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長編2-5_蒼色と空色



 ──わたしにとって、青は“鏡のような色”だった。
 そう思った理由のほとんどは故郷、スカイロフトを四方の彼方まで囲む青空にあった。

 空を渡る手段があったなら、その青色はどこまでも果てのない無限の色と言えたのだと思う。
 しかしロフトバードを持たないわたしの網膜に映る空はあまりにも狭く、遠く、壁と同じような存在で。
 そこに姿が映し出されている訳ではないのに、手を伸ばすだけで矮小な自分を自覚させられてしまう色だった。

 しかし、理由はもう一つあった。
 空の青ではない。──青の、瞳だ。

 異なる深さを持った二つの青が、それぞれわたしを見つめる時。その中に映るわたしは、果てしない穴の中に落ちていくかのようで。わたしの知らない“私”が不意に映り込んでしまいそうで。

 怖くはなかった。
 けれどいつだって、迷ってしまう色をしていた。


「──すまないな、ゼルダ。あとは任せた」
「わかりました。アウール先生」

 苦々しい表情に見合うきまりの悪そうな声音に対して、透き通った鈴の声音が返事をする。
 わたしはその横で、白い長髪の教師──アウールせんせいの端正な顔立ちを眺めていた。

 こういうふうに彼の曇った表情を見るのはよくあることだ。と言うより、わたしが医務室に訪れる時はいつも同じような顔をしていると思う。
 せんせいは何も悪くないのだからそんな顔をする必要はないのにとは思うけれど、生真面目な性格が許さないのだろう。一度だけ目が合った彼にその意を込めて浅く頷いて見せたが、表情が晴れることはなかった。

 そうしてせんせいを見送り、穏やかな陽気に満ちた騎士学校の医務室にはわたしともう一人──同級生であるゼルダちゃんが残された。
 傍らのゼルダちゃんに対し、わたしは上がり切らない視線を向ける。

「……ごめん、ゼルダちゃん。迷惑かけちゃって」
「謝らないの。リシャナが悪いことしたんじゃないんだから」

 彼女は今まさにわたしがせんせいへ思っていたことを準えるように口にし、柔らかな笑顔を見せる。
 そう言い切られてしまえば、わたしから返せる言葉は何もなかった。

 ゼルダちゃんはわたしを医務室の奥へと促し、簡素な椅子に座らせる。次いで「待っててね」と一言残し、薬棚の方へパタパタと歩み寄った。

 ──ごめんともう一度言ったら、今度は怒られてしまうのだろう。
 わたしは彼女のさらさらと艶めく後ろ髪を見遣り、そのまま鈍く痛む自身の肩へと視線を巡らせる。

「…………」

 目にしたそこは、手のひら程の大きさに衣服が裂け、薄く血の滲む肌が覗いていた。
 深くはないし、跡にも残らない程度の傷だったが、おそらく肩甲骨のあたりにまで至っているのだろう。……ちょうど、鳥がわたしの体を鷲掴んだ時に爪がくる位置だ。

 ロフトバードがわたしを襲ったのは、屋外で剣技の授業を受けていた時のことだった。

 通常、島の中心部から外れた騎士学校の演習場にまでロフトバードが飛んでくることはあまりない。
 たまたま持ち主の手から放されていたロフトバードが、運悪く鳥除けの銃を持たず授業に出ていたわたしを見つけてしまい──結果、抵抗する手段もないまま襲われてしまった。

 幼い頃から何度も経験していることとは言え、巨大な爪とクチバシを目にすれば反射的に身が竦み上がり、逃げられなくなってしまう。
 しかも今回はクラスメイトたちの前でロフトバードに襲われてしまったため、何とも据わりが悪い心地だった。

「──あったわ、消毒液。服は自分で脱げる?」
「う、うん。ちょっと待って」

 不意に響いたゼルダちゃんの清かな声音に束の間の感慨から引き戻され、慌てて上の衣服をはだけさせる。
 涼やかな空気を生肌で感じながら、わたしはゼルダちゃんに背を向けた。

「血は出てるけど……傷は浅そう。少し沁みるけど我慢してね」
「うん、お願い」

 鼻の奥を刺す消毒液の匂い。ひんやりとした液体が傷に沁みる感触。慣れてしまったそれらの感覚に揺られながら、わたしはゼルダちゃんの処置に身を委ねる。
 時折消毒液とは別に彼女の甘い匂いが漂ってきて、心地良い眠気に駆られそうになった。

「──リシャナ、聞いていい?」
「ん?」

 ふと耳へ届いた声にわたしは瞼を開く。その音色は少しだけ影を帯びていて、続けられるまで数秒の間があった。
 言葉を選んでいるかのように逡巡をした後、彼女は小さく唇を解く。

「……他の傷も、ロフトバードに?」

 彼女の問いかけに、言葉が詰まる。加え、背後の蒼色の瞳に何が映されているのかを、わたしは理解した。
 彼女が視線を注いでいるのは先ほどつけられた傷ではなく、とっくに血が乾いて跡となった傷だった。

 今でこそ擦り傷で済むことが多くはなってきたものの、過去に刻まれた大きな傷の中には完治せず残ってしまったものもいくつかある。
 隠そうなんて意識したことがなかったけれど、実際にこの傷のことを知っているのはせんせいだけだった。たしかに何も知らない人が見れば少し驚いてしまうかもしれない。

 わたしはゼルダちゃんに顔を向けず、平静を保ったままの声で返す。

「……そう、だね。でも大怪我ってほどじゃないし、もう痛くないから大丈夫」
「……そうなの」

 ゼルダちゃんの声音を最後に、二人の間には再びの静寂が訪れた。
 蒼色の瞳に浮かぶ感情は何となく想像が出来る。彼女が心の底からそれを見せているということも。

 ゼルダちゃんの手により消毒を終えた傷口に包帯が巻かれ、きつくそこを縛られる。やがて結び目から指を離したゼルダちゃんは、その手をわたしの両肩に添えた。

「お父様や先生も、リシャナが狙われる理由はわからないって言っていたけど……でも逆に考えたなら、リシャナにロフトバードが来てくれる可能性もまだあるってことよね? それまでわたしに何か手伝えることがあれば何でも言って、ね?」
「────、ありがと」

 不自然な間を置き、わたしはそれだけを返す。
 ゼルダちゃんの言葉は素直に嬉しいものだ。こうして手を差し伸べてくれる同級生の存在は救いだった。

 ──しかし、彼女が口にした“可能性”はカケラも存在しない。
 魔物の血を持つわたしの元へ、ロフトバードは絶対に訪れない。それは女神と魔族が対立し続ける運命にある限り、覆らないものだ。
 せんせいも、彼女の父──騎士学校長も、ゼルダちゃんに問われた時は返答に困ったことだろう。こんなにも他人に対して悲しみを露わに出来る子に、真実を伝えるのは酷なことだ。

 叶うことならいつだって笑っていてほしいと誰もが思うほどに、誰かを想う彼女の心は透き通っているのだから。

「……それにしても、今日のリシャナの剣技もすごかったわ。わたし、見惚れちゃった」
「え、見てたの?」
「みんな見てたわよ。すごく盛り上がっていたもの」
「あー……」

 切り替えるように顔を綻ばせたゼルダちゃんに背後から覗き込まれ、わたしはわずかにたじろいた。
 正確に言うと、盛り上がっていたのは対戦相手のバドの方だ。何かの因縁なのかせんせいの謀略なのか、バドとは模擬戦でよく当たる。

 たしかに、快勝と言える模擬戦だったと思う。しかし荒削りながらも一応は基本に則っているバドに対して、わたしの剣技は基礎をおざなりにして悪知恵を働かせただけのものだ。
 毎回直線的に突っ込まれるから勝てているのであって、バドが立ち回りを覚えたらすぐに抜かれてしまう確信は持っていた。
 当然、せんせいもそこはとっくに見抜いている。

 ……なんて口にするわけにもいかず。渋い顔をしているとゼルダちゃんが赤い唇を緩め、穏やかな微笑みをたたえた。

「いつか、リンクとも戦ってあげてほしいな」
「リンク君とわたしじゃ勝負にならないと思うけどなぁ……リンク君は未だに模擬戦無敗だし」
「でも、まだリシャナとは当たったことないんでしょう? リンクもすごく楽しみにしてると思うわ」

 ゼルダちゃんは自分のことのように楽しげに幼馴染のことを語る。蒼色が空色の話をする時、いつだって彼女は安寧に満たされた表情をする。……つまりそういうことなのだろう。
 一拍置いて、彼女は柔らかそうな胸を張り、可愛らしく鼻を鳴らした。

「いっそのこと手も足も出ずリシャナに完敗して、リンクの寝坊癖が矯正されれば一番だと思うの。怪我はよくないけど、泣かせちゃうくらいならしてもいいと思うわ」
「ゼルダちゃん、たまに思い切ったこと言うよね……」

 わたしがリンク君を泣かせられるかどうかは置いといて、幼馴染がゆえの憂慮と発想なのだろう。
 リンク君の剣技の成績は最優秀。模擬戦も負け知らずの彼と剣を交えてわたしが勝てる可能性があるのか否か。正直あまり自信はない。

 すると、その心境を読み取ったかのようにゼルダちゃんがわたしの前に回る。真正面からわたしを捉えた瞳には、どこかで見たような慈しみが滲んでいて、

「信じてるもの。リンクのことも──リシャナのことも」
「────」

 澄み切った声音と共に揺るぎなく向けられた蒼色に、わたしは言葉を失った。

 ああ、この子の目は──女神様に似ているんだ。
 深く、深く。全身で、全心で。目の前で震える誰かに手を差し伸べようとする、そんな色。

 わたしが苦手な青い青い空とは違う、どこまでも吸い込まれてしまいそうな果ての無い奥深さ。
 その中に像として存在しているはずのわたしは、水面に顔を寄せているというよりも、その水の底にまで引き込まれるような感覚を抱く。

 きっと彼女はこれまでも、この先も。誰か以上に誰かのことを想い、喜び、悲しむのだろう。他人以上に他人のためを想い、傷つくのだろう。
 それでも、彼女の瞳は曇ることなく透き通ったままなのだろう。

 危うさを感じるほどの無垢な青色。それに見つめられたわたしは、

「ご、ごめんゼルダちゃん、その目、眩しい……」

 ──その中に映る自分を見ることが、出来なかった。


 *


「……はぁっ、」

 ──束の間揺蕩っていた回想。その中のわたしは深い青に捉われていたが、今の私は真っ赤な溶岩に支配された火山内を歩き続けていた。

 ここまで人一人を担いで歩いた疲労に加え、濃密な溶岩の熱が容赦なく体力を奪っていく。
 背中で眠り続けるゼルダちゃんも息苦しさを感じているのか、時折小さな呻き声をあげていた。

 けれど、ここで足を止めることは絶対にしない。
 ただただ足を動かしひたすらに歩くことだけを考えて、私は聖域へと伸びる道を進む。

 “捕まえた巫女”を禊の場へ連れて行くことだけを、頭の中で繰り返しながら。


 * * *


「──オォッ!!」

 吠え狂う烈風と共に、赤き刃が薙ぎ払われた。
 数十回目の粉砕音が炸裂し、岩壁がぱっくりと斬り割られる。

 刃の持ち主がそれを認識することはなく、その目はすぐさま標的の姿を捉えなおす。一秒の時も許さないまま方向を転換させ、さらなる追い打ちを獲物へと仕掛けた。

 軽快な足捌きに加えて勢いの緩急を自在に操り、シーカー族の戦士、インパは魔族への攻勢を緩めない。
 この戦場に傍観者がいたとしたなら、縦横無尽に散り弾ける鋼の閃光のみが目に映っていたことだろう。……もっとも、そんな命知らずがいたなら早い段階で首を落とされていただろうが。

「フンッ……」

 ギラヒムは短く鼻を鳴らし、眼前へ魔剣の刀身を走らせ刃を受け止める。互いの力が拮抗することはなく、インパの細い体躯はすぐに背後へと飛び退いた。
 そのまま壁面へ足裏が着いたと同時に赤の双眸が対する敵を睥睨し、射殺すべく刃と共に突進する。

「防戦ばかりというのも、退屈なものだね?」
「──ッ!?」

 風を纏って身を貫こうとした刃を、ギラヒムは最小限の動作で躱し、真横に掲げられた薙刀の柄を片手で握る。
 インパが息を呑む音を耳にしながらそれを引き寄せてやれば、驚嘆と屈辱に歪む両眼が見開かれた。だが、

「させんッ──!」
「……!」

 即座に薙刀を持たない手を翻し、印を結ぶ。それに呼応した魔力がギラヒムの足元で渦巻き、赤い陣に囲まれた。
 鳴動する魔力がぴりぴりと肌を刺し、一気に視界が赤へと染まる。瞬間、

「ハアッ!!」

 低い唸り声と共に一対の薙刀が陣から召喚され──同時に高い火柱が立った。
 満ちていた熱気をそれ以上の高温で食い破り、真っ赤な炎がギラヒムの存在ごと焼失させようとする。その業火は至近距離で術を発動させたインパ本人の肌すらも炙った。

 燃えて、焼き尽くして、炭化する時間すら与えず何もかもを灰に変える火の柱。
 やがて数秒が立てばそれは幻影だったかのように消え失せる。そうしてインパの瞳に映り込むのは──、

「捨て身で向かってくるとは、素晴らしい献身ぶりじゃないか」
「!!」

 その首を背後から刎ねるべく突き出された、黒刃だった。

 弾かれるように顔を上げ、見開かれた眼眸が灰となったはずのギラヒムの姿を捉える。
 本能的な生命の危機を察したインパは長柄を振りかざし、真後ろへ刃を叩き下ろそうとするが、呆気なくその刃は受け止められ、返される剣撃に体ごと吹き飛ばされた。

「当たらなければ全く意味がないのだけれどね?」
「ぐ、ァッ……!!」

 インパの体は地と地が途切れた山の裂け目にまで投げ出される。その底には火山内部から流れ出した溶岩が気泡を弾かせ広がっていたが、寸前のところで薙刀を突き立て落下を免れた。

「────」

 地の裂け目には石造りの橋が架かっており、先に伸びる山道は火山内に続く横穴へと至っている。ギラヒムがその光景からわずかに視線を逸らすと、血を滴らせたインパが一片の戦意も欠くことなく再び立ち上がっていた。

 本気を出すまでもない相手ではあるが、存外にしぶとくはある。戦場を火山内部に移すことも考えたが、その手段は“使うべき相手”に使いたい。
 ……ならば、やはりこの戦士はこの場で潰しておいたほうが良いだろう。

 唇を一舐めし、ギラヒムは指を鳴らす。現れたのはインパの頭上を四方から覆う無数の短刀。
 その様を目にした赤色に刹那絶望が走ったが、すぐさまそれは彼女の内に宿る使命感に塗りつぶされる。
 浮かべた笑みを深め、それごと魔剣で刈り取るべくギラヒムが踏み出した──その時だった。

「──ッ!!」

 光を帯びた一閃が、交わりかけた刃の間合いを真っ二つに斬り裂いた。

 刃を交わそうとしていた双方は予期せぬ方向からの剣撃に一度大きく引き下がる。その正体を探ると、それは鋼そのものではなく質量だけが束ねられた無形の刃によるものだと理解する。

「……来たか」

 そしてその刃を放った者の姿を捉え、ギラヒムの唇から呟きがこぼれる。

 そこでは青──否、空色の目を持つ緑衣の騎士が、白銀の剣を手にして身構えていた。