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make your garden grow_3.雪獣



 ──白一色に変貌した大地を目にし、脳裏に一つの光景を描いた。
 いつ目にしたのか、何度繰り返したのか、数えることも遠い過去にやめてしまった記憶の断片。

 わかるのは、かの地を求め、忌まわしき獣と対峙した魔物たちの末路。
 残っているのは、自身が剣の精霊として生きる理由にまたしても手が届かなかったという、虚しい実感。

 白く、明転して。

 全て、呑まれて。


「────」

 視界は荒れ狂う白によって奪われ、辛うじて機能しているのは聴覚のみだった。
 ごうごうと咆哮を上げながら体温を奪い、絶え間なく氷の礫を叩きつける風。その中に率いていたはずの魔物たちの苦鳴が混じって聞こえる。
 命を燃やすため最低限必要な熱を一瞬にして奪われ、遠く響くはずだった今際の叫びは刹那の呻き声にしかならない。

「────」

 それらを耳にしながら、白の視界の先、うっすらと聳える巨大な氷とその前に立ち塞がり自身を見下ろす忌まわしい獣を見据え、足を進める。

 歩く道の傍ら、倒れ伏した亡骸には既に薄雪が積もっていた。顔を上げて吹き荒れる風の中へ目を凝らせば墓標のような氷像が佇み、その中では今もなお自身が生きていると信じて疑わない顔をした同族たちが永遠に時を止めている。

 何より視界が白に満たされ、埋め尽くされて。
 その先にある何者にも代え難い存在が、自身の生きる理由が、見えない。

 舌打ちをこぼし、歯を噛み締め、手にした鋼を持ち上げる。
 唸り声をあげ、目障りな白を消し飛ばすために目の前で待つ獣へと立ち向かう。

 ──あとに残るのは、手から弾き飛ばされた鋼の金属音だけで。

 白く白く、明転して、

 全て全て、呑まれて、


 音もなく、おわる。


 * * *


「本当に凍ってる……」

 リザルに話を聞き私が訪れたその場所──封印の地は、地上に穿たれた巨大な墓穴のような地形をしていた。
 眼下には数十メートルという深さで層が形成されており、螺旋状に伸びた道は下へ下へと続いている。

 そして最下層から伸びる巨大な柱を見遣り、私は肌を擦り合わせながら吐息をこぼした。

「あれ、氷なんだ……」

 あの氷柱があるからなのか周囲の気温は拠点周りよりも何段階か低く、身体を芯から冷やされていくようだった。
 辺りを見回しても封印を安定させに来ている龍らしき姿は見えない。拾える範囲で気になる魔力や気配もないが、一時的にここを離れているだけだという可能性もある。長く留まるのは危険だろう。

「…………、」

 しかし、あの氷の中。
 そこで待つ、魔族が──主人が何度も求めている存在がどうしても気になり、私は少しだけ悩んだ後に螺旋の入り口へと足を向けた。


 徐々に下の層へと降りながら、全貌が見えてきた氷の柱を見遣る。通常水が凍りついて出来る透き通った氷とは違い、目先の氷柱の内側は暗く濁った色をしていた。
 リザルは見ればあの奥に何があるのかわかると言っていたが、近づけば中を覗くことが出来るのだろうか。

「寒……」

 下層へ進むにつれ吐く息は白く、肌に纏う空気は鋭い冷たさを帯びていく。が、私の足が止まることはない。
 そうして霜に覆われた土と草を踏みしめながら、ついに私は最下層へとたどり着いた。

「これが……」

 地上に比べ一段と低くなった気温から庇うように体を抱え込み、私はその氷柱を真下から見上げる。
 巨大な氷の塊は、たった今降りてきた層の半分ほどの高さがある。一見何の変哲もない氷にも見えるが、固い岩壁のような表面はたしかに削ることも難しそうだ。

 周囲への注意を払い、ゆっくりと氷に近づいて奥を覗く。
 やはり遠目に見た時と同じく中は濁って見えて、その中がどうなっているのか見通すことは出来ない。……他に中を覗ける亀裂でもあるのだろうか。
 私は内心で首を傾げながら、周囲の様子を窺う。夢中でここまで来てしまったけれど、未だ龍の気配は感じない。

 ひとまず氷柱の周りを一周し、気になるところがないか探ろうと一歩を踏み出した──瞬間。

「……?」

 それは異変というにはあまりにもささやかすぎる感覚だった。声や物音もなく、気配とも少し違う。しかし何かに誘われ足を止めてしまう奇妙な感覚。
 何に呼ばれているのか、影すらつかめない。ただその正体が、氷の内側にいるという確信を根拠もなく抱いてしまう。

 私は目を凝らし、凍てついた壁面の向こうを見遣る。
 そうして奥にいる何かを探ろうとした、その時だった。

「……え?」

 顔を上げて目に入ったのは──二本の腕。

 氷の内側からずるりと伸びたそれは長い爪を持ち肌は青白い鱗に覆われている。半獣の魔物に近い外見をしていた。
 そこに私を見下ろす眼窩はないはず……なのに、その手は迷いなく私の体をがしりと掴む。

「──!!」

 そのまま声すら出せず、私はその手に拘束され──、
 固いはずの氷の壁面をすり抜け、柱の中へと引き摺り込まれた。


 *


 そして私は凍てついた世界──氷柱の内部で、雪の獣と対峙していた。

 そこは四方を氷の壁で阻まれた空間のはずなのに、獰猛な風が吹き荒れていた。
 風には白く細かな氷の粒が混じっている。地に積もった雪は厳格な静寂を保っていたはずなのに、こうして風に紛れ体へ叩きつけられる様は意志を持ったように凶悪なものだった。

 何より、この場所はどういう訳か上手く呼吸が出来ない。
 恐怖を抱いて迫り上がる呼吸に、見合う酸素が体の内を巡ってくれない。肺が凍て付きかけているからなのか、ここが外と遮断された空間だからなのかはわからない。

 襲いかかる白に視界を奪われながら、私は目の前で自身を見下ろすその存在へと顔を向けた。

「……成程」

 低く唸るような声が響く。これだけ荒れ狂った風が吹いているというのに、その声はやけに鮮明に私の耳へと届いた。

 そいつはヒトと同じに出来た上半身を傾け、その身からすればあまりにも小さな存在である私をじっくりと見遣る。
 次いで先ほど私を氷の中へ引き込んだ手を腕ごと組み直し、品定めをするかのように長い二本の触角を揺らす。ヒトと違い下半身から伸びる尾は、龍の特徴そのものだった。

「その身が此処で凍てつかぬのは、女神の血の所為か」

 龍は私という存在について一目で理解をし、剣呑な視線を突き刺した。深い敵意を向けられるのは初めてではないはずなのに、たったそれだけで全身が射竦められてしまう。
 私が心から感じている怯えを見透かしたように、龍は低い声音で続ける。

「しかし完全ではない。その身に宿る魔族の血がある限り此処はお前を拒絶する。……呼吸をすることすら赦さぬ」
「……!!」

 龍のその声に応えるように、肺が迎える酸素はより一層絞られ私は雪の中へと蹲る。逃げ出すにも四肢が麻痺して立ち上がることすら叶わない。

「ッか……は、」

 雪が私の体を覆って体温を奪う間に、獣のように鋭く研がれた龍の爪がゆっくりと近づく。
 その行先が私の喉だとわかっていても、悲鳴すら上げることも出来ない。

 ──そして爪が私の喉を抉る、最後の瞬間。


「────ぁ、」

 凍てついた世界を、一陣の風が駆け抜けた。

 吹き荒れる雪の嵐とは違う、温度がなく、一直線に走る風。たった一度吹くだけで、その風に攫われたかのように白の世界は消し飛び、奪われていた酸素が急激に私の体内へと入り込む。
 龍は黒い眼を大きく見開いて後ずさり、その風の出所を探した。

 しかし、私は龍よりも先にその風を送った主を見つけた。
 肺へ送り込まれた酸素に膝をついて咽せ返りながらも、視線はそれに導かれてしまう。その存在に縫い付けられてしまう。

 ──そこにあったのは、一つの黒ずんだ石柱だった。

 龍の背後。無機質な地にポツリと佇み、見えぬ何かを繋ぎ止めている杭のような存在。
 たったそれだけの光景のはずなのに、私はそこから目を離すことが出来ない。

 何故、あの石柱から目が離せないのか。何故、こんなにも胸がざわめくのか。何故、あの杭に底知れぬ崇敬の念を抱いてしまうのか。

 その答えは誰が教える訳でもない。
 他ならぬ、私の中に流れる血が教えてくれた。


「────魔王様?」


 凍りかけた肺から出ないはずの声がこぼれて、答えを紡ぐ。全身の血がざわざわと疼き、一族の王への畏怖を魂の底から抱く。
 会ったことすらないというのに。その姿が見える訳でもないのに。それが私たちを、魔族の全てを握る存在だと知る。

 そして何より、
 主人がずっと、助けたいと思い続けた存在なのだと知る。


「ッあ……!!」

 それだけを思った直後。
 私の体はその地から弾け飛び、氷の外へと投げ出され、そこでブツリと意識が途切れた。


 * * *


「…………、……ん」

 夜の帳が落ち、静寂に包まれた室内。微かな声音が耳へと届き、視線だけをそちらに寄越す。

 見れば、長く眠りこけたままだった部下が薄く瞼を開いていた。緩慢に首を巡らせた後に主人の存在をようやく認識し、その表情に微かな動揺を走らせる。

「ギラヒム様……?」

 未だ頭が完全に目覚めていないのか、リシャナは惚けた顔で主人の名を呟いた。
 ベッドからゆっくりと上体を起こした彼女は、自身の置かれた状況に疑問符を浮かべながら怖々と問う。

「私、なんで……」
「無様に気絶をして、眠りこけたままここへ連れ戻された。……これ以上の説明が必要か?」

 その動揺を両断するかのごとく一息で告げると、リシャナは何も返すことが出来ずに唇を結んだ。自分が何をしたのか、そして誰の手を煩わせたのか理解したらしい。こいつのいた場所へワタシが出向いたのは、その方角から気になる魔力を感じたことがきっかけではあったが。

 咎められるとでも思っているのか、リシャナは閉口したきり何も言えずにいる。
 その表情から目を離してやらず、低く問いかけた。

「封印の地は、どうだった?」
「…………、」

 主人を映した彼女の瞳が小さく揺れた。
 何故、この部下が場所すら教えていなかったはずの封印の地へ向かったのか。その理由はとっくに把握済みだ。
 リザルがあの地についてこいつへ告げたことに対しては何も思わない。遅かれ早かれ、知ることになったのだから。

 しかしリシャナの顔には明らかな迷いが浮かび、数十秒の沈黙を重ねた。普段ならばそんな間を許すことはないが、今日ばかりは待つことに抵抗はなかった。

 そうして長い逡巡の後、その目に何らかの決意をたたえたリシャナが静かに唇を震わせる。

「……魔王様の封印、あの場所だったんですね」

 無感情を装った声音だった。
 それに対し一度だけ視線を寄越し、短く肯定をする。

「……ああ、そうだ」

 部下の言葉に何ら驚きはなかった。氷の中に入って石の杭を見たならば、自ずとそれが何なのかは知ることになる。
 魔族の本能を掌握する魔力に当てられ、必然的にあそこで眠るのが誰なのか察しはつく。

 一方、今までこいつにあの方のことを話していなかった理由は自身でもわからない。
 話す必要性が無かったからだと自己解決をし、視線を逸らして言葉を継いだ。

「あの地で魔族が何をしてきたか、大方はリザルから聞いているだろう」

 リシャナは黙ったまま小さく頷く。
 雪が降る度、あの方の封印にたどり着くため魔族が何度も戦いを挑んできたこと。龍があの地に戻った今、再び魔族は戦わなければならないということ。
 その戦線で自身も戦わなければならないということまで、こいつは理解をしている。

 しかし今回は、それ以上に。

 ワタシは一つ吐息をこぼし、そして部下の方へと向き直る。

「──褒めてあげるよ、リシャナ」

 与えた言葉に、リシャナがゆっくりと顔を上げる。呆けたような、自身が何を言われているのか呑み込めていない表情だった。
 それに対して穏やかな笑みを浮かべながら、賞賛を送る。

「まさか、あの中に入れるとはね」
「…………」

 リシャナが倒れていた封印の地の、氷柱の前。
 体が冷え切り衰弱していた彼女の傍らで、悠遠の間その先を見せようとしなかった氷の壁には──ごく小さな亀裂が入っていた。

 そこから漏れ出る微かな気配。加え、倒れた部下に見られた懐かしき魔力の残滓。
 それらは彼女が氷の中へと入り、あの忌まわしい獣とそこに眠る存在に邂逅したということを告げた。
 
 慣れぬ賞賛を与えられた部下の表情に喜びはない。恐怖もない。
 何らかの予感を抱いて強張ったその顔を、ワタシは指で掬い上げる。

「……だから、」

 そこで区切り、彼女の予感へ応えるように頬を撫でて視線を重ねた。

「お前に頼みたいことが出来たんだよ。……お前にしか、頼めないことだ」

 虚飾のない慈しみを滲ませた声で言い聞かせるように告げると、リシャナが微かに目を見開いた。
 こちらが伝えようとしている意図を悟ったのだろう。こういう時に限ってこいつの察しが良いのは、自身の役割を受け入れているからなのか。

 その双眸から目を離さぬまま、彼女が理解しているであろう自明の道筋を言葉にして紡ぐ。


「──あの氷の内側から、封印に穴を空けてほしいんだよ」


 魔族を拒絶する、永年に渡る氷の封印。
 半端に出来たこの部下があの中に入り、封印に穴を空けることが出来たなら。

 今度こそ、魔王様の杭にたどり着けるかもしれない。

 手にした一縷の望みの感触に、形容し難い感情が胸の内で騒めく。
 しかしそれに反して脳裏に浮かぶのは、あの凍てついた場所で氷漬けにされた同族たちの姿だ。

 それでも止まることはしない。
 この瞬間を逃す訳にはいかない。
 長い長い戦いの終わりを、始めるために。

 そう……たとえ、


 戦いの果てにこいつの命が失われる可能性が、あまりに高かったとしても。