長編1-7_再び、『はじめまして』
「──誰だ?」
冷えた空気が作り出す静寂に、一つの声が響いた。
屋内の半分以上を植物に侵食され、月日と共に過去の遺産となりつつある神殿。
その中でもここは最も人工的な痕跡が残る場所──おそらく、儀式か闘技の場として使われていた広間だった。
壁や天井に這い出す木の根の他に、広々とした空間には何一つ障害物がない。
故に、空色の目は正面から真っ直ぐにこちらを捉えていた。
「……!」
悠然と振り返り、応えるように交わされた視線に空色は小さな驚きと警戒心を見せる。
初対面のはずなのに、自らの“敵”を理解している反応。彼の奥底に眠る『勇者』の本能が、警鐘を鳴らしているのだろう。
そしてその感情に近しい衝動が、胸の奥底でざわめいている。
とうの昔に忘れたはずだった声も、目の色も、こうして対峙の時を果たせば深い深い忌まわしさと微かな高揚が蘇ってくる。
試しにその目を歪めてみたくなって、ギラヒムが巫女である少女を空から落としたのが自身であると告げると、
「お前が……!?」
空色がたたえる憎悪が一層濃くなり、殺気を孕んだ鋭い視線を向けられる。
しかし意図的に仕向けた挑発に対する反応とはいえ、彼の表情には幼さが残っていた。
まだその身が抱く使命に欠片ほどの自覚もない、純粋で剥き出しの敵意の色だ。
そこまで彼を観察し、ふと気がつく。
未だ目覚めてもいないただの人間にも等しい存在を──無意識にも、かつて剣を交えた『勇者』と比較してしまっているということに。
我ながらあまりにも詮無い思考を巡らせていたと気づき、ギラヒムの内心で苦笑がこぼれる。目の前の彼が『勇者』として目覚めていようがいまいが、関係が無いのに。
晴らすべきは過去の憎悪だけで、そして興味があるのは彼の背で控えている、剣だけだ。
「自己紹介がまだだったね。失礼した」
あまりにもつまらなければ、ここで潰す。ただそれだけのこと。
だから今は、再びの『はじめまして』を楽しんでおくとしよう。
「ワタシは君達が大地と呼ぶこの世界の現魔族長……ギラヒム」
見開かれる空色に、小さく笑みを返して続ける。
「──気さくに、ギラヒム様 と呼んでくれて構わないよ」
*
「──はぁッ!!」
剣閃、というにはあまりにも緩やかな軌道が放たれる。喊声を上げながら振り下ろされた細身の刀身は、わかりやすいほどに真っ直ぐな線を描いて空気を裂いた。
対するギラヒムは最小限の動作でそれを躱し、かすかな動揺が走る空色に嘲笑を向ける。
たった一つの動きでも、剣技はその人物の実力をまざまざと体現する。
型に嵌まった正直すぎる太刀筋。体格と基礎体力の分重みはあるものの、目先の敵の肉を断つ剣圧はそこにない。
相手を“負かすこと”を目的とし──“殺すこと”を知らず、剣を振るい続けてきたのだろう。
彼は動揺を隠せずにいたが、すかさず二、三撃目が振り下ろされる。が、初撃と同様、響くのは虚しく空を切る音のみ。
未だギラヒムが剣を握ることは無かったが、その気になれば命ごと刈り取ることも容易いだろう。
「くっ……!」
何度繰り返しても擦り傷すら付けられず、勇者は悔しげに歯噛みして一度距離を取る。正攻法での突破は不可能だと判断したらしい。
一拍置いて踏み込んだ勇者は、腰を落とし斜めに刃を走らせる。先ほどより重さを捨てた分、速さを増した一閃。しかし、
「遅すぎるね」
「!!?」
真横に振り払われるはずだった刃はギラヒムが差し出した片手に軽々と受け止められ、剣勢は呆気なく殺される。
当然、勇者は押し切ろうと必死にもがくが歴然とした力の差は剣を引き抜くことを許さない。
そのまま刀身を引き寄せ一気に掬い上げれば、勇者の手から離れた白銀の剣は宙で円を描いた後、ギラヒムの手の中に収まった。
「……さて、抵抗の手段がなくなってしまったね?」
「くそ……!」
ギラヒムが視線を細めて口角を上げると、焦燥感を露わにした悪態が返ってきた。
騎士にとって、剣を奪われるというのは一番の屈辱だ。激情に駆られた表情を見せるも、攻撃手段そのものを奪われた少年に為す術はない。
むしろ、なりふり構わず奪い返しに来ないだけ理性的とは言えるか。
──そしてギラヒムは、片手に収まった白銀の剣へと視線を向ける。
「────、」
数秒前まで持ち主の手に握られていたというのに、細身の柄は拒絶を示すかのように冷たく、そこから伸びる刀身は触れずとも肌を引き裂きそうなほどに輝いている。
予想外だったのは、これを手にした重みも受け止めた剣圧も、“あの時”に比べてあまりにも軽かったということだ。
なんとも冷めきった感傷。ギラヒムはその“失望”という感情を他人事のように捉えて──、
「ッあ……!!」
──隙を見せたと判断し、飛び込んできた勇者の腕を一瞥もせずに捕まえた。
「そう焦らずとも返してあげるよ。ワタシには必要の無いものだ」
それだけを告げ、捕まえた腕を軽く手放す。
命の危機でも感じていたのか、すんなりと解放された勇者は呆気に取られながら後方へとたたらを踏んだ。
ギラヒムはその目に一度だけ笑みを向け、
「がッ──!!」
無防備な懐へ、手にした剣の柄を躊躇無く叩き込んだ。
強烈な衝撃に内臓を歪められ、勇者の体は重力に逆らって吹き飛ばされる。
そのまま受け身もとれず強かに背中を打ち付け、腹部を抱えて何度も嘔吐いた。
その彼の元に白銀の剣を放り投げると、あまりにも軽い金属音が響き渡る。
──結局、持ち主を痛めつけても剣から“あれ”が姿を見せることはなかった。
「……可哀想な姿だね、少年」
惨めに這いつくばる勇者を見下ろしながら、こんなものがかつて望んだ光景だったのかと、頭の片隅で疑問符が浮かぶ。
本当は悦びを覚えるべき場面なのだ。魔王復活のための戦いにおいて厄介な存在になると予期していた勇者が、目の前で絶望に打ちひしがれているのだから。
皮肉な感慨に、ギラヒムは冷めた視線を少年に注ぐ。
「今そこで命乞いをして……そのまま空へ帰ると言うなら、許してあげてもいいんだよ?」
そう失望しながら、光を失おうとしない空色の目へ苛立ちを覚えたのは何故なのか。
──そして、
「諦め、ない……!」
「────」
痛苦を堪え、立ち上がった勇者の姿に微かな興奮を覚えたのは──何故なのか。
どうやら諦めの悪さは持ち合わせているらしい。細い首を刎ねてあげるのは、もう少し遊んでからでも良さそうだ。
ふらつきながらも剣を構えた彼を見据え、ギラヒムは舌舐めずりをする。
一つだけ息をこぼし、性懲りも無く真正面から立ち向かってきた刃へ片手を掲げた──瞬間。
「──!!」
真っ直ぐな軌道を描いて振り下ろされた刀身は、ギラヒムの手に収まる直前に視界から外れる。
ギラヒムが目を見開いた数瞬、重力は踏み込んだ勇者の両脚と、敵を斬り裂かず地面に振り下ろされた剣先へ乗せられる。
逃げた訳ではない。わざと虚空を斬った白銀の刀身は刹那の間を置き──敵を真下から両断すべく斬り上げられる。
「チッ……」
無意識な舌打ちが弾け、咄嗟に後方へと引き下がる。
が、振り上げられた剣先はギラヒムの二の腕を浅く裂き、同時に切り口が麻痺するような感覚が襲った。
「まだだッ!!」
「……!」
薄く裂かれただけの肌がヒリつく感覚に気を取られていると、彼は勢いを殺さぬまま声を荒げて追撃を仕掛ける。
だが、二度目の太刀筋をギラヒムが見失うことはない。振り下ろされた刀身を左手で弾き、空いた片手を緑衣の懐へ捩じ込む。
その手は心臓ごと貫けたはずだった。
だが、本来の数割ほどにも満たない力でギラヒムは勇者の鳩尾を突き放す。
「ク、あ──ッ!!」
それでも苦鳴と共に勇者の体は弾け飛ぶ。
が、今度は不完全ながらも受け身を取り、白銀の剣が彼の手から離れることはなかった。
詰められた間合いをこじ開けたギラヒムは、今しがた浅い裂傷を刻まれた箇所に目を遣る。
血が流れることも、本体が傷つけられることもない。なのに、微かに傷を膿むように余韻を残す痺れは──おそらく女神の力によるものだ。
「……面白い」
無意識にも上がる口角。同時に愉悦が滲む呟きがこぼれ落ちる。
傷口を一舐めし、ギラヒムは指を鳴らして一振りの魔剣を召喚させた。
口の端から血を流しながら、先ほどより強い光を目にたたえる勇者へ、手にした黒い刃を向ける。
「────」
冷えた鋼を手にしたはずなのに、体の内側に淡い熱が宿る。
血が騒いでいる。自身の本質が、本能が、もっと戦いたいと獣の唸り声を上げている。
「いいよ。まだまだ遊んであげよう……!!」
「ッ……、」
更なる刺激を求める声音に、対する覚悟を決めた呼気。束の間の静寂に包まれた戦場に落ちる音はそれだけ。
次いで響くのは──鋼同士が交わされる、甲高い金属音だ。
「ほら、足掻いてみせろッ!!」
一撃ごとに掛ける重圧が空色の目を歪めていく。
攻め込む黒の剣撃。舞い遊ぶその剣が鋼同士の純粋な打ち合いを望んでいることは、何度も散る火花が証明していた。
最も、その事実を冷静に自覚する余裕は無い。
「受け身一辺倒ではつまらないよ……!?」
防戦一方の少年を睨み、剣撃と共に間合いを詰める。
そのまま鋼にのみ与えていた斬撃の内一つの軌道を変え、彼の肩に一閃を走らせた。
音もなく刻まれた創傷からは鮮血が散り、空色が見開かれる。しかし、
「だったらッ……!!」
勇者の表情に苦痛が過ったのはたったの数瞬。
歯を食いしばり、締め付けた呼吸音と共に、傷の存在を無視した白銀の刃が飛び込んでくる。
「ハァッ!!」
「…………、」
即座に数歩後退して引き戻された魔剣へ、白銀の剣圧が初めて乗せられた。
手で受け止めた時と同様、簡単に押し返してしまえるほどの軽さではあったが、鋼が描く軌跡は先ほどより迷いがない。
一度で終わらせず、二度、三度……何度でも。
振り下ろされた白銀から闘志を読み取って、ギラヒムは無意識な笑みを一つこぼす。
易々と攻勢を譲ってやる気はない。
再び振り下ろされた剣撃の合間を縫い、勇者の身を突き穿とうとした──その時だった。
「────!」
目を奪われたのは、一瞬だった。
だがそれはあまりにも鮮明に網膜へ焼き付き、大きな隙を見せているというのに彼に刃を向けることすら許さなかった。
天に掲げられた白銀の剣は、その刀身に光を帯びていて──、
「──食らえッ!!」
咆哮と、一閃。
視覚と聴覚がその光に飲み込まれる。
直前に理解したのは、彼が手にした女神の剣が此処では見えぬはずの空から光を与えられ、刃そのものを放った、ということ。
そして与えられたのは、戦いの結末を告げるための静寂だった。