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長編2-7_頸木の名前



 ──その為だけに、作られた存在なのです。

 *

「はッ──!」

 剣気を纏った白銀が熱風を穿つ。
 短い呼気と共に地を蹴りつけ、一直線に敵の元へと飛び込み、真正面から下された鋼。剣先が描く鮮やかな軌跡は稲光のように視界に焼き付いて残る。

 数日前、森で剣を交わした時に比べて迷いも乱れもない『勇者』の太刀筋。
 それを魔剣で受け止め、岩壁へと反響する金属音は甲高く鋭いものだった。

「当然、まだまだ見せてくれるんだろう?」
「ッ!!」

 駆け出した勢いのみを加重した初撃を最大限の攻勢とは認めてやらない。
 重なった二つの刃のうち何手も先に動きを見せた黒刃。対し、白銀の刀身は乗せた重みを軽く往なされたことにより行先を見失った。
 剣圧から解放され一度退いた魔剣は、そこに生まれた間隙へ即座に潜り込む。

 そうして斜めに刃を走らせれば緑衣ごと胴を切断できる位置にまで魔剣は迫り──、

「まだだ……ッ!」
「……!」

 奪われた間合いに対し、勇者の判断は早かった。
 正面へと向いていた彼の重心は片足を引いて地を踏みしめることにより後方へと運ばれる。
 閃いた魔剣は勇者の顎先の薄皮だけを裂き、その間に姿勢を低く取り直した彼がすかさず白銀を振り下ろす。

 その刃が受け止められたなら何度でも体勢を立て直して次なる剣撃を。避けられたのなら次の挙動を捉えて追撃を。
 目の前の敵を斬り伏せること、それのみに塗り固められた意志を宿し、白銀の剣が連撃を繰り返していく。

「せァッ!!」

 数度目の打ち合いの最中、一際大きく走った剣閃はギラヒムの肩から胸にかけてを両断すべく下された。

「……へぇ」

 無論その剣撃が肉を裂くことはなく、火花を散らして魔剣に弾かれる。そうしながらもわずかな驚きが滲む嘆声がこぼれた。

 前回までの型に嵌まった太刀筋とは明らかに違う。
 今、彼が振るうのは相手を退けて形式的な敗北を与えるための刃ではなく──相手に傷を与えて肉体的自由を奪うための刃だ。
 森での一戦で戦うべき相手の認識を得たことにより、何かしらの覚悟を決めたのだろう。

 言葉として言い表したならば、その行為は勇者らしからぬと言える。が、その選択は間違っていない。──女神側と魔族が無血で対話をすることなど、この世界では不可能なのだから。

「どうやら吹っ切れたようだね? ワタシ好みの顔を見せてくれて嬉しい限りだよ」
「それは良かったよ……ッ!」

 挑発への返答もおざなりに、彼は再び剣を携えて斬り込みにかかる。金属音と閃音の合唱が上下左右で鳴り響き、戦場は岩壁から返る反響に包まれる。
 体力だけはもともとの土台があるらしく、数分に渡って剣を交わし続けても白銀の剣圧は衰えようとしない。

「──らァッ!!」
「ッ──、」

 下される刃を打ち返し、一度魔剣を引き戻そうとした瞬間、その動作の間を縫って勇者の体がギラヒムの懐へと攻め込んだ。
 即座にそれを認識し、刃が振り上げられる前に刀身を走らせ剣撃を防ぐ。が、同時にこぼれ落ちた短い吐息は、彼の行動が想定外だったことを表していた。
 勇者は剣撃が躱されたその先の動作をも予想し、さらなる追撃を仕掛けてくる。

「ハッ!!」
「……むん」

 そうして何度目かの攻防の果て、勇者が下した一閃が空気を斬り裂いた。
 身を断ち切る前に刃を受け止めた魔剣は、初めてわずかな震えを見せる。

 瞬間、それを捉えた空色の目が機会を得たというように細められ、勇者は身を翻して自重を加えた刃を打ち下ろそうとする。だが、

「悪いね。──長すぎる間だ」
「が、ッ……!!」

 二撃目に流れ込むまで数秒。それは戦場において無限とも言える瞬間に他ならない。
 圧力を加えた白銀の次なる一振りが功を奏することはなく、それが下される前に勇者の体は魔剣の一撃を受け大きく仰け反る。そのまま、

「残念、隙が見えてしまった」
「ぐァッ──!!」

 体勢を立て直される前に、追撃の黒刃が白銀の刀身ごと彼を突き穿つ。
 生命の危機を察した彼の体が本能的に刀身を走らせ黒刃本体は受け止めたが、彼の左肩には裂傷が刻まれた。

 鮮血が飛び、舞った赤色はギラヒムの頬にまで返り散る。
 剣撃に吹き飛ばされた勇者の体は背後の岩壁へと叩きつけられ、その光景と生ぬるく湿った頬の感触にギラヒムは深い笑みを浮かべた。

 そして痛苦に顔をしかめて動けずにいる勇者へ、時間は一切与えない。
 その体を岩壁に磔にすべく、魔剣の切っ先を向けてギラヒムは一気に踏み込む。狙うは心臓部分、それのみ。

 地を蹴って駆け出し、瞬刻の間に距離は狭まる。あとは腕を伸ばせば刃が心臓を串刺しにするというところまで攻め込んだ──その時だった。

「──!」

 痛みを堪えて歪んでいたはずの空色が、強い意志を宿して真正面からギラヒムを睨み付けた。
 同時に、剣を持たない勇者の片手に球状の物体が抱えられていたことに気づく。鈍い光沢を放つ黒。頂点から伸びた細い紐は白い薄煙を吐き出している。

 その正体をすぐさま察する。
 しかし察した瞬間にそれは勇者の手によって地へ落とされ──、

「──ッッ!!」


 戦場に、破裂音が轟いた。

 勇者の手から落ちた球体──つまり爆弾は、固い地面に叩きつけられた衝撃によって周囲の酸素を食らいながら爆発する。
 魔剣の刀身に魔力を込めて爆風は防げたものの、数十秒の間煙に巻かれて視界が奪われた。

「────」
 
 山道を撫でる風に乗って煙は徐々に晴れ、開けた視界を見遣る。
 岩肌が抉れて焦げ付いたそこに、勇者の姿はない。

 おそらく盾を使って衝撃と爆風から逃れたのだろう。相打ちを狙った向こう見ずな自爆ではなかったようだ。
 視線を巡らせれば、赤黒い血の滴が山道に沿い点々と連なっている。向かう先は、火山内部だ。

「……彼の方から誘い込まれてくれるなんて、気味が悪い程に出来すぎているけれど、ね」

 呟きながら前髪を掻き上げ、ギラヒムは頬に散った返り血を舐め取る。以前の醜態をまた見せたのならここで仕留めるつもりだったが、どうやら用意しておいた舞台は無駄にならずに済むらしい。
 一方で、何らかの意志によって勇者との戦闘が長引かされているような薄気味悪さを覚え、ギラヒムは小さく顔をしかめた。


「────」

 赤い滴の道標を辿り、火山内部へと踏み入る。
 地の底からは熱と炎を吹き上げる溶岩が溢れ、洞窟内はぬらぬらとした朱色に染まっていた。

 外の山道に比べ、内部は一本道ではなく多少入り組んだ構造をしている。岩陰や横穴など身を隠す死角は少なくない。
 が、地面に照り返る血の色ははっきりと勇者がたどった道を教え示していた。

 その跡をたどりながら、ギラヒムは先ほどの勇者との戦闘を脳内で再生する。
 森で剣を交えた時に比べ、彼が圧倒的な成長を見せていることは確かだった。剣も魔力も使わずに戦うことは少しばかり厳しいだろう。
 加え、おそらく前回の戦闘からこちらの戦い方を分析されている。その“分析”をしたのが誰なのかは、容易に想像が付いた。

 いずれにせよ、彼の成長スピードは決して遅くはない。むしろ常人に比べれば驚異的な早さとまで言える。中位の魔物が太刀打ちできなくなるのも時間の問題だろう。

 その成長速度も逆境に耐え得る精神力も、全て──彼が『勇者』であるが故だ。

 しかし、だからこそ、

「…………、」

 血の跡を追い続け、行き着いた果て。その地面には小さな血だまりが出来ていた。
 そこを起点に何かを引きずったような赤い跡が奥の岩陰へと続いている。その向こうに道は続いておらず、一見袋小路となっている。

 身を潜めて態勢を立て直しているのか、あるいは力尽きたか。息を殺してそこへ近づき、すかさず覗き込む。

「!」

 隠れていた──否、隠されていたのは、導火線に火が灯る爆弾。
 爆ぜる小さな火花は残された時間が数秒だということを示していて、ギラヒムは咄嗟に魔剣の刀身を翻す。

 間を置かず破裂音が響き渡り、周囲に砂煙が巻き上がった。
 血の道筋は撹乱のためのものであったようだが、同時に今しがた破裂した爆弾は彼がこの場からそう遠くへ離れていないことを理解させる。
 そうして爆風から身を庇いながら目を凝らし、彼の姿を探ろうとした時、

「──!」

 視界を覆う砂煙が一気に引き裂かれ──その間から、白銀の剣を振り上げた勇者が現れた。
 見開かれた空色の両眼は目先の敵を斬り裂くという強い意志を宿し、一直線に飛び込んでくる。

 陽動により隙を突き、体を張った決め手の一撃。それが次の瞬間には振り下ろされるだろう。

 ──その刹那。一秒にも満たない時間。
 それでも永劫にも感じる時の中で、ギラヒムは一つの理解に至った。そして、

「……フ」

 こぼれたのは小さな笑み。
 その微笑がもたらす意味は嘲りでも蔑みでも、ましてや喜びでもなかった。
 笑みを向けたのは自分に対してだ。

 ──ほんのわずかにでも、かつての『勇者』との剣戟を期待しかけた自分に対する、諦念の笑みだった。

 膨大な時間を経たようにも感じられた刹那を終え、ギラヒムは幕引きの言葉を告げる。

「届かなかったね、少年」
「……!」

 いくら彼が常人よりも圧倒的な成長をみせても、足りない。……かつての『勇者』に比べれば、あまりにも及ばない。
 それは無慈悲で無情で、敵でありながら哀れだと思ってしまうほどの、現実だ。

 自身で思う以上にひどく渇いた声音だけがその瞬刻に響くことを許されていて。
 だからこそ、刻むように心からの“失望”を口にする。

「この剣戟を愛おしいと思うには──あまりにも足りない」

 空色の中に魔剣の刀身はもう映らない。かわりに映ったのは、剣を持たず黒の魔力が渦巻くギラヒムの手のひらだ。
 一つの生き物の挙動を眺めるかのように縫い留められた空色の視線はその指先が交差する様をただただ見つめ、

「は、」

 遅れて身を襲った危機感。勇者が掠れた呼吸を押し出したと同時に、指先が弾ける快音が響いた。

「────」

 その音に応えるように、荒々しく轟音を鳴らして彼の背後の岩壁が崩れ落ちる。

 見開かれた空色が最後に目にしたのは──彼の身長の三倍ほどの体躯を持つ四つ足の魔獣、ベラ・ダーマ。
 その巨躯は体から発せられる炎に包まれ、瞳孔が開いた一つ目が眼前の獲物を捉える。

 ──そして、彼は逃げることも剣を構えることも許されず。
 魔獣の巨大な口腔へと、飲み込まれた。


 *


「────」

 魔力を使い、伝令を送る。
 するとたった今まで獲物の体を熱によって蹂躙していたベラ・ダーマは、一度短い咆哮を上げて大人しく後方へと引き下がった。

 巨躯が立ち退いたその場所には、一つの倒れ伏した人影があった。

 地にうつ伏せになった少年は、全身に火傷を負って見るも無惨な姿をしていた。呼吸は辛うじて残っているものの、戦う事はもはや不可能だろう。
 それを数秒眺め、やがて一つの吐息が落ちる。

「……思っていた以上に、空虚なものだ」

 こぼれた呟きはやけに冷え切った響きを孕み、熱に支配された空間へと放された。
 勇者の意識は既に途切れている。言わばそれは独り言であり──誰かに聞かせるとするならば、“彼の傍らにある存在”へ向けたものだった。

「幕引きを待ち望んでいたというのに、こうも呆気ないと感じてしまうなんて……ワタシも欲が深いものだよ」

 あまりにも詮無い感情に、自嘲の笑みが浮かぶ。
『勇者』の敗北は魔族の本能として、魔王様の従者として望むことだ。
 それ以前に『勇者』は過去主を封印した存在であり、長く追い求め続けてきた悲願を達成するため必ず討ち取らなければならない存在だ。

 だから今、その存在がこうして敗北を喫している姿を見て抱く感情は一つだけで良いはずなのに。

「────」

 彼の姿から視線を逸らす。目に留まったのは彼の手から離れて横たわる白銀の剣だ。
 彼と共に魔獣に飲まれ、焼かれた結果、ところどころに煤を纏っているが、近寄るだけで肌を裂いてしまいそうな白の輝きは何も変わらない。
 ギラヒムはそれを見遣り、わずかに目を細める。

 ──力を十分に発揮できない剣。
 女神の手により創造されたそれは、退魔の力が目覚めるまでに少なくない時間がかかるのだろう。しかしそれを加味した上で、この少年がこの剣を扱い切れていないのも事実だった。

「……使命、ね」

 ふと、耳奥に残っていた言葉を口にする。
 それは山道でシーカー族の戦士と剣を交わした時から頭の片隅に居座っていた、自身にとって口に馴染んだ──というより、頸木とまで言えてしまう言葉だ。

 使命。『使われるための命』。
 それこそ、我々の存在の本質。この存在の喜びとは、忠誠を尽くし、使命を果たすことそのものに対して生まれる。
 故に、この剣が持ち主の実力不足を嘆くことはないのだろう。剣の精霊が主への失望を抱くことなど絶対にない。

 むしろ今、この剣が持つ感情は喜びに近しいのではないのだろうか。
 長い長い時。ひたすらに、ひたむきに邂逅を待ち続け、ようやく巡り会えた主の手で戦えているのだから。

「────」

 対する、主無き自身。
 今、こうして同じで違う存在を前にして客観的に抱く感情はあまりにも複雑なものだ。

「……剣の精霊とは、難儀なものだね」

 小さく、それこそ自分にだけ言い聞かせるように言葉がこぼれ落ちる。
 その声音に滲むのは同情なのか、軽蔑なのか、あるいは羨望なのか。誰にもわからない。

 そして、それを口にしながらこうも思った。

 まだ見ぬ、存在するのかいつ訪れるのかもわからない主を待ち続けること。
 忠誠を誓い、命すら捧げながらも失ってしまった主を追い続けること。

 ──果たしてどちらがマシなのだろうか、と。


「……下らないな」

 そこまでの思考を、一つの嘆息により断ち切る。
 我ながら仕方のない感慨に浸ってしまったものだと思う。考えたところでそれはどうにもならない、変えることは決して出来ない──運命なのだから。

「剣の精霊の運命なんて……主の命令が無いと死ぬことすら出来ない存在の末路なんて。どれも大して変わりはないのに」

 そう思う一方で、自身の存在理由に対して折れることのない誇りと矜持を持っているのもまた事実だ。
 この存在として生まれたことを嘆いたことはない。忠実にして気高く、だからこそ永遠の美しさを持ち得る存在。心の底から、そう信じ続けている。

「下らないよ……本当に」

 低くそれだけを紡ぎ、束の間のらしくない逡巡に終わりを告げる。
 そのまま魔剣を手にし、勇者の白い首元に切っ先を向けた。彼は依然、微動だにしない。

「────」

 それでも。
 たった一度だけ。過去に思ったことがある。
 この体が、この存在が、使命のためだけのモノであるなら。

 ──なぜ、あの方は自身の剣に“感情”を与えたのか。

 もし自分が忠誠のためだけに生きて、悲しみも喜びも何も感じない存在であったなら。
 あの数千の年月を、果てぬ地獄のような日々を。ただただ役目にだけ従い生き抜くことが出来たというのに。
 今日までも。そして、これからも。

 果敢ない思考に楔を打つかのごとく、ギラヒムは魔剣を握り直す。
 そうして彼の首を刎ねるために剣先を持ち上げようとした、その時だった。

「──!」

 黒の剣先を浮かせることは、予期せぬ方向へかけられた力によって制された。
 それが何なのか、目で見ればすぐに把握出来る。が、状況を理解するために数秒を費やすことを余儀なくされた。

 勇者の首元に向けた剣先は──他ならぬ彼の手によって握られ、動かすことを禁じられていた。

 魔剣の刃を握る彼の手からは赤い血が滴るが、力を加えても刀身はびくともしない。
 勇者は片手で魔剣を握りしめたまま、もう片方の手で傍らに横たわる白銀の剣を掴む。捉えた刃を決して離さず、彼はゆっくりと自身の剣を持ち上げ、

「──ッ、」

 押し開かれた空色は、魅入られてしまうほどの光を帯びていて。

 それはかつて見た、自身と主を射抜いた眼光そのもので。

「──散らせッ!!」

 咄嗟に命令を下し、彼の背後で待ち伏せていたベラ・ダーマを呼びつける。その声に応じて唸り声と共に勇者の元へ巨大な体躯が這い寄った。

 魔剣を握り、背後を魔獣の体躯に阻まれた彼に逃げるための時間の猶予はない。
 ベラ・ダーマは再び大きく口を開き、眼下の獲物を頭から丸呑みにしようとする。しかしその前に、

「!!」

 音のない一閃が、彼の背後をたった一度だけ走り抜けた。

 ベラ・ダーマは数瞬、身に起きたことの理解が出来ず動きを止める。
 が、次の瞬間。勇者を捉え直そうとした眼球は体ごと真っ二つに分かたれていた。

「────、」

 そしてギラヒムの視界に映ったのは、天に掲げられた一筋の鋼。
 一欠片の汚れもない燦然とした輝きは、目にする者が息を呑むことすら許さない。
 耳に届いたのは勇者の指先から伝った血の滴が地面を濡らす音だけで。

 剣戟の終幕を示すその一振りを前にして。

 刹那、胸焦がれる感覚を抱いたことだけが、最後にわかった。