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長編1-1_月下の分水嶺



「──はぁっ」

 手にした鉛の重みはだいぶ慣れたものの、自らの腕のように扱うにはまだ時間がかかりそうだった。
 しかし今この状況で泣き言は吐き出せない。速く、正確に。考えることは二つだけだ。

 木々の間を縫うように走りながらも視野は広く持ち、隙間から飛び出てくる目標を探す。頭が痛くなるほどの集中力を酷使しながら、出来るだけ途切れてしまわないように。

「きた……!」

 風で騒めく葉の音の、さらに奥。辛うじて耳が拾った遠い金属音に足を止め、反射的に顔を上げて腕を構える。鋭く光る三つの短刀が飛び出してきた瞬間、引き金を弾く。

 パンッという破裂音と共に肩に伝わる衝撃。反動で歪んだ目線は銃口から発射された紫紺の弾丸が全ての短刀を弾き飛ばしたことを確認した。

「いきなり数、多すぎ……!」

 身に迫る短刀を無事弾けたことに胸を撫で下ろしたが、休む間もなく再び走り出す。こぼれたボヤキは、まだ慣れてないからお手柔らかにして下さいというお願いを華麗に無視した短刀の主に向けてのものだ。
 失敗して刺さったりしたらどうしてくれるんだという文句が出かけたけれど、当人から返ってくるのはお前が全て撃ち落とせば済む話だという理不尽な屁理屈だけだろう。

 頭の中で思い浮かんだ嘲り顔に歯噛みしながらも、正面から真っ直ぐに飛んできた短刀を全て制圧。今度はそれだけで終わらず直後に別方向からも刃が飛ぶ。
 視界の隅でそれを捉え、反射的に地面へ手を着き転がるように飛び退くと、間髪入れず五本の短刀が地面へ突き刺さる。
 冷や汗をかく暇もなく背後へ踵を返すと、立て続けに五発弾を飛ばした。

「はッ──、」

 その時、腕が麻痺する感覚に加え、神経が握り潰されるような圧力が全身を襲った。
 浅く酸素を吸ってその痛みを誤魔化し、一旦銃口を下げて駆け出す。“弾切れ”という単語が頭にチラついた。

 だがそれを口にしたところで容赦のない攻勢が止むわけではない。走ってみたものの、短刀は再び進む足を阻んで逃げ道が奪われる。

「鬼マスターめッ……!」

 悪態をつき、手の中の銃を持ち上げる。短く、深く呼吸をし、幾分かはっきりした視界を睨み付けてその方向へと弾を放つ。
 空いた片手で銃を持つ腕を支え、撃ち込んだ弾は正確に短刀を弾いていく。バラバラと地に落ちた金属音を耳にし、周囲を見回すと、

「……終わった?」

 先ほどまで辺りに満ちていた凶暴な魔力の渦は、幻だったかのように治まっていた。

 深く息を吐き出すと肩から力が抜けていく。
 ……今日も生き延びた、と感慨に耽りながら片腕で汗を拭った──その時、

「え、」

 高い金属音が木々の間に反響した。
 反射的に顔を上げて目を見開くと、その先で一本の短刀が真っ直ぐに先端を向けている。止まっている訳ではない。今まさに、こちらに向けて放たれた。

 これは、間に合わない。
 手足を動かすことは疎か、瞼を閉じる暇すらなく短刀は飛び込んできて──、

「──終わったとも言われていないのに油断とは、本当に間抜けな部下だね。お前は」
「……ぅぁ、」

 すぐ目の前で、ピタリと止まった。
 情けなく尻餅をつき、背後から聞こえたのは疲労感が滲む部下にも容赦ない嘲り声。

「罰としてもう一度、やろうか?」
「慈悲の心はないんですか、マスター……」

 命よりも大切な主人──魔族長、ギラヒム様が与える戦闘訓練は、相変わらずの血も涙もない鬼畜度合いだった。


 * * *


 天上を覆う雲はほんのりと黄金色に染まり、大地において灰色以外の空模様を望めるごくわずかな時間が到来する。

 空の島──スカイロフトでは、太陽は雲の下に沈んでいくものというのが人々にとっての常識だった。
 しかしその下に広がる大地へ降り立ち、雲越しの夕暮れや夜明けを初めて目にした時、それは山々の間や砂漠の果てなど様々な場所へと沈んでいくのだと知った。
 いずれにせよ太陽が昇り、沈んでいく境界を“地平線”と呼ぶ。彼は部下にそう教えた。

「もう、立て……ません……」

 柔らかな草のベッドへうつ伏せに倒れ込むと、乾いた土の匂いが鼻孔をつく。ほのかな生命の匂いはくたびれた体全体へと沁み渡り、疲労が蟠る体を癒していく。
 それでも、当分はまともに動くことすら出来ないのだろう。

 と、客観的に見ても充電切れの部下の背中を引き締まった脚が容赦なく踏みつける。
「ぐえ」と呻き声が漏れ、顔だけ上げてその脚の主を睨むと整ったお顔がそれはそれは愉しそうに部下を見下していた。

「まあ、最初に比べれば長く続いた方か。そこだけは褒めてあげよう」
「言ってる事とやってる事が全く一致してない気がするのは疲れた私の幻聴でしょうか」
「へぇ、自覚も出来るようになったんだね? えらいじゃないか」
「鬼も引くくらいの鬼畜っぷりですねぇ!!」

 部下の叫びは虚しく大地に響き渡る。これ以上フミフミされて喜ぶような性癖は残念ながらないため、私はひどく緩慢な動きで上体を起こした。
 それだけでも全身が鉛になったような倦怠感が付き纏っている。下手をすれば明日にも響いてしまうほどの体の重さに、魔力という魔族にとっての第二の生命線の存在を思い知らされた。

 ──主人から新たに授かった武器、『魔銃』。魔剣に加えて使い始めた、私が持つごくわずかな魔力を弾丸に変換して放つ銃。
 それは今まで短絡的にも人間としての体力だけを駆使して戦っていた私にとって、全く新しい戦い方だった。

 しかし戦うための力を手にしてすぐに使うことが出来るのは、極々一部の才能を持つ者だけだ。だから才能も力もないただの人間である私は、こうして地道に命の危険が潜みすぎている鬼畜訓練へ身を投じている。

 魔銃の弾丸となるのは自身の魔力であり、弾切れはすなわち私の魔力が底を尽きることを意味する。
 主人が改造した銃──変換装置に頼っている部分は大きいものの、その総量は多いに越したことはない。
 そのため、私が魔銃を使う上で必要となったのは銃を構える速さと目標を確実に撃ち落とす正確性、加え魔力を出来るだけ長く保たせるための持久力だった。

「それにしても、毎日毎日この勢いでやってよく干からびないですよね、私……」
「唐突に生命活動が止まって二度と動けなくなる可能性もなくはないけれどね」
「その話、出来れば聞きたくなかったです……」

 しれっと恐ろしい事実を告げるギラヒム様を恨めしい目で睨むけれど、返ってくるのは嘲りを隠そうともしない微笑だけだった。
 一方で、彼の脅しが決して誇張された表現でないことは何となく理解していた。

 人間でも魔族でも、半端者でも。魔力を使い続ければ消耗が重なり、使い果たした先に待つのは死だ。いわば魔力とは命そのものとも言える。

 そしてそれは、傍らの主人にとっても同じことだ。

「……マスターは疲れてないですか?」
「当然」

 魔力の減耗による疲労は一つの懸念を抱かせる。

 命そのものともいえる魔力。──それをある目的のために、日々“削り”続けている主人が、いかに危険なことをしているのかということを。

 即答された彼への問いは、ここ最近は習慣となっていた。
 もともと彼が膨大な魔力を持っていたとしても、その一部を常に失った状態で部下の練習に付き合っていることになる。
 生命維持が出来ないほど魔力を使い切るなんてヘマ、彼がするわけが無いことはわかっていた。だが、今回の目的は訳が違う。

 ギラヒム様は──魔王様復活のために、空へ干渉する魔力を溜めている。

 永年の悲願を叶えるために、彼が自分の身を削る可能性はゼロではない。それを捨て切れない限り、私は彼に問い続けるのだろう。

 きっと、その問いの必要がなくなる日はそう遠くはない。

「……それで? いつまでも地面に這いつくばっているなら置いていくよ」
「立ちたくても立てなくて困ってるんです……! あと五分待ってください!」
「安心しろ。今は置いていくけれど、明日の朝にはもう一度来て獣の餌になったお前を見てあげるから」
「心の底から優しそうな顔して言う台詞じゃないですそれ……」

 主従を包む赤い夕焼けは、得体の知れない恐怖を抱いてしまうほどに幻想的なものだった。


 * * *


 茜色の陽が差す極々僅かな時間が終われば、大地は生き物の闊歩を赦さない黒の世界へと姿を変える。

 そうなる前に拠点へ帰還し、即行でシャワーを浴びて鬼畜訓練の疲労を洗い流す。そして主人へお休みの挨拶をした私は、自室へ入るや否や狭いベッドに倒れ込んでいた。

「うー、疲れすぎて眠れる気がしない……」

 程良い肉体の疲れだけなら今の時点で眠りの海へと沈んでいたことだろう。が、魔力消費がもたらす疲労は生き物としての活力そのものが奪われている感覚が襲う。
 時が経って回復するまでは、日常的な行動に使う体力すら残されていない状態が続くのだ。

 主人の心配は常日頃しているものの、自分の体にも気を配らなければ本当に二度と起きられなくなるかもしれない。
 重い体を引きずってなんとか室内を照らす火の魔石を消し、私は再びベッドの上へと身を投げ出した。

「…………」

 黒に包まれた室内。目が馴染むまで、瞼の裏には昼間の光景が浮かんでは消える。
 こうして考える時間が少しでも出来ると、決まって胸騒ぎがする。それは主人が戦いの始まりを告げた日からずっとだった。

 毎夜考えるのは、いつ始まってしまうのか、そして何をきっかけに始まるのか、ということだ。

 単純に考えるならば彼が溜めている魔力が満ちた時、なのだろう。
 けれど大きな戦いの始まりを告げるものは、何か違う形で訪れる予感があった。何の力もないただの一部下である私が持つ想像に、説得力はかけらもないけれど。

「……はぁ」

 一つため息をこぼして寝返りを打つ。考えても仕方がないし、睡眠時間と体力が削られるだけだ。
 あまりにも寝付けなければ主人のお部屋にお邪魔しようかとも思ったけれど、今の状態で遊ばれたら明日は確実に立てなくなる。

 早々に諦めて、私は窓の外に広がる夜の森を眺めながら眠りに落ちる時を大人しく待った。

「…………あれ、」

 不意に漏れ出た呟きが、静かな室内に響く。
 何気なく目を向けた窓の外。見えるのは一見いつもと変わらない森の景色と空を覆う厚い雲。耳に入るのは時折窓越しに聴こえる穏やかな風の音だけだ。

 何の変哲もない夜の森。なのに、何故か目が離せない。気のせいだと一蹴してしまうにはあまりにも大きな違和感が潜んでいるような……。

「──え、」

 やがて私は目の前の景色の些細な変化に気づき──それが意味することの重さを理解した瞬間、疲労も忘れて上体を起こしていた。

「……やっぱり、そうだ」

 窓に顔を寄せ、完全に覚めてしまった両目でじっとそれを睨む。
 違和感は確信へと変わり、同時に何故こんなことが起きているのかという疑問が深まる。

 外の世界の変化が何を告げようとしているのか、少なくとも部屋にいたままでは何もわからない。確かめに行くか、もしくは主人に伝えに行くか。とにかく状況を確認しなければ。

 数秒、逡巡のために彷徨った視線は眼下に伸びる獣道に注がれる。そして、

「あ……」

 森へと続く道へと誘われる人影を見つけ──その人物が他でもない主人、ギラヒム様だと気づいて声が漏れた。

 すぐさまベッドから跳ね起き、数瞬悩んで今しがた張り付いていた窓を解き放つ。
 そのまま躊躇なく窓枠に足をかけ、私は冷たい夜の世界へと飛び出していった。


 *


「こっちで合ってるのかな……」

 足を動かしながらこぼした独り言は、夜闇に自分の感覚を奪い取られてしまわないための小さな抵抗だった。
 森の深部に比べれば、暗闇に馴染んだ目にうっすらと足元の地面が映る程度の明るさはある。しかし気を抜けばたちまち方向感覚は失われ、私の意識は森の中へと溶け込んでしまうだろう。

 こうして迷いなく足を進められるのも、先を行く主人の魔力をたどっているからだ。──加え、今は“ある状況”が手伝っていた。

「足、早すぎ……」

 一向に追いつかない主人の後ろ姿に短く悪態をついて、ひたすら足を進める。
 彼を見つけてすぐ部屋を飛び出てきたはずなのに。……足の長さの差だろうか。

 けれど、いくらか進んでいるうちに彼の目的地には大方の予想がつき始めていた。彼も外の異変に気付いて出てきたとするならば、たどり着くのはきっとあの場所だ。
 森を抜けた先の切り立った崖。そこから見える──、

「…………、」

 背の高い木々の屋根が途切れ、待ち受けていたかのように強い風が頬を撫でた。
 風が止み、顔を上げた先に広がるのは障害物がなく森の景色を一望出来、空を最もよく見渡せる高台。

 待ち受けていたのはずっと追いかけていた主人の後ろ姿。そして、

「なんで、光が……?」

 ──分厚い雲が覆う大地には、本来差さないはずの月明かりが幾筋も降り注いでいた。

 私の驚愕にギラヒム様は一瞥を与え、何も言わないまま空へと視線を戻す。私がついてきていたことは、最初からわかっていたのだろう。

 彼の隣に立って、私も魅入られたように夜空を見上げる。
 部屋から見た景色に対する違和感の正体、加え、普段なら方向感覚を狂わせる森の闇を照らしていたのはこの月明かりだったのだ。

 一見すればなんてことはない、神秘的な光景でしかないはずだった。
 しかしこの大地において、月明かりは本来あの雲に阻まれ決して見ることのないものだ。今私たちが目にしている眩い光は、はるか昔に大地から奪われたはずなのだ。

 空にいた頃、似た光景を目にしたことは何度もある。
 けれど眼前のこの光景はとてもとても美しくありながら、同時に底知れない恐怖を抱かせた。
 口にする言葉を霧散させ、どうしてこんなことが起きているのかという思考も放棄しかけて──、

「満ちたようだ」
「……!」

 その思考を、傍らの主人の言葉が静かに引き戻す。
 声も出せないまま目にした彼の表情には何の感慨も浮かんでおらず、粛々と来たる時を受け入れているように見えた。

 ギラヒム様は自らの魔力を削り、ある場所にそれを溜め続けている。
 空へ干渉するための力。──すなわち、空の世界から生け贄となる巫女を落とすための、巨大な竜巻を生み出すための力。

 大地で解かれた女神の封印と、空への干渉のため蓄積された魔力。
 それらに影響を受け、天と地を分け隔てていた雲が薄まったのだ。

「……明日だ」

「────、」

 主人が告げる、長い長い戦いを終わらせるための始まり。

 黒の森を照らす月明かりはその瞬間を祝福しているのか、呪っているのか。
 答えは女神にすらも、わからない。