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彼は誰時の坪庭にて



*過去編から一年後の話。
*痛めの描写注意



 ──どれほど月日を重ねても。
 迎える朝に落ちる影は一つ。一つだけ。一つの、まま。

 ──どれほど年月を重ねても。
 耳にした今際の言は首元に手を添えながら。
 足を止めればいつでも折ってしまえると嘯く。

 ──どれほど争いを重ねても。
 無為に流れた血を啜り、亡骸が幾つ積まれても行先を示す声が聞こえることはなく。

 ──どれほど目の前の死を重ねても。
 いつになれば、終わる。
 ふと抱いた問いに自身の胸を貫いてしまいたくなって。

 ──どれほど夜明けを重ねても。
 いつまでも、その瞬間に意味などないと思い続けていた。


 ──どれほど明日を重ねたとしても。
 
 意味などないと思い続けて、いた。


 *


 耳を劈く金属音に顔をしかめた。同時に目の前で火花が散り腕は反動により痺れが伝う。

 ……未だ慣れない。
 直感的にザラついた思考が頭を過ったが、意識してそれを掻き消す。
 体勢を崩さぬまま二、三度追撃を繰り返した後、一旦身を翻して後退。敵の全貌を視界に収めた。

 相手の挙動を注視したまま片手の魔剣を握り直し、一つだけ息を落とす。
 呼応するように脳の片隅で記憶に刻まれた声が囁き、その声を聞き入るため数瞬瞑目する。

 ──太刀筋を歪めるな。一挙一動を見逃すな。速く、重く、無駄な感情は捨てて、断ち切れ。

「──ッ!!」


 激しい打ち合いの喧騒はしばらく残響を曳くのに、決着がつく瞬間はいつも耳が痛くなるほどの静寂しか残されない。
 無意識に止めていた呼吸を再開すると、魔剣に斬り裂かれた亜人達は苦鳴もこぼさず鮮血に塗れ地へ崩れ落ちた。

 完全に息の根が途絶えていることを確認し、私は短い吐息をこぼした後に背後で争いを見物していた人物の方へと振り返る。

「……終わりました」
「ふむ。……行くよ」
「はい」

 淡白な会話はすぐに終わり、何も構うことなく歩き始めた彼の後ろ姿を私は素直に追いかけた。

 特に話すことを禁じられている訳ではない。
 ただこうして剣を振るい敵を斬って──命を屠った後は、いつだって何の言葉も出なくなる。

 奪った命の数は、とっくの昔に両手の指で数え切れないほどとなった。そしてこれからも積み重ねていく。
 空にいた頃は考えもしなかった自身の姿に狂ってしまっていないのは、もう既におかしくなっているからなのか、もしくは自分の生まれた理由に執着しているからなのか。
 いずれにせよそんな感傷の情を目の前の人物に見せたところで、嘲るような笑みを返されるだけなのだろう。

 結局、私は納得してしまっているのだ。
 主人のために剣を振るう。その理由だけがあればいい、と。


 オルディン火山。
 地形の大半が溶岩に呑まれた、生き物にとって過酷な環境が広がる土地。その中で最も盛んな活動を見せる火山の内部に、私と私の飼い主──魔族長、ギラヒム様はいた。

 目的はこの地を治める女神の封印の破壊。火山の山頂にそれは隠されているそうだ。
 人の立ち入りを許さない場所にある封印は決まって規模の大きなものばかりだ。女神の気配は色濃く存在し、中・下位の魔物は下手に進めば問答無用でその身を焼かれてしまう。
 故に今回の探索も山頂に向かうのは私とギラヒム様の二人だけ。……というより、大半は私が矢面に立たされこの地を護る亜人たちと戦わされていた。

 必要最低限の戦闘を避けるためにも亜人たちの活動時間外を狙ったつもりだったが、やはり聖域を荒らす魔族は常に警戒されているのだろう。結局先ほどのような乱闘は避けられなかった。
 ちなみに隣で涼しげな顔をしている主人はこの地に来てから一度も剣を抜いていない。それに対して文句を言うことなんて、恐ろしくて出来るはずもなかったけれど。

「……さっき襲ってきたので、一通り片付きましたでしょうか」
「だろうね。あの血の気だけが盛んな一族に不意打ちを狙う頭があるとは思えない。……あったとしても、返り討ちにするのは今のお前でも容易いだろう」
「…………、」

 大過なく終えたとは言えそこそこに大変な戦闘だったのに、彼はまだ私一人で戦わせるつもりらしい。
 彼の口振りから嫌な予感がひしひしと伝わりため息をつきたい衝動に駆られたが、同時に“返り討ちに出来る”という予想外の評価を与えられ、私の顔には複雑な感情が走った。
 すると私の様子を目敏く観察していた彼から、嫌味な笑顔を向けられる。

「何度も吐いた甲斐があったね?」
「まだ言う……」

 ……その記憶を掘り起こされると条件反射で胃が痛くなる。

 それは、まだ空から落ちて間もない頃。
 稀に機会を与えられるギラヒム様との模擬戦、その最初期。

 当初こそ模擬戦というのに剣を持たない彼に対し驚きはした。しかし実際はそんな彼にいくら向かっても逆に私の剣をとられ、斬られかけ、捕まれば容赦なく鳩尾へ柄を打ち込まれた。
 本当に部下だと思っているのか疑うレベルの酷い扱いに何度も怪我をして、何度も吐いた。戦場ならその時点で命が失われていたと今ならわかるが、それでもいつ死んでもおかしくないとすら思っていた。

 いつしか実戦にも頻繁に駆り出されるようになり──命のある相手を斬って、肉を断つ感触と血の匂いにまた吐いた。

 心が折れる前に体が何度も悲鳴を上げた。拒絶感と嫌悪感で胸を押し潰されかけた。
 ──だが、剣を置くことだけはしなかった。

 今では剣を取られることも吐くこともほぼ無くなり、実戦でも上手く立ち回れるようになってきた。
 その過程を顧みた上で与えられた評価は、決して悪い気分ではない。けれど嬉しいかと聞かれればよくわからない。
 強くなった分危険なところに放り込まれもするし、複雑としか言いようのない感慨だった。

 私の機微を彼が見透かしていたかどうかは定かではない。
 続くのは、私を弄るいつもの嘲笑だった。

「そうは言えど、虫に刺される程度がかすり傷を与えられる程度になったくらいだがね」
「……精進しまーす」

 形の良い唇を満足げに緩めて、ギラヒム様は私の前を歩く。

 その後ろ姿は、私にとっていつのまにか見慣れたものとなっていた。

 * * *

 辿る女神の気配は火山内部を抜け奥へ奥へと続いている。
 熱気に体力を奪われながら、一歩踏み外せば体と魂をも溶かす溶岩に支配された山道を私たちは黙々と進む。

 標高が上がるに連れて酸素が薄くなり、息の詰まる倦怠感は体に重くのしかかってくる。もっともそれは環境的な要因だけではなく、目的地に近づいているからでもあった。
 その気怠さを表に出すことはなく、私はひたすらに無感情を装って足を動かし続ける。主人に悟られたとしてもその足取りが遅くなることは無いと知りながら。

「…………、」

 少し前を歩く彼の横顔を見遣る。熱気に包まれた過酷な地でも、端整な顔立ちは余裕を保ったままだった。


 歩き続けた道に変化が現れたのはそれから程なくしてだった。
 どこからともなく吹き込む風が頬を撫で、私は顔を上げる。火山内部を辿る山道は終わりを迎え、ここからは山の外側に沿った道を歩くことになるらしい。

「……朝になってる」

 いつのまにか夜明けを迎えたのか、火山を抜けた一歩先には真っ白な壁が広がっていた。
 光に包まれた外界。目に見えぬ体の中の道標は変わらずこの先を示したままだ。

 傍らの主人は大した反応を見せず、束の間止めていた足を再び動かし白一色の空間へ進んでいく。
 私はその背を見失ってしまわぬよう、小走りで彼の後を追いかけた。

「……これ、」

 そして踏み入れた、火山を抜けた外の世界。そこには最初、朝の日差しに包まれた暖かな光景が広がっているのかと思っていた。

 しかしその場所を包んでいたのは光ではなかった。
 全身を包まれて初めて、私はそれが何なのか理解した。

「……霧?」

 私たちが出てきた場所、つまり火山の上層部は深い霧で覆われていた。
 すぐ先の地面すら見えないほど厚く、質量を感じさせる霧の壁。火山内部に立ち入る前にはかかっていなかったはずだが、夜明けとともに山を包んだのだろう。

 予想もしていなかった光景に呆気にとられ、私はしばし閉口する。
 同時に霧の中に紛れるような何かの気配を感じて、眼球だけを動かし辺りを見渡す。

 すると、たった今まで見落としていた事実に、私はようやく気がついた。

「……え、」

 数秒前まで傍らにいたはずの主人の姿が──見当たらない。
 何故この瞬間まで気づけなかったのか、そう思ってしまうほどに彼の消失は唐突なものだった。

「ギラヒム様……?」

 再び彼の名を呼んだ声は、深い霧に紛れて響きを持たず地に落ちる。
 外に出たはずなのに、火山内部にいた時よりも密閉された空間にいる感覚。それがこの霧のせいなのか、もしくは捉え所のない何かの気配に囲まれているからなのかはわからない。

 視界のほとんどを白に染め、四方を閉ざされたような圧迫感すら抱く霧の壁。側にいたはずの主人の姿を見失った今、闇雲に動き回るべきでないと頭ではわかっていた。
 だが、立ち止まれば体も存在も霧の中へ融解していく感覚を同時に抱き、それを振り払うように私は足を進め続ける。

 目の前に広がる白は無に限りなく等しい。
 霧に紛れて薄く感じる得体の知れない何かの気配を道標として頼らなければならないほど、その白は深く深く私を呑み込んでいた。

 そうして地面の感触を一歩一歩確かめながら霧の中を進み、変化の訪れない視界に時間の感覚を奪われ始めた、その時だった。

「……?」

 霧の向こうに、何かが立ち塞がっているような薄い影が現れた。
 ただの岩壁が待っているのか、崖の果てにたどり着いたのかはわからない。
 私はとにかく、永遠に続く白の世界から抜け出したい一心で縋るように足を動かした。そして、

「────あ、」

 霧の壁を抜け、崖から見下ろすそこには──真っ白な雲海が広がっていた。

 眼下に広がる幻想的な光景に、しばらく私は魅入られてしまう。その景色を目にするまで、自分がどこにいるのかすら見失いかけてしまっていたことに私は気がついた。
 火山内部を歩き続けていたため感覚が薄れていたが、自身のいる標高はいつのまにか山の周りで揺蕩う雲を越える位置にまでたどり着いていたらしい。
 無論、空と大地を隔てる分厚い雲は依然として天上を覆ったままだが、目にしたその光景は私に強い既視感を抱かせた。

 ──かつて私は、この光景を見たことがある。

 それは決して古い記憶ではない。懐かしさを覚えたのは、大地に降りて以来一度も目にしていなかったからだ。

 明るさを増し朝を迎える世界。陽光を浴び、どこまでも続く白い雲海。魔の者が好む闇は、そこに一端すら存在しない。

「地面の下の、雲海……」

 そう、この雲海は。
 ──スカイロフトから見下ろす光景と、似ている。

『女神ノ子』

「──!」

 その時、思考の渦に捕らわれていた私の耳へ無機質な声音が飛び込んできた。
 呼吸が止まりかけ、反射的に腰の魔剣へ手を置き私は振り返る。
 が、背後に佇む者の姿はどこにもない。私がたどってきた時と変わらぬ霧の壁が立ち塞がっているだけだ。

『力無キ子、女神ノ子』

 辺りを見回す私にその存在を理解させるかのように再び声が聞こえる。
 高くも低くもない、機械的だが確かな意志を感じさせる声音。一つわかったのは、ずっと探していた女神の気配が近づいたということ。

 声の主がどこにいるのかはわからないが、纏わり付く奇妙な視線を全身に受けながら私は霧の向こうを睨み付ける。
 対するその声が私に向けるのは敵意ではなかった。

『──此処ハ送ル場所』
『女神ノ元ヘ、送ル場所』

「……送る?」

 平板な声音が告げた言葉を、私は思わず聞き返す。何の装飾もないその口調に、穏やかな慈悲のようなものを感じたからだ。
 姿の見えぬ者の声は、私の疑問に応えるかのように続ける。

『送ル場所。──女神ニ最モ近イ場所』
「近い……」

 女神に最も近い。
 返される答えは変わらず要領を得なかったが、声が繰り返す“女神”という言葉に私は警戒を強める。
 近いというのは、私たちが探していた女神の封印が近いのか。それとも、

『女神ノ子』

 その思考を打ち止めるべく、声は再び私を呼んだ。

『女神ノ子』
『女神ノ手カラ落チタ、哀レナ子』

「……!」

 次いで言い直されたその呼称に、私は息を呑んだ。

 私の小さな動揺を声の主が悟ったか否かはわからない。
 単調な声音は頭の中に刻み込むように、言葉を紡ぎ続ける。

『此処ハ女神二最モ近イ場所』

 言い聞かせるように深みを増した声。一度目にその言葉を耳にした時、抱いた疑問の答えは既に出た。
 声の主が示す“女神”とは、この地を治める封印のことではない。
 天上を覆う雲の向こう──空の世界において聖域を守る、聖母の姿を象られた存在を指している。

 では、それと最も近いという、この場所は。

『此処ハ、女神ノ子ヲ空へ“カエスコト”ガ出来ル場所』

「!」

 呼吸が静止する。胸が騒めく。耳の奥が痛む。
 無機質な声が告げたこの場所の役割は私にとって、与えられた運命を変えることにも等しい意味を持っていた。

 口を噤んだままの私の理解を促すように、声は続ける。
 きっと、世界の理から見れば救いにも見える誘いを。

『魔族ノ手、此ノ地ニ届カズ』
『女神ノ子ヲ、女神ノ元へ』

『──空ヘ』

 姿の見えないこの存在は、女神の子である私を女神の手へ──空ヘ帰すことが出来るという。
 それも、私の飼い主の手が届かないうちに。

 ふと気づけば、私の周りには大小様々な大きさの光の粒が集まってきていた。
 触れずともその光が温かな熱を持っていることがわかる。仄かな灯火のような、求めたくなる光。

 声は私の選択を見守るつもりなのか、先ほどの言葉を最後に沈黙したままだ。だが、深い霧を照らす淡い光たちは私を導くかのようにふわふわと漂っている。

「────」

 自身の前で溢れる光を目にし、私は押し黙る。
 声が告げた救済を反芻しながら小さく振り返り、私は眼下に広がる雲海を眺めた。

 かつて生きた空の島の下で、誰もがその先は無であると信じた果てしない雲の境界。
 そこから引きずり下ろされて目にした光景と、自分の運命。
 受ける苦痛も、いつか迎える結末も、きっと空にいたままなら安寧そのものだったのだろう。大地に落ちてからそう思ったことは幾度となくある。

 そして目先の光に手を伸ばせば、それを取り戻せるということは根拠がなくともわかる。

「私の、いるべき場所は……」

 私は震える手を伸ばす。
 頭の中の銀幕に、落ちた私へ『おかえり』と告げた彼の姿を映しながら。

 瞼を、ゆっくりと下ろして──、

「私の“かえる”場所は──空じゃない」

 伸ばした手は彼から授けられた魔剣へ届き──光と白に彩られた世界を、両断した。

『──!!』

 上がる苦鳴は何もない。しかしひどく驚いたように光の群れは震え上がり、バラバラと統制が乱れる。
 そこから離れることすら許さぬまま私が放った二閃目は、浮かぶ光を断ち切り細かな粒へと変えた。

 物質を断つ感触は無かったが、形が溶け崩れ霧散する様は妖精や精霊特有のものだ。
 いくつにも散らばっていた光はまるで体の一部を傷つけられたかのようにわなわなと震え、困惑を隠しきれない声がいくつも重なり反響し合う。

『なゼ』『ナゼ』『なぜ』『ナゼ』『ナぜ』『何故』『──なぜ?』

 果てぬ滂沱の雨のような疑問を繰り返しながら、終にその存在は牙を剥く。

「──!!」

 風を切る鮮やかな閃音が耳に届いた瞬間、白の世界に私の鮮血が舞った。
 霧に潜む刃に一瞬にして引き裂かれた腕を庇い、苦痛に顔が歪む。目で捉えることは出来なかったが、物理的な対抗手段を持っているらしい。

 私は魔剣を構え直し、霧の向こうを睨む。血は派手に飛んだが、神経はやられていない。利き腕でないのは幸いだった。

『女神ノ子、ナゼ、メガミ、ノ──メメ女神、ナゼ、女神ノ子──!!』 

 対する光の集まり──この地を守る精霊たちは、予期していなかった拒絶への動揺か、斬り裂かれた損傷によるものか、機械的だった声音へ狂ったように音を重ねて問いを繰り返している。

 だが混迷の言葉に反し、ばらばらに散らばっていた光は意志を持ち集約されていく。
 一つの生き物のように集まった光は鎌首をもたげ、目先の人間への認識を救うべき存在から敵意を向けるべき存在へと改めた。

 ──瞬間、

『──何故?』

 色のなかった言葉に、初めて感情の炎が宿る。
 疑問に塗れたそこにあるのは、深い憐憫。
 それは自らのたどる道を知った上で、救いの手を取らぬ愚か者へと向けられている。

 その光の化け物に気圧されながらも、私は顎を引いて結んでいた唇を静かに開き、たった一言を告げた。

「……教えてあげない」

 悪戯をする子供のように薄い笑みを浮かべて、私は向けられた問いへの答えを拒絶する。

 精霊が言葉を返す前に私は魔剣を携えたまま一歩踏み出し、光がつくりだした像を真っ二つに斬り裂いた。

『──女神ノ子、』

『オチタ』

『魔ニ、オチタ』

 遺恨は残響となり、流れぬ精霊の血の代わりに落ちていく。
 しかし彼らはヒトと違う形で生命をこぼしながらも時間をかけて再び一つに集まり、今度こそ完全に敵対した目の前の魔族へと、光の刃を向けた。

 次は恐らく、喉笛を直接裂かれる。
 先ほどまで包み込むような慈悲を見せていた光は、表裏が反転したように深い憎悪を滲ませていた。

 首筋に伝う汗を拭うことすら出来ないまま、それでも私は魔剣を握り締める。
 そして、音にならない咆哮を上げ光の波が私に襲いかかった、その時だった。

「──上出来だ、リシャナ」

「……!!」

 ──霧の壁は、一瞬にして世界から剥ぎ取られるように、砕け散った。

 深い白の世界に走った一筋の黒い軌跡。そこから生まれた亀裂へ霧が呑まれたかのように視界が晴れていく。
 美しさすら感じさせる真っ直ぐな剣閃は、たった一太刀で霧と光の壁を二つに分かち、その奥に潜んでいた女神の封印ごと、粉々に砕く。

 私が魅入るその後ろ姿は漆黒の魔剣を片手に、砕けた光の洪水の中で悠然と佇んでいた。

「……ギラヒム様、」

 颯爽と乱入をして見せ、たった一撃で争いの終止符を打った私の主人は、用は済んだと言うように片手の魔剣を消し部下へ振り返る。
 見せつけられた艶のある流し目とわずかに上がった口角は、彼が何かを目論んでいたであろうことをすぐさま私に理解させた。

 姿を目の当たりにするまで彼の気配は全く感じられなかったが、おそらく早い時点から監視されていたのだろう。
 せめて腕を斬り裂かれる前に助けてほしかったと内心で不満を抱きながら、私は彼の元へと歩み寄る。しかし、

「っう……、」

 血を流しすぎたからか、地面についた足からは力が抜け、痛みに脈打つ腕を抱えたまま私はその場に蹲った。
 あの精霊たち、慈悲を見せておきながら割と容赦なく抉ってくれたらしい。

 ──と、苦痛に耐えながら俯いていた私を薄い影が覆う。
 誘われるように顔を上げたその時、穏やかな力が私の体を緩く引き寄せた。

「……あ、」

 重力に逆らわず、私の体は柔らかくギラヒム様の懐へと収まる。
 おずおずと見上げた視線で捉えた彼は何でもないことのように平然とした顔で部下を抱えている。
 対する私は、いつも彼に罵られているように間抜けな顔を見せ、呆気に取られていた。

「下で待機している回復兵のところまでとっとと帰るよ。倒れられたら面倒だ」

 戸惑う私を置き去りのまま一方的に告げ、彼は私の体を抱えて立ち上がらせる。口調こそ冷淡だったものの、その手つきは普段に比べて心地よさすら感じた。
 触れて生まれた温もりに、確かな安堵を抱かずにはいられないほどに。

 ──だから、

「────、」

 あまりにも軽い力で腕を引き、小さく唇を震わせこぼした言葉に主人の目が見開かれる。私自身も自分の行動に驚きはしたものの、後悔の念は抱かなかった。
 だからそのまま、もう一度だけその言葉を口にする。

「……少しだけ、こうしていたいです」
「…………、」

 数秒、推し量るように見つめられた後、返されたのは短い吐息だった。
 私を抱え直したギラヒム様は帰り道とは真逆の雲海を一望出来る崖へ向かって、その縁に私を座らせる。

「……っ、?」

 そして間を置かず、彼の手が私の服の一部分を遠慮なく引き裂く。何事かと驚き固まっている間にも、血の流れる私の腕へそれを強く結びつけた。

「……だらしなく血を垂れ流したままにするよりはマシだろう」
「ありがとう、ござい……ます、」

 お願いを受け入れられただけでなく主人の手により止血まで施された私は驚きを隠せず、ほの暖かい幸福感に口元が緩みそうになった。

 誤魔化すように一度首を横に振り、私は朝日に包まれ黄金色に染まり始めている雲海へと目を向ける。
 傍らの主人もいつしか同じようにその光景へ見入っていた。


「一つ、聞いてあげようか」

 束の間の静寂を置き、ふと低い声がそれを破る。
 緩慢な動作で頭を持ち上げると、ギラヒム様は視線を寄越さぬまま薄い唇を開いた。

「──空に、帰りたいとは思わなかったのか」

 その問いに数瞬、口を噤む。
 わずかな動揺を覚えたのは彼がその問いを向けたことに対してではない。
 ──紡がれた声音に、私への純粋な興味が含まれていたからだ。

 恐らく彼は、私があの精霊に道を示された時から様子を窺っていた。さらに言えば、私が空へ帰ると答えたならその場で私を殺していたのだろう。
 しかしそれを私が理解したのは封印が壊れ、彼の姿を見た時だ。あの精霊たちと話していた時、私は一切彼の気配を感じ取れなかった。

 つまり、空へ帰らないという私の答えは殺される恐怖心から導かれたものではなかったということになる。
 彼もそれと同じ理解をしていて、だからこそ私へ問いかけたのだ。

「…………」

 私は唇を引き結んだまま、視線を主人から目の前に広がる雲海へと移す。
 どこまでも続いて見える雲の海に魅入られ、そして既視感を抱きながら、小さく喉を震わせた。

「全然、思わなかったです」

 一つ落ちた言葉に、返事はない。
 火の土地には似つかわしくない、少しだけ冷えた風が二人の間を吹き抜けた。
 訪れた沈黙はその理由を伝えるために与えられたものだと理解し、私は続ける。

「──夜明けが、怖かったんです」

 初めて、彼の両眼が私を捉えた。
 そこに内包される感情は、私に読み取れない。その目に促されるように、私は言葉を継ぐ。

「……空にいた頃、夜明けは怖くて怖くて仕方ない瞬間でした。夜は目が覚めてすごく元気になるのに対して、太陽が昇るのはとっても怖かった。……恐れていました」

 空の世界において、夜は魔物に支配される時間だ。
 女神の気配は消え失せ、力を奪う日差しは隠れ、魔の者は自由に外を歩き回ることが出来る。
 狩られてしまうと、追い遣られてしまうと恐れる必要が無くなる。本来与えられないはずの空を望むことが出来る。太陽が昇る、その時まで。

 ──そしてそれは、魔物の血を持つ私も同じだった。

 暗闇に溶けた世界は歩いていてとても心地が良かった。
 青い空を真下から望むことが出来ずとも、満天の星空は昼間の倦怠感を全て忘れさせた。

 そうするうちに時間はあっという間に過ぎていき、やがて空の彼方が薄明るく染まった頃に、ざわざわとした胸騒ぎが体を満たし始める。

「……朝が来れば私は魔物であることを隠さないといけない。ヒトとして生きなければならない。ありのままの私でいてはいけない。だから夜の終わりは、息が止まりそうなほどに……耐え難かったです」

 朝焼けに喰われ始めた、薄い影に包まれた世界。

「彼の者は誰だ」とヒトが問う。
 異形の者へ、誰だと問う。
 魔物は立ち去り、ヒトが現れる。
 ──魔物の時間は終わりを迎える。

 ヒトの世界に、魔物がいてはならないのだ。
 苦手な晴れの日でも、気分が悪くなる女神像の近くでも、大きな鳥に襲われても、ヒトとして生きなければ。

 だから朝を迎えるその時は、私は誰なのか見失うその瞬間は。たまらなく、怖いものだった。

 ──でも、

「でも今は、怖くないんです」

 そう区切って、彼の視線を受けたまま私は果てぬ雲海を双眸へと映す。

 大地から落ちてすぐの頃は、依然夜明けを恐れていたままだった。
 でも、たとえ朝になっても大地には苦手な日差しが降り注がず、魔物も身を隠さなくて、そして私を待つ人がいる。
 お前は誰だと、何なのかと、その問いをもう恐れはしない。

 ──その答えも、そうある理由も、彼が知っているからだ。
 空から私を奪った彼の手が、全てを握っているからだ。

「ここで夜明けを迎えても私は私を見失わない。……そう思えるだけで、空に帰る理由はなくなりました」

 いつのまにか、空にいた頃怖かったはずのものが怖くなくなっていた。
 当然、その分新しく恐れを抱くものだって出来た。しかしそれでも、恐怖を乗り越えるために立ち向かいたいと思えるようになった。

 眼下の懐かしき雲海は、それを私に教えてくれた。だから精霊に示した答えも、悩まずとも導き出すことが出来た。

 そして、もう一つ。

「あと、気づいたんです」

 そう付け加えて、私は隣の主人へと顔を向ける。すぐ側の彼の視線と重なって、私の口元には無意識な笑みが浮かぶ。

 雲海を見ながらふと気づいたのだ。この景色を見たのは、一年ぶりだと。つまりは、

「貴方と会って、一年経ったって」
「────」

 一番最後に果てなき雲の海を見たのは、ちょうど一年前。
 私が──ギラヒム様の手で空から落ちた、あの日だった。

「……私にとって、生きてきた中で一番意味を持った時間でした」

 最も幸福な時間だったのかと問われれば、そうだと肯定することは難しい。
 ただ、無為な時を経るだけの日々はたしかに終わったのだと、そう思えた。
 それは幸福とは言わずとも、ささやかに行く先を照らす光明となら言い表せるのだろう。

「……一年、ね」

 それまで黙ったまま耳を傾けていた主人がおもむろに口を開く。
 私が告げた言葉を低い声で反復したが、やはりそれが持つ意味はしっくりとこなかったらしい。

「魔族や亜人に比べてあまりにも短い寿命の人間が、そのほんのわずかな時間に意味を持たせようとするのは些か愚かしくて面白くはあるけどね」
「言うと思いました」

 私の想像すら及ばないほど長く生きている彼にとって、その感情は理解し難いものなのだろう。
 けれど少しだけ馬鹿にしたような口調も、何故か今は耳触りが良く聞こえて私は苦笑を返した。

 そんな私の表情を横目に眺めながら、彼は白い肩を小さく竦める。

「浅慮なその頭に命を救われるなんて悪運が強いね、お前は」
「あ……やっぱり帰るって言ったら殺されてたんですね、私」
「さあ、どうだろうね? もしくは強引に連れ戻して飼い主が誰なのか体に刻みつけるまで躾をしていたか」

 たどっていたかもしれない恐ろしい末路をしれっと告げられ、表情が軽く強張る。
 結果的にそうならずには済んだものの、あの時深く考えず答えを出してしまった自身に対しヒヤリと冷たい汗が伝った。

 固まる部下に対し主人は一つだけ含み笑いを漏らし、そして向き直る。
 やけに目を引く形の良い唇は弧を描いて、一つの提案を口にした。

「さて……ご褒美をあげようか、リシャナ」
「へ」

 意味深な笑みを見せつけられ、細い指先に顎を掬われる。
 その行為だけで私は主人がご褒美とやらに何を与えようとしているのか察して、冷めた血液が全身を巡った。

「あ、あの、ギラヒム様、まさか……」
「そのまさかだが?」

 悪い予感そのものを言い当てられ、途端私は身を襲う危機感に支配される。が、既に彼の手に捕まった私に逃げ出すための手段は残されていない。

「い、いいです! 遠慮します!!」
「何を今さら。初めてでもないのに」
「そういう問題じゃないです!!」

 怪我のことも忘れて私は迫ってくる主人を全力で拒絶するものの、抵抗は全く通用しない。

 ……彼の言う通り、この“ご褒美”は初めてではない。それどころか所謂夜の“処理”のために私の体はこれまで何度も使われてきた。だからこれくらいを拒む理由は今さらない。
 強いて言うなら、私が苦手意識を持っているという、ただそれだけだ。彼もご褒美といいながら私をからかいたいだけなのだろう。けれど、

「ほら……すぐ終わらせたいのなら、大人しくしていろ」
「──う、」

 そう艶やかに視線を細めて囁かれれば、拒絶なんてもう出来ない。

 最後の抵抗として瞼をぎゅっとつむると、小さな嘆息が耳に届いた。──そして、

「────、」

 軽く顎を引かれる。腰に回された手が私の体を引き寄せる。

 先にぬるい吐息が触れて、間を置かず唇に仄かな熱が与えられる。
 重ねられた彼の唇は温かくて、柔らかい。思考の全てが刈り取られて、丸ごと主人のモノになる感覚に陥る。

 だが、それ以上に。

 ──愛されていると錯覚してしまいそうになる。自惚れの味がして、自分の首を絞めたくなる。

 主人からすれば私を弄ぶための行為でしかないのだろう。そうわかっていても頭の奥で揺らぐ甘い幻想の味を噛み締めたくなってしまう。何度も、何度でも、自慰のように。

 数十秒、時が止まった熱は私を侵し続け、気恥ずかしさの限界に行き着いた頃にようやく解放された。
 唇を離され恐る恐る瞼を開いた私はそこで待つ整った主人の顔を直視出来ず、隠れるように慌てて俯く。その様を見て、二度目の嘆息を落とされた。

「本当、腑抜けた顔をするね。色気のない」
「……色気出したら、ここで犯すじゃないですか」
「出せてから言うんだね。それは」

 雰囲気も何もあったものじゃない会話を交わし、それでも胸の締め付けに耐えられなくなった私は両膝を抱えてそっぽを向く。
 呆れ混じりの視線は変わらなかったものの、部下を弄ってある程度満足したのか、それ以上彼が追い打ちを仕掛けることはなかった。


 白い雲海は、別世界に侵食されていくかのように黄金色に染まっていく。
 ようやく熱が冷めてきた私と傍らの主人は、その光景に魅入られるまま束の間の無音の時間を過ごしていた。

 空にいた頃自分の目で見られなかった朝日を、今こうして目の当たりにしているのは不思議な感覚だった。
 雲の果てにある陽光は柔らかくも目に沁みて、刺激された網膜が視界をぼんやりと朧気なものに変える。

「……ずっと、気になっていたんですけど、」

 それでもこの光景を目に焼き付けておきたくて、金色の海を見つめたまま私は結んでいた唇を解く。

「太陽って、雲の下じゃなくて……いろんなところで沈んだり出てきたりするんですね」

 それは頭に残る空からの光景と目の前の光景を比べ、何気なく抱いた疑問だった。 
 すると、向けられていなかったはずの視線を感じて私は顔を上げる。
 無関心な目が待っているのかと思いきや、心の底からの呆れ顔でギラヒム様は私を見つめていた。

「何ですか、その顔」
「……ものすごーく、馬鹿な発言をしていると思ってね?」
「し、仕方ないじゃないですか……、今まで知らなかったんだから……」

 口調を砕くレベルで呆れられ、私は少しだけ顔をしかめる。
 空にいた頃の常識が大地において通用しなかった経験は初めてではない。その度に私はこうして主人に蔑まれていた。
 無知を弄られいじけた私に対し主人は一つ吐息をこぼし、視線を上げて部下が見ているものと同じ景色を目に映す。

「──地平線」
「……?」
「そう呼ぶんだよ、大地では。太陽が現れて、そして消える境界を。……今ではこうして雲海越しにしか見られないが」

 それだけを教え、再び閉口した主人の横顔を見つめる。わずかに目を細め黄金色の雲海を見据える彼は、何を想いその光景を網膜に映しているのか、私にはわからない。
 今では、と加えたのはかつて彼がその境界を別の場所で目にしたことがあるからだ。おそらく、この雲海の下に広がる大地のどこかから。──天と地が分断される以前の世界で。

「────」

 こうして彼から知らなかった大地のことを教わるのは、出会ったその時から好きな瞬間だった。
 彼にとっては当たり前のことを教えているだけなのだろうけれど、自分が生きていく世界のことを知るのは、不思議な楽しさがある。
 朝日に染まった雲は少しずつ薄れて、その切れ目から地上を彩る雄大な自然を覗かせていた。

 そうしてまた会話が途切れた時、一つの問いが脳裏に浮かぶ。
 普段なら絶対に口にすることはなかっただろう。けれど今ならば許される気がして、私は静かに切り出した。

「ギラヒム様には……怖いもの、あるんですか?」

 チラリと細めた目で一瞥され、その視線はすぐに眼前へと戻る。
 無視されるかと思えば、一拍置いて低い声で返された。

「ある訳がないだろう。ワタシを誰だと思っている」

 それは予想通りの答えだった。けれど、見つめるその横顔は普段目にする自信に満ちたものではなく──何かを儚むように、少しだけ影の差したものだった。

「何度も夜明けを重ねることに飽きてしまった。……それだけだ」

 そこまでを彼が告げて、続く言葉を全て攫うように一際大きな風が二人の間を吹き抜ける。

 彼にとって、私はいつか記憶の彼方に消える存在だ。
 同じ魔族でありながら、長と半端者として、そして精霊と人間としての絶対的な死生の差。
 寿命を迎えるそれ以前に、私は戦いの中で呆気なく死んでしまうかもしれない。あるいは私を不要だと判断した彼の手で殺されてしまうかもしれない。
 私が彼と共に過ごす時間は、彼が生きてきた膨大な時間のほんの一部にしか満たない。

 ──私は、彼のために生まれてきた。
 彼に尽くし、彼のために戦う。それが私の生きる意味。

 あの日、その薄い唇が私へ説いた言葉は今でも鮮明に思い出せる。
 今日までの私はその理由によって生き永らえ、きっとこれからも生かされ続ける。
 その生存理由がいつ身を滅ぼしてもおかしくない危険性を孕んでいることも、理解している。

 誰かを想うことは、誰かに縋ることは、誰かだけを追い続けることは、誰かに向けた妄執は──誰かの助けになるために生きることは。
 あまりにも脆く、崩れやすく、砕けやすい生存理由なのかもしれない。

 それでも、私はもう。
 刹那の瞬間でも彼が報われるその時を、目にしたいと思ってしまっている。

 軋み続ける、愛と名付けられるには欠落したものが多すぎる何かの存在を抱えて。
 私はたった一人の主人のために生き続ける。

 夜明けが怖くて蹲り、夜に生きていた私に。
 明日を迎える理由をくれた貴方と。

「ギラヒム様」
「……何だ」

「──迎えに来てくれて、ありがとうございました」

 黄金色の雲海は、朝日を反射しながらいつまでも煌めいていた。


(201123/空剣9周年記念)