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 空から大地に降りてきて、初めて知ったことは数え切れないほどあった。

 特にこんな時期──空で言う、太陽がいつもより早めにいなくなって吹き抜ける風が冷たいと感じるようになった季節。
 お日様の当たらない大地は、ひたすらに寒い。
 最初はたったそれだけにとんでもなく驚いて、主人に呆れられて、また同じ季節を繰り返して。

 そうして最近気づいたのは、私は寒いのがとても苦手だということだった。スカイロフトが基本的に年中暖かかったせいだろうか。
 ついでにそんな素振りは見せないようにしているがギラヒム様も寒いのは苦手らしい。普段寒そうな格好しているくせに、とはもはや思わない。

 そんなわけで、大地に寒さがやってきた頃には一日中ベッドに入り込んでじっとしていたくなってしまう。
 しかし魔王様復活のためそんなことばかり言っていられないのが現実だ。

 ──という状況のもと、私と同じように主人も考えを巡らせていたらしい。

 そして、思いたったが吉日。
 謎の積極性を見せる主人は、早速ひらめいた策を実行することとなる。

「あ、あの、ぎらひむさま、」

 ──壁だ。前にも後ろにもそれしかなくて、私はそのうちの片方に背中をぴったりとつけている。
 加えてそんな私を高い位置から見下ろしてくる視線に対して思わず引き攣った涙声が出た。
 しかし今回ばかりはそうなってしまっても仕方がない。

「今から何をさせられるんですか、私……?」

 お仕置きならともかく──悪いことをした心当たりが全く無いのに、何故か主人の手により壁際に追いやられているのだから。

 両腕を左右に突かれ逃げ道を完全に塞がれているこのシチュエーションは一部の女の子にとっては理想の形らしいけれど、一部下としては心の底から恐怖しか感じない。

 私のその怯えを知った上で、目の前にある綺麗な顔が心外だというように小さく息をついた。

「随分な態度だね」

 ただし主人の口調はあからさまに芝居がかっているというかむしろ嘲りすら含む笑みが浮かんでいる。
 何か企んでるとしか思えない、一切安心出来ない笑顔だ。

「お前が逃げるから、仕方なく追ってあげていたというのに」
「私の知ってる“仕方なく”の使い方と違う気がするんですよね……」

 しかもそう言う割に私をここまで追い込む表情は心の底から愉しそうで正直半分は素だったと思う。
 部下の小さな悪態もしっかりお聞きになられていた主人は形の良い唇をわずかに歪め、片手の甲でするりと私の頬を撫でた。

「せっかくお前にとっても良い事を主人自らしてあげようというのにね?」
「そう言われて本当に良い事だったこと、無いですもん……!」
「不躾なくらい疑り深いね。お前がまだ愚蒙……もとい無垢だった頃が懐かしい」
「昔も今も底辺の評価じゃないですか!!」

 それにここまでの警戒心を育ててくれたのは紛れもなく目の前の彼だ。
 いくら疑おうと反論しようと、一度思い立ったことは是が非でもさせられると体に教え込んだのも。

 いい加減部下の泣き言を聞くのも飽きたらしい主人は、無理矢理流れを区切るようにぺろりと赤い舌で唇を舐める。

「さあ、主人に不敬を働いた分は……体で支払ってもらおうか」
「ひ……!」

 不敬も何も最初からそのつもりだったくせに……!
 そう抵抗する前に至近距離で主人と視線が重なった。ただでさえ寒さで強張っている背筋へ凍てついた電流が走り抜ける。

 そして、ギラヒム様が容赦なく私の体を抱え込んで、

「つッ──めたぁ!!!」
「うるさいよ」

 触れた主人の肌のあまりの冷たさに、私は身も蓋もない悲鳴を上げた。

 文句を言われたけれど大袈裟でも何でもなく、彼の手は肌同士が触れたからどうにかなるって範疇を超えてヒンヤリしている。

「ホラ暴れるな。じっとしていればワタシ専用の暖房器具として何度でも使い潰してあげるから」
「部下を何回でも使える湯たんぽみたいに扱わないでくださいッ!!」

 そんなものに成り果てた覚えはない。
 これじゃあ温もりを共有するどころか一方的に体温を下げられるだけだ。

 そのうえ必死に身を捩る私を平然と抱える当の主人も、自分から迫っておいて思い描いていた温かさと違ったらしく「ふむ」と不満そうな声を漏らした。……すると、

「服越しより、この方がいいか」
「ひぃあッ!!?」

 意味深に低い声で呟いたかと思えば、私を拘束していたギラヒム様の腕が一度離れる。
 解放感を得たのも束の間、間髪入れず服の中に手を突っ込まれて直に抱え込まれた。
 脇腹も腰もまとめて一度に主人の肌の冷たさに襲われ、残りの体温を全て持っていかれる勢いで触られ、私は情けなく絶叫するしかない。

 主人は求めていた温かさにたどり着いたようでようやく納得してくれたらしい。
 ついでに理不尽にも心の底からの呆れ顔を向けられた。

「主人を労るべき状況ですら反抗するとは、本当になっていない部下だね、お前は」
「何故被害者なのに私は責められてるんですか……!?」
「いいから、」

 不意に、冷たさを纏った私の耳へ生温い微熱が添えられる。
 彼の唇が耳朶にあてられたと理解して、冷たさによるものとは違う騒めきにぞくりと身が震えた。
 唇で軽く喰まれ、彼の揺らぐ吐息が耳を撫でる。

「大人しく、していろ」
「──っ、」

 そんなことをされれば、いくら冷たくても恥ずかしくても抵抗は出来ない。
 静かになった部下に対してしたり顔のギラヒム様。私は口を噤んだまま俯くしかなかった。
 普段よりご機嫌良さげなのはいいんだけど、これはこれで心臓にとても悪い。

 最後の気力も削がれてしまい、好き勝手されることをついに許した私は為されるがまま彼に身を委ねる。
 こうなるともはや冷たさよりも主人の指の動きと肌の柔らかい感触の方が私を反応させてしまう。それは触っている本人にも残念ながら伝わっていた。

 すると、容赦なく私の体を撫で回していた主人が不意に「ああ、そうか」と唇を開いた。

「これなら文句はないだろう」

「へ……」

 告げられた言葉の意味を理解する前に、唐突に私の体は抱き上げられ足が宙に浮いた。
 雑な担がれ方をして身長差がある分床が遠のいて、恐怖で抵抗することも出来ない。
 そのまま唇を寄せた彼が低く笑い、そして、

「喜べ、寛大で美しいワタシがお前もまとめて温めてあげよう」

 何事かと思えば……ギラヒム様は椅子に座った自身の膝の上に私を乗せ、私の頭には彼の顎が乗せられた。

「……あった、かい、です、けど」
「だろう? 感謝するんだね」

 完全に抱え込まれる形になった私に対しギラヒム様は万事解決と言わんばかりの口振りだ。ドヤ顔をしてるのが見えてないのに伝わってくる。 
 私はと言えばいろんな意味で安定しないところに座らされてどうしようもなくそわそわしてしまう。

 が、盛大に騒いだのも束の間、しばらくすれば肌が密着している部分から仄かな温かさが生まれてきた。不快感は全くなくて、むしろ心地よさを感じる。

 しかし、この状況は、なんていうか、

「あったかいを通り越して恥ずかしさで茹で上がりそう……」
「茹でられようが溶かされようが構わないけど、この体勢から少しでも動いたら噛み跡を残すよ」
「それただの罰ゲームじゃないですか……」

 慣れない人肌のあたたかさと、こんな体勢を強いられている羞恥心。
 その一方で、一番欲しい人の熱を受けている幸福感もたしかにあって。
 いろんな熱がない混ぜになった温かさが、寒さに震えていた私をただ捕らえる。

 ──こうして、“主人の膝の上で耐久湯たんぽ”は名実ともに私のお仕事の一つとなり、今となっては寒い時期の習慣となったのであった。


 そして余談。

「……ま、マスター……もう、三時間は経ってるんじゃ、ないかなって……」
「ならもう三時間はいけるだろう。……眠くなってきたから、下手に動いてワタシを起こしたら鎖を使って動けなくするよ」
「やっぱり罰ゲームだ……!」

 そんなわけで寒い時期が終わるまで、筋肉痛に悩まされる日々が続いたのだった。


(2020夏企画)



今となっては習慣になってる膝の上ポジション誕生日秘話でした。