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長編1-5_──戦いたい。



 ギラヒム様と別れ、私がその場所にたどり着いた時、森は薄明に包まれ始めていた。
 朝を迎える森は本来ならば生命の声を響かせ、澄み渡った喧騒に満ちてくるはずだった。
 しかし、この地にそれらが訪れることはない。

 朝の足音すらも身を潜める、神聖な空間。
 巫女の足取りに導かれるまま森を進み、やがて私が目にしたのは白く大きな建造物だった。

「……ここ、」

 無機質な白の石壁に囲まれ静謐を保つその場所──『天望の神殿』。

 高い壁面には緑が侵食し、この建物が悠久の時を経て森を見守り続けていたことが見て取れる。
 冠された呼び名の通り、かつてこの神殿からは空が一望出来、祈りのために多くの巡礼者が訪れたらしい。
 外装の大半が苔むしているはずなのに朽ちた廃墟に見えないのは、ここがそんな謂れのある特別な地だからなのか。

 既に魔族の手により中へ立ち入るための封印は解かれている。内部には多くの魔物たちが闊歩しているはずだ。──だと言うのに、

「やな空気……」

 私は神殿を前に足を止めたまま、胸の奥を満たす不穏な予感に吐息をこぼした。

 むしろ予感だけならまだ良かったのかもしれない。胸奥の騒めきと共に本能が拒絶をしているかのような気怠い嘔気に襲われ、私は盛大に顔をしかめた。

 ──以前主人に連れられここに来た時よりも、空気が澄んでいる。
 先に足を踏み入れた老婆たちの仕業なのか、全く別の原因があるのか、ここでは何もわからない。いずれにせよあまり長居はしたくないというのが正直な感想だった。

 おそらく中に入ればこれ以上の気怠さに襲われるのだろう。経験値から立てられる予想に気圧され、本当に足を踏み入れるか否か逡巡していたその時、

「……あれ、」

 視界が唐突な明るさに包まれ、私は思わず顔を上げた。
 その答えは神殿の壁面を越えたさらに向こう。背の高い木々をも通り越した、空にあった。

「太陽……?」

 分厚かったはずの雲の向こうで、数千年姿を見せなかったその存在がぼんやりと輪郭を現していた。
 青空を仰ぐことはまだ出来ない。それでも神殿を覆う木々は永年の間待ち望んでいた陽光を授かり、喜びを体現するかのように葉を揺らしている。

「…………」

 これも、あの光の柱が雲を貫いた影響なのだろうか。
 この暖かな光は大地がずっとずっと求め続けていたものだ。しかし、少なくとも今の私はその瞬間を喜ぶことが出来ない。

 私は薄くなった雲から目を背け、神殿の入り口へと足を進める。
 見知った土地の見知らぬ空気に呑まれながら、その奥へと。


 *


 神殿に踏み入ると内部は外観以上に草木に侵食されていて、屋内でありながら森の深部と似た空間が広がっていた。
 神殿の一部が水没している影響で冷えた湿気が肌に纏わり付く。けれど不快感はなく、大樹の中に抱かれているように澱みのない空気が私を迎え入れた。

 木の根が這い出した狭い通路を抜けて、何者かの手で蔦が切られた扉を潜る。
 そうして先客が残した痕跡をたどり、緊張感を孕みながら奥へ奥へと向かう。

「────、」

 やがてたどり着いたのは、吹き抜けの天井から空を覗くことが出来る大広間だった。

 神殿に住み着いた魔物が最も多く闊歩する場所。老婆たちがここを抜けたのなら、争いの最中か、もしくはその結末が待ち構えているはず。
 果たして、私が目にしたのは──、

「いろいろ考えたものの……案外元気ね、君たち」

 普段と変わらぬ様子で徒党を組み、ふらふらと彷徨っているボコブリン。加え、天井から垂れ下がる太い糸で獲物を待つ蜘蛛型の魔物、スタルチュラ。
 一見何の異変も感じられない光景に唖然とし、こぼれた私の声音に返ってくる反応はない。

 言葉を持たない魔物たちと会話をすることは私には不可能だ。しかし興奮していない彼らの様子を見るに、先客はこの場所を通っていないようだ。
 ついでに、神殿全体を覆う澄んだ空気に当てられているのは私だけらしい。下位の魔物たちが鈍いだけなのか、私が異常なのか。……おそらく後者だろう。
 ひとまず同族の亡骸がそこら中に無残な形で転がっている、という光景はなかったことに安堵の溜め息が落ちた。

 それも束の間、改めて直面した問題に私は顔を上げる。
 先ほどまで残されていた老婆たちの足取りはこの大広間を最後にぷつりと途切れていた。目に見える残痕だけでなく、自身の内側の血が捉えていたはずの女神の気配すらもこの場所で掻き消えている。

 どこかへ潜んでいるのかと歩きながら辺りを見回すけれど、この大広間から続くのはどこも果てが八方塞がりとなる小部屋のみだ。
 彼女たちが内部の構造を把握していないにしろ、無闇矢鱈に袋のネズミとなるような行動をとったとも考え難い。それに、

「……やっぱりここで、綺麗に切れてる」

 ぐるりと大広間を一周し戻ってきた地点で私は小さく呟いた。
 巨大な木の根が地面から壁にかけて食い尽くす様を眺め、私はそこで途切れている気配に強い違和感を抱く。

 わかりやすいほど明白に残されていたのに、ここに来て不自然なまでに前触れなく行方をくらませた先客の痕跡。
 まるで、これまでの足取りは私をおびき出すためわざと残されていたかのようで──、

「──ッ!!」

 ──次に私が認識したのは、耳を劈く轟音と、辺りを包む灼熱の業火だった。

 本来ならば真っ先に燃えてしまうはずの草木にその炎が燃え移ることはない。ただただその存在を掻き消すため、人影ごと焼いて、焼いて、焼き尽くす。
 意志を持ち、魔の者のみを灰燼と帰すための炎が、全てを焼き尽くす。


 わかったのは、それだけだった。


 * * *


 ──悠遠の時代から手放さずにいた感情は、どうやら憎悪だけではなかったらしい。
 直感的に抱いた感情に、人知れず短い苦笑が落ちた。

 あの雲海を貫く光の柱を見せつけられた瞬間、ギラヒムの思考は巫女の追跡を部下へ押しつけ、本能の赴くままある存在を探すことへと向いていた。

 リシャナと共に巫女を追い、早々にその身を手中に収めることが最優先であると理解していたはずだった。
 それでもほんの数瞬だけ職責から目を背け、“あの姿”を見つけた瞬間──自身の選択があながち間違いではなかったのだと、実感を得た。

「……見つけた」

 夜の闇に白刃を走らせた朝の日差し。
 既に森は仄白い光に包まれ、離れた位置からでもその輪郭を目で捉えることは容易かった。

「────」

 こうして姿を目にするのは初めてだというのに、反射的に不快な既視感を覚える。

 森の色彩と馴染む緑衣。あの巫女と同じ、陽光を反射させ風にたなびく金の髪。
 自身の目から見ればただの子どもに過ぎないはずなのに、透き通った空色の瞳と精悍な顔つきにははっきりと見覚えがある。

 そして、背に収まるのは──、

「──剣の、」

 その続きは紡がれず、声は朧げな吐息となって消えていった。

 生まれて初めて目にする景色を空色の目一杯に映しながら、彼は迷うことなく足を進めていく。行く末に、先んじて空から落ちた探し物が待っていることを望みながら。
 大地に足をつけたばかりの彼は、きっとその行為が持つ意味すら知らず、ひたすらに前へ前へと進んでいくのだろう。

 『勇者』を迎えた大地の朝。
 それはまさに──“黎明”と称される瞬間だということを。


 ギラヒムは視線を細めて無防備なその背を見送る。彼が向かう先にあるのは森を見守る神殿だ。彼と、そして魔族が追い求める巫女もそこにいる。

 ……正直、このまま奇襲をかけて武器も取らせず首を刎ねたなら、そこで邪魔な存在の一つは潰せる。
 だが、今それをしないのは。
 あえて巫女へ近付けるという危険を冒し、彼を神殿へとたどり着かせようとしているのは。

 ──彼と純粋に鋼を交えるのは、逃げ場のない場所が良いと思ったからだ。

「────」

 そう考えを巡らせ、我ながら浅慮であるとわかっていながらも形を変えようとしない欲に嘆息する。
 当然、感情の大半を占めるのはあの存在に対する憎悪だったはずだ。しかし、それ以外に持ち得た感情の正体から目を背けることは──自身の奥底に根付く懐かしき矜持が、赦そうとしなかった。

 『勇者』の姿を、そして彼が持つ『剣』を見て抱いたのは憎悪の他に、たった一つ。


 ──戦いたい。

 ただ、それだけだった。