今がお昼真っ只中であってもその意志は変わらない。寝る。絶対に寝る。

 固く心に決め、私はベッドの上で綺麗な就寝体勢をつくった。後は瞼を閉じて夢の世界へ落ちるだけ。すぐさまその時はやってくるはず。

 ──しかし。哀れな部下のお休みは、無情にも儚く砕け散ってしまう運命であったのだ。

「──さあ! ワタシが来てあげたよ、リシャナッ!」

 ……ご来襲になられた彼の存在によって。

「…………なんすか」

 予想通り、いや何故か予想を超えるテンションで部下の部屋へ押し入ったのは我が主人、ギラヒム様だった。
 私はベッドへ横たわりお布団に包まれたまま視線だけを寄越す。口にしたのは四文字だけだ。

 基本主人のことは大好きなので「別に待ってないです」とまでは言わないけれど、姿勢を正して明るい声音で彼を迎える気力はとっくに尽きていた。
 当然ながら不躾そのものと言える部下の態度に、彼は不満を投げかける。ポージング付きで。

「主人を前にして微動だにしないとは、お前の怠惰も極まったね、リシャナ」
「……そです。絶賛極め中です。高みを目指してます」

 私のこの投げやりな返答が主人の機嫌を損ねることは重々承知だったが、もはや怠惰でもなんでもいいから寝かせてほしかった。彼と話している今ですら気を抜けば瞼が落ちてしまいそうなのだから。
 しかし私の些末な望みが彼に届くことはなく、音程を下げた声音が鋭い視線と共に向けられる。

「せっかくお前の目にワタシの美しさを焼き付けてやるために来てやったというのに」
「もう焼き付いてますし刻まれてますし毒されてるのでダイジョブです」
「…………」

 普段なら絶対にしない粗雑な相槌は、いっそのこと痛快ではあった。さすがにほんの少し罪悪感も湧いてきたけれど嘘は言っていないからセーフということにしておく。

 予想に反して部下の対応がそっけないせいか、主人からは珍しく逡巡の気配が漂ってきた。
 その様子を察しながらも瞼を閉じて口を開かずにいると、私の眠るすぐ側にまで彼が近寄ってくる。そして、

「リシャナ」
「────」

 一つ、私の名前を呼ぶ声が落ちてきた。
 その声色だけで、私は理解する。

 今日は、主人の機嫌が良い日だ。……もしくは甘えたい日というべきか。
 この眠気がなかったら私だって喜んで甘え返したのに。つくづく主従間のタイミングが合わず、シーツに顔を埋めたまま歯噛みする。
 だがそれでも『睡眠』と『主人の相手』をかけた天秤の傾きが変わることはなかったので、私が反応を見せることはなかった。

「…………、」

 淡い自責の念に苛まれながらも頑なに反応を返さずにいると、彼の口から小さく息がこぼれる音がした。諦めたのか呆れたのか、続く言葉はない。
 いずれにせよ私にとって待望の時が訪れてくれたのだと肩から力が抜けた、瞬間。

「ぎゃうッ!!」

 ノーガードの部下の額を細い指が貫き、魔物が上げるのと同じ苦鳴が響き渡った。
 警戒はしていたものの、半眠状態の頭への直接攻撃に脳が揺さぶられる。
 額を両手で抑えながら主人を睨むと、ようやっと反応を見せた私に対するしたり顔が返って来た。

「もう!! 二徹明けなんですよ私!!」
「お前の睡眠不足など知ったことか。部下なら日頃から万全の状態で主人を迎えろ」
「万全の状態で迎える気持ちは充分なのにお務めの終わりが見えないんです! 魔族だって過労で死ぬ生き物なんです!!」
「お前の要領の問題だ」

 ああ言えばこう言う我が主人に私は唇を噛んで抗議の視線を送る。
 空にいた頃、一部の大人たちが“ろーどーの苦しみ”とか“かろうし”とかいう言葉を神妙な面持ちで口にしていた理由が今ならよくわかる。
 あと部下と違って純粋な魔族のくせに健康的な睡眠を常日頃取っているマスターにだけは文句を言われたくない。

「私も一応人間なんで寝ないとお仕置きも受けられずに死んじゃうんです、だから意地でも寝ますッ」

 そう捨て台詞を吐き、私は主人の方へ完全に背を向けてシーツへ顔を埋める。こうなれば徹底抗戦の構えだ。

 背後から剣呑な視線が突き刺さるのを感じたが、その後部屋には沈黙が訪れた。
 それでも今度は背後の気配を探って警戒をしていると、ベッドの軋む音が耳へ届く。ギラヒム様が縁に座ったのだろう。

「……っ、」

 と、思ったその時。私の頬を冷たい肌がするりと撫でて、耳の縁をなぞった。考えるまでもなく彼の細い指だとわかり声を上げそうになったが、頬の内側を噛んでなんとか耐える。
 抗い難い刺激にもはや眠る眠らないの問題でもなくなってきたけれど、ここまできたら意地だった。

 その行為は数度繰り返されただけですぐに終わり、一旦指が離れる。
 束の間ごそごそと衣摺れの音が続き……そして、

「──リシャナ」

 熱っぽく、切なげに名前を呼ばれてぞくりと肩が跳ねる。同時にギラヒム様が背後から両腕を回し、私の体は彼に抱え込まれた。
 身動きが出来ず頭も回らず、薄い吐息をこぼす唇が耳へと寄せられ──そのまま、

「…………シたい」

「ぐゥッ……!!」

 注がれた声は低く、甘やかに、濡れたもので。魔族長という肩書きの人物が出しているとは思えない程艶やかだった。
 表情まで目にしていたら、私の息の根は確実に止まっていただろう。

 だが心の方は完全に折られてしまった私は、半泣きのまま後ろへ首を捻る。と、早々に頬を捕まえられ唇を奪われた。
 何度も吸われ、噛まれ、角度を変えて貪られる。性急な咀嚼の果てに解放されて彼の腕の中へ収まった時には、完全に抵抗する気力を失っていた。

「もう……わかった、ので……その声、だめです……心臓にわるいです……」
「フン、最初からそう言えば良かったものを」

 勝ち誇って鼻を鳴らす主人は言いながら私の後頭部を撫でる。ようやく相手をしてもらえたのが嬉しかったのか、その手つきは柔らかく心地よいものだった。
 眠気で蕩けかけた頭は深く考えることを許さず、私は本能のまま彼の胸板に顔を埋め、その背に両腕を回す。降ってきたのは心なしか満足げな声音だった。

「お前の単純な頭の殺し方は千を超えて存在しているね」
「……仕方ないじゃないですか。マスター大好きなのは事実なんですから」

 顔を上げて反論すれば、先ほど攻撃をくらった額へ今度は愛おしげに唇が落とされる。甘い匂いが鼻を掠め、私は完全敗北を悟った。
 このまま眠れたなら良かったのに、それをするには今から彼が求める対価を支払わなければならない。

「……終わったら絶対一緒に寝ますから。私が起きるまでそこにいてもらいます……!」
「ああ構わないよ。……寝られたら、の話だけれど」
「殺すつもりですか?」

 我が意を得たりと付け加えるギラヒム様。……なんとか三徹目だけは阻止しなければならないとうっすら冷や汗が伝う。
 これだけ好きに扱ってくれたささやかな抵抗として、今日のマスターのことは絶対に忘れず覚えておいてやろうと思った。