──今日は聖なる夜ってやつらしい。
というのは空で小耳に挟んだ話。女神とは全く関係なく、ただただ人々が美味しいものを食べ街や各々の家を飾り立てて、贈り物を交換したりする日だとか。
由来とか何故そうするのかとか、細かいことはわからない。私が空にいないうちにいつのまにか出来たイベントだった。
そしてそんな浮ついた空気の真っ只中とはつゆ知らず、一人空に足を踏み入れた私は……街の幸せムードと散見される恋人たちの空気に当てられ、何とも言えない気分のままお仕事だけを終え帰ってきた。
「……さむ、」
当然雲の下の大地にそんな気配はなく、星や街灯りに彩られた空とは対照的すぎる寂しい景色が私を迎える。
大地は好きだけれど、今日ばかりは何とも虚しい気持ちに駆られてしまった。
「────、」
と、空虚さついでに先程目にした光景が脳裏に過り、無意識に吐き出した息は白く染まって夜闇へ溶けていく。
一人拠点への帰路を辿りながら頭の中で夢想するのは、空で見た恋人たちの様子。
自分にとって一番大切な人と、淡い光に囲まれながら同じ熱を共有出来るのは──純粋に羨ましいと、思った。
……なんて、そもそも私と私の一番好きな人は恋人ではなくただの主従なのだから、こんな期待は筋違いだと気付いてしまい自戒をしながらもう一つ息をこぼす。
顔を上げ黒一色に塗りつぶされた夜の雲を眺めながら、結んでいた唇が緩く解かれた。
「……マスターに……会いたい、」
そんな些細なお願いは、自身の耳にのみ届いて後は冷たい空気に紛れて消えていく。
拠点に帰ればすぐ叶う望みなのに、口にすると少しだけ胸が締め付けられてしまう気がするのは……空で見たような幸せな光景は、私と彼には描けないとわかっているからなのか。
俯き再びこぼしたため息は、胸の内に蟠った感情を見せつけるかのように白く染まって暗闇の中に消えていく。
その行方を見送ろうとした私の視線は──ふと柔らかな感触が訪れて、ぴたりと止まった。
「──寒空の下で呟く独り言ほど虚しいものはないね」
「え」
小さく漏れた声と、進行方向とは真逆の慣性がかかり引き寄せられる体。次いで冷え切った肌に纏う仄かな温かさ。
慣れ親しんだその場所に抱かれる感覚に、私は現実味を持てないまま今何が起こったのかを悟った。
「──マスター?」
問いかけたその敬称に応えるように、回された腕の力が強まる。
やはり、背後から私を抱え込んだのは──主人、ギラヒム様だった。
「何で、どうしてここに……? 迎えに来てくれ……ッて!?」
「うるさいよ」
果てない疑問符を口にする私の鼻先を、後ろから伸びた主人の指が摘み上げて間抜けな声があがる。
寂しさを拗らせた私の幻覚の可能性も一瞬考えたが、その容赦のなさは正真正銘私の主人だという確信を抱かせた。
「ますた、は、鼻潰れるッ……!!」
「せっかくこのワタシが迎えに来てあげたというのに信じようとしないお前が悪いんだよ。潔く諦めろ」
「信じますからそこは諦めさせないで下さい……!」
優しい言葉をかけてくれるのかと思いきや平常運転で恐ろしいことを宣う主人は部下の懇願を聞きようやく鼻先だけ解放してくれる。
寒さも相まって絶対に赤くなっているであろう鼻の頭をさすりながら、私は背後の主人へ目を遣った。
「……本当に、迎えに来てくれたんですか?」
戦場に出たならまだしも物資調達で空に向かっただけでお迎えが来るなんて、これまで無かったのに。しかもこんな寒い日に。
主人は間近で交えた視線を細め、今度は指で私の耳の縁をなぞる。
「未だに目の前の光景が信じられないなら、次は耳を使って信じ込ませてあげようか」
「し、信じましたよもう!! ……ただ、」
返す言葉はそこまでで途切れ、抱いてしまった感情を口にすることに数瞬戸惑いを覚える。
しかし主人がそれを聞き逃してくれるはずはなく、唇を伝う彼の指が「言え」と私を促した。
「……なんで、」
目を伏せて落とした呟きは、小さな声音でも澄んだ空気を伝いはっきりと主人の耳へ届く。
彼の視線を感じながら、緩む唇が続けた。
「何で来て欲しいって思った時に来てくれちゃうんですか、マスター……」
回された主人の腕に手を添えて、体の底から感じる温もりと幸福感。平静を保って呟いたはずの言葉は、少しだけ語尾が震えてしまった。
主人はそんな私を見下ろしたまま「フ、」と一度だけ笑い私の髪を撫でる。
「さあ、何故だろうね。……お前のことでワタシが知らないことはないから、とでも言っておこうか」
得意げに嘯く主人へ再び顔を向けると、間を置かず唇を重ねられる。
十数秒、押し当てられた唇の感触を丸ごと受け取って、放された後は重力に従って彼の胸の中に身を委ねた。
「無理です、もう。……私は私のマスターが大好きすぎて」
「その分大いに尽くすんだね。無償でくれてやる愛は無いが……お前がイイ子でいたなら、次もまた考えてあげよう」
これはきっと、人々が普遍的に享受する幸福とは姿も形も全く違うものなのだろう。
結局主人から与えられるのであれば何でもいいのだと、単純な自分に呆れてしまう。
聖なる夜など無縁な魔の者であるけれど、
今日くらいは与えられた幸せにそのまま浸かっていても許されるだろうと、私は再び目を伏せた。