make your garden grow_5.腐水
我が身をすり抜け吹き付けた風は、肌を裂くように鋭く凍て付いている。
夜の大地を埋めた二度目の雪は朝には降り止んだというのに、封印の地は四日前に訪れた時よりも格段に気温が下がっていた。
今となっては螺旋の最下層だけでなく、壁面や上層部にまで薄氷が張っている。落とした吐息が白く染まっては、虚空へと消えていった。
そして眼前にて静寂を保ち佇む巨大な氷柱。その前に立ち塞がった存在の黒い双眸が憎々しげに歪み、こちらを見下ろしている。
数年ぶりに目にしたその姿。抱く憎悪は、何度対峙しても変わることはない。
「性懲りもなく、再び妾の前に立つか──魔族長」
暗く、獰猛に突き刺された敵意だった。
何度繰り返そうが、どれだけの軍勢で立ち向かおうが、全てを凍らせる冷え切った殺気。あまりにも不愉快で、忌まわしい。
その視線に対し、召喚した一振りの魔剣を手に取って切っ先を掲げる。黒の両眼は刃を映し、さらに剣呑な光を帯びた。
「……百を超えようと、千を超えようと」
向けられた眼光を見据えて顎を引き、唇を開く。
そうしてこの白に覆われた地を、目障りな氷を、忌むべき存在を。全て斬り裂くために宣告する。
「我が主の魂が其処に在る限り、何度でもお前の心臓を止めに来てあげるよ──水龍フィローネ」
氷結の地での戦いは、始まりを迎える。
*
「なんとも嘆かわしいことよ」
唸る風の轟音に推し量るような声音が乗って耳へと届いた。
戦場となった封印の地はたった寸刻の後、荒れ狂う吹雪に視界の全てを呑み込まれている。暴風に紛れる細かな氷の粒は天から降りたものではなく、戦場を支配する者が力を使い生み出したものだった。
当の支配者はその雪の嵐を物ともせず、顎に片手を置いて双眸を細める。
「此度も精霊の散り際を吟味せねばならぬとは」
──水龍フィローネ。その名が冠す通りフィローネの森を統治し、水の力を司る者。
本来なら奴が使える力はそれだけで、この封印を支配するまでには及ばなかったはずだ。
「生身の肉体ならざる者の生を終えるのは、少しばかり骨が折れるよのう」
物憂げな口調のまま龍の片手は持ち上げられ、真横へ無造作に振られる。その動作の軌跡を描くように、空気中に水の道が現れ、一拍置き氷結。鋭利な先端を持ち獲物を串刺しにする巨大な氷弾が無数に生成された。
──この地を監視するため、水龍は女神から氷の力を授かっている。
二つの自然の力に翻弄され、過去幾百もの魔物たちが殺されてきた。そして今日まで、かの杭へ手を伸ばすことは一度たりとも許されなかった。
「刻んで血を流さぬのなら、魂ごと凍らせるか。……もしくは、」
龍が長い爪の伸びる指を一度振れば、それらは音速を超え一斉に放たれる。
同時にこちらも指を弾いて短刀を召喚し、着弾する前に迎え撃つ。質量のある氷の弾は数本の短刀によって砕かれ鮮やかに粉砕音を鳴らした。
「──!」
しかし圧倒的に重みが足りず、砕け切れなかった氷弾は軌道を逸らさず真っ直ぐに空気を貫く。
当たれば地に縫い留められる散弾を紙一重で躱しながら、魔剣を片手に龍の元へ駆ける。
「その身を真っ二つに分かつか」
次なる氷弾が放たれ短刀と魔剣で迎撃した直後、今度は向かう先の地面にどこからともなく水が湧いて出た。
それは氷弾と同じく数秒の後に氷結し、足元を狙う氷の刃が地面から突き立つ。
空から放たれる氷弾の雨と進路を奪う氷の刃。
思うように戦場を動けない煩わしさに舌打ちをこぼし、進路を断とうと生み出された氷柱の群れを魔剣で一気に両断する。
閃音と共に二つに分かたれる柱。その欠片すら見送らず龍の元へ再び踏み出す──そのはずだった。
「あるいは、その両方か」
「ッ!!」
氷柱を斬り裂いた魔剣は、引き戻す前に奇妙な質感の空間に捕らわれる。
真っ二つにした氷柱の間から新たな水が生み出され、魔剣を持つ腕ごとその中に閉じ込められたのだ。
咄嗟に息を呑んだが、抜け出す前に水は凝固し、魔剣と片腕が一瞬にして氷漬けになる。分厚い氷の枷から腕を引き抜くことは不可能だ。
「いずれにせよ三龍の御前における度重なる狼藉。此度は数刻の余地も許さぬぞ。──主無き剣の亡霊め」
枷を嵌めた獲物を逃す前に、確実に仕留めるための氷弾が背後へ並ぶ。もはや命乞いの言葉すら紡がせず、全身を穴だらけにすべくそれらを、放つ。
「亡霊、ね」
無数の霜刃そのものとなった氷が風を貫いた、刹那。
自身の口から、今しがた吐き捨てられた呼称が小さくこぼれた。
そして氷の弾が頭蓋を撃ち抜く寸前、後方へ身を翻しながら氷に捕らわれていないもう片方の腕を振り上げる。その手の中にあったのは、同時に召喚したもう一振りの魔剣。薄く開かれた唇は、緩く弧を描く。
「実に、結構だよ」
瞬間。黒の剣閃が白の世界に数度走り、氷弾と片腕を拘束していた氷柱が一斉に砕け散った。
氷の枷が破壊されたことに数瞬驚きを見せた水龍は、獲物を捕らえ直すため、すぐさま氷弾と水の壁で追い込む。
しかし二度目は許さない。空気を穿つ氷の弾を避け、魔剣で払い、大きく踏み込む。水の壁が左右から体を挟むその前に高く飛び上がり、龍の眼前へと突っ込む。
「亡霊であろうと、何であろうと」
低く、熱を持たない声音を保ちながら口にして、一対の魔剣の剣撃を龍に向けて叩き込む。
その刃は龍の肉を断つ直前に生成された氷の盾により受け止められ、甲高い音を立てて魔剣が弾かれた。
だがその盾は鋼の硬度を凌駕するには至らない。
受け止められた一撃目と同じ重みの二撃目を続けて与え、次は盾の表面に浅い亀裂が走る。
「たとえこの生をすべて費やしたとしても」
そのまま全身を捻り、振り下ろした三撃目。
重く、鋭く嘶いた剣閃に──氷の盾が砕け散る。
黒の眼が見開かれた瞬間。その刃は龍の元へと、届く。
「!!」
放たれた一閃は龍の心臓を断ち切る前に、青の鱗を纏った太い腕に防がれた。それも致命傷には遠く及ばない。
しかし地に降り立ち再び視線を交えた龍の双眸は、激しい憎悪に彩られていた。
ワタシはその目に対し笑みを浮かべ、告げる。
「──悲願を達せられぬまま迎える終焉なんて、業腹以外の何物でもない」
黒の両眼は言葉を返さず、醜く歪んだ。
「愚蒙なる魔物共……あまりに忌々しいことよ……」
龍は苛立たしげに爪を立て、怨嗟の呟きを落とす。その声に呼応するかのように、吹き荒れる風は一層冷たく激しさを増していく。
見え透いた挑発により目論見通り奴の力の消費を促すことには成功した。が、当然その分こちらに対する攻勢も苛烈なものになっていく。油断は一切出来ない。
魔剣の刀身は正面へ向けたまま、もう片方の魔剣を消して空いた片手で指を鳴らす。
目先の戦線へ召喚されたのは巨躯の姿を持つ鬼型の魔物、モリブリン。出現させた三体は鈍く光る戦槍を一様に構え、本能のまま龍の元へと進軍する。
それらに対し龍は黒の眼球を震わせ、その腕を大きく振るった。
「食らい血肉にする価値すら持たぬ小物に用はないッ!」
聞く者の戦意を刈り取る憤怒の癇声を叫び、モリブリンたちの周囲を大量の水が囲う。
進路を断たれて呻き声を上げたモリブリンたちは、水の壁を破壊しようと戦槍を振るうが、逆にその中に呑み込まれ声も出せぬまま氷漬けになる。
その氷像を砕こうと片手を握った龍の背後には──魔物たちと共に召喚させていた無数の短刀が切っ先を向けていた。
「甘い!」
「っ……!」
甲高い粉砕音を鳴らし氷像が崩されたと同時に、荒々しい咆哮を上げて龍の尾が大きく一振りされる。その動作だけで短刀は呆気なく吹き飛ばされ、苛立ちと共に舌打ちが弾けた。
やはりこの地の支配権を握られている限り、いくら戦力を積んでも龍を殺し切ることは不可能に近い。奴が力尽きる前にこちらが魔力を使い果たせば、すぐにでもあのモリブリンたちと同じく氷漬けにされる。
龍の氷の力を封じるか、隙を見つけて確実に攻撃を与えなければ勝ち目はない。
──この戦闘の最終目的が“龍を殺すこと”であれば、の話だが。
「────、」
思考を巡らせながら無意識に手が伸び触れたのは、馴染んだ重みから解放された自身の右耳だった。
普段あるはずの物がなく、慣れない解放感を覚えるそこの感触を指で感じ、数秒瞑目する。
そして瞼を持ち上げ、握り直した鋼には微かな熱が宿っていた。
「ご褒美の前借りまでさせてあげたんだ。……その分足掻いて来なければ、待つのは倍の仕置きだよ」
小さく落とした言葉は雪と風に呑まれ、誰の耳にも届かず霧散していった。
* * *
白。白。白。白。……視線を持ち上げても、白。
雪。氷。寒さ。歩く。冷たさ。痛み。雪。歩く。呼吸。吸う。吐く。歩く。歩く。歩く。
今五感で受け取っている事象。それら全てを言葉として脳内に浮かべながら、私は無限にも思える白の世界を歩き続けていた。
支配者の姿がないこの空間──氷柱の中は、以前足を踏み入れた時と違って呼吸が奪われることはない。
だが体の内も外も感覚も、全てを凍て付かせる寒さは変わらないままだった。
氷柱内部の広さは外で見た何十倍もあって、果てがあるのかどうかすらわからない。前回は支配者である水龍に導かれたからこそ、最初から封印の中心にたどり着けたのだろう。
その時と違い自らの意志で中に踏み入った今、目先に広がる白の空間は目的地の片鱗すら頑なに見せてくれない。
「……は、」
雪と氷に覆われた世界を歩き始めてどれくらい経ったのか、既に曖昧になっていた。
寒さで奪われ続けた体力は底を尽きかけている。足の感覚は麻痺し、こぼれる息は掠れていた。
だが少しでも立ち止まって体から熱を生むことをやめてしまえば、数分経たず肺が凍り付き破裂してしまうかもしれない。
「っ……く、」
痛み。苦しみ。痛い。寒い。冷たい。歩く。歩く。歩け。歩け。歩け。──歩け。
小さく唾を呑んで足に力を入れ直す。再び体で受け取る感覚を言語化し、いつしかそれは自身への命令に変わる。
足が止まってしまわないように、そして思考が凍り付いてしまわないように、最初はひたすら歩数を数えていた。
それでも寒さと冷たさに何度も感覚が奪われそうになって、次は五感で得たものを全て言葉に還元して、思考が途切れないよう頭を働かせていた。
しかしそんな足掻きを見せても、冷たい風が吹き付けば体温は下がる一方だった。
何度も意識が失われかけては寸前で持ち堪え、唇を噛んで再び前を向くという動作を繰り返していた。
いずれも失いかけた意識を引き戻すきっかけとなったのは、手の中にある固い感触だった。
「────」
私は手で握り締めていたそれを──普段は主人の片耳で光り、他ならぬ彼から手渡された菱形の石を見遣る。
透き通った青色をしたそれは、熱を発している訳でも魔力を帯びている訳でもない。
氷柱の外で主人と龍が対峙している間、死角から封印の中に入る私の存在を龍に認識されないよう、最低限の彼の魔力が込められていただけだ。氷柱内部に入りその魔力も尽きた今、これはただの石に成り果てている。
──けれど私は歩き始めてからずっとそれを手にしたまま、意識を失いかける度に握り締めていた。
「……げほっ、」
無心で青の輝きを見つめていると、不意に喉奥で何かが絡まったような異質な感覚があり、途端何度か噎せ返る。
荒い呼吸を整えながら口元を覆った手のひらを開き、私はそれを目にした。
──血だ。
開いた手のひらはぬらぬらと光る赤色に染まっていて、そこからこぼれ落ちた滴は白い地面を鮮やかに濡らす。
白。赤。赤。血。血液。命。痛み。苦しみ。──死。
「────、」
そこまでを言語化し、私は今更背筋から這い上がるその実感に捉われる。
……死が、怖くないわけがない。
一度目にここへ引きずり込まれて思うように呼吸が出来ず、龍に喉元を裂かれる寸前まで追い込まれた恐怖は数日経っても消えなかった。
ここにもう一度足を踏み入れると決めた時は恐怖の感覚を思い出して吐きそうになったし、こうして進んでいる今だって気を抜けば膝を折って蹲ってしまいそうだった。
死は、大地に降り立ち初めて知った──生物として最たる恐怖だった。
今まで、主人の悲願を達するための戦いでその恐怖の淵には何度も立たされてきた。
彼から与えられた私の生存理由を、疑いはしない。今も心の底から信じていて、だからこそ戦い続けてきた。
しかしそれが、目の前に迫っている死の恐怖を忘れる理由にはならない。人間である限り、命を持つ限り、それは逆らえない絶対的なものだ。
ならば何故、私は足を止めずに進めているのだろうか。何故、死ぬ可能性が高いとわかっていても、再びここへ訪れようと思ったのだろうか。
彼の苦しげな顔を見たからだろうか。私にしか出来ないと頼まれたからだろうか。拒めない命令だったからだろうか。……キスを、してもらえたからだろうか。
「……たぶん、違う」
どれも足を動かす理由にはなり得る。でも、目先にまで差し迫った死の影を振り切ってまで進む理由は──それらとは別のものだと、私は気付いた。
その理由は、我ながらあまりにも単純すぎるものだった。きっと他人が聞けば分不相応だと笑うことだろう。女神だってなんて愚かなことかと嘆いてしまう。
一度その想いを胸にしまって、私は手の中の青い輝きを再び目にする。
そしてふと、ここで私が死んでしまったらこれを主人へ返せなくなってしまうことに思い至った。
「それは……怒ります、よね。……ものすごく」
命令通り封印に穴を空けても、これを返さなければそれはそれですごく怒られそうだし、何ならいつも通りのお仕置きじゃ済まない気がする。この石の由縁も彼がどれだけ執着しているのかも知らないけれど、まず主人の物を失くしたという事実だけできっとものすごく怒られる。
そこまで考えて、その意図すら織り込み済みで彼は私にこれを授けたんじゃないかとすら思った。
真意は、わからない。けれどそんな些細な想像ですら、今は足を進める理由になっている。
「──行こう」
深く息を吸って、手の甲で血に濡れた口元を乱雑に拭い、己の体に一つ命じる。
冷えた足を動かして、私は封印の中心を目指して歩き始める。
命を、心を、感覚を奪い、先の見えない真っ白な腐水の中を。
ひたすらに歩き続ける。