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真影編9_泡影



「う……」

 深い水の底にあった意識が徐々に浮上していく。
 ゆっくりと瞼を開いた私には自分がどれだけ眠っていたのか、そしていつまで夢を見ていたのか、わからなかった。

 地に手をついて気怠さがのしかかった上体を起こす。
 頭の奥がうっすらと痛むけれど体に不調はなく、朧気だった意識も時間をおかずにはっきりとしてきた。……最後まで足りないのは、視覚だけだ。

 周りに満ちた魔力や気配、指へ伝わる地面の感触から自分が未だ反転世界の森の中にいることを察する。
 私は霞がかった記憶を反芻して、目覚める前の光景を思い出して、

「……濡れてない?」

 そう、私はダークリンクの手によってギラヒム様と引き離され、無慈悲にも水の中に放り込まれたのだ。森の中の水辺だったはずなのに、底がないと思えるほど深く深くに体が沈んでいった感覚が残っている。
 たしか私はそこで、“彼”の映像を見せられて──。

「やっとお目覚めか」
「!!」

 その思考を遮断する声音は、予想以上に近くから降ってきた。慌てて声がした方向へ振り向くと、低い笑い声が耳に届く。

「見えない世界でよーく考えたか? 半端者」

 嘲りながらそう呼ぶ彼は、やはりダークリンクだった。
 私はあのまま主人の手から離れ、影の手の中に落ちてしまったらしい。

 雲行きの怪しくなった状況に危機感を抱いたけれど、私は平静を装いぷいとそっぽを向く。

「……自分のことを水の中に放り込んだ人の言うことなんて聞かないです」
「しょーもねぇこと根にもつな、お前。体も濡れてねぇし、どうせいつも同じようなことされてんだろ」
「…………」

 なんでわかったんだ。
 反射的に飛び出そうになった言葉を喉奥でなんとか押しとどめる。断定形で言い切られた彼からの評価に、敵なのに若干の衝撃を受けてしまった。
 閉口した私を見遣り、ダークリンクは呆れたように笑った。

 彼がどこまで私のことを知っているのか気にはなったけれど、今聞くべき本題はそこじゃない。
 私は顔を上げて、暗い視界で赤い目を睨む。

「……マスターはどこ」
「へえ、自分の身の心配より飼い主の安否の方が先か。健気だねぇ」

 挑発には乗らず、私は黙ったまま剣呑な眼差しを向ける。やがて彼は観念したように吐息した。

「どうなったのかまでは知らねぇよ。ただ、俺が呼んだ守護者の手でもう廃人になっちまった可能性は……あるかもなァ」
「──!」

 それだけを聞き、反射的に血が逆流するような怒りを覚える。……が、手のひらに爪を立て、私はそれをなんとか治めた。

 ダークリンクに行方を聞いたものの、遠くにある主人の魔力の存在は薄く感じることが出来る。
 大切なマスターの魔力だ。他の何よりも明白にその糸は手繰ることが出来る。故に、主人の命の灯火が消えていないことはわかる。

 とは言えこの不安定な世界での魔力の減耗が気掛かりなのと、ダークリンクの言う通り守護者たちに囲まれていたなら無事であるとは言い切れない。
 いずれにせよダークリンクの手から逃れて、一刻も早く主人のもとへと向かわなければならない。

「…………、」

 ダークリンクに悟られないよう、生きている感覚器を使って周囲の状況を探ってみるけれど、やはり視覚なしでは限界がある。
 ここにも相変わらず守護者の気配は存在している。数はそこまで多くないが、今の私では一体と接触するだけでも命取りだ。
 あの脳が侵される感覚に耐えられるのなら可能性はあるけれど、正直自信はない。……どうすべきか。

 すると、不意にダークリンクの方向から滑稽だと言うような嗤い声が聞こえてきた。

「ああ……なんだ。まさか気付いてねぇとはな。ま、無理もないか」

 何の話なのかわからず、口を開けずにいるとダークリンクの緩慢な足音が近寄る。距離の縮まった彼の声は、意味深な何かを仄めかすように続けて、

「俺とお前は守護者に襲われない。反応すらされない。……たとえ自分から望んだとしてもな」
「は……?」

 何を、言っているのだろう。支配権のあるダークリンクだけならともかく、私にも守護者が反応しない……?

 その言葉の意味がわからず呆けた顔をした私を、彼が面白がる素振りはない。
 ダークリンクの口調はあくまでも淡々と事実を述べるだけという、感情の無い冷たさを感じさせた。

「所詮、あいつらに意思なんて無いんだ。だから狩る理由が無ければ追ってこない」
「でも……! さっきまで追われてたし、触れて記憶も見せられたのに……」
「当然、幽霊じゃねえからな。俺もお前もあの守護者に触れられはするし、傷つけられれば過去は見る。だが向こうから俺らを追うことはしない。……必要がないんだ」

 ダークリンクの声音が低く、深いものへと変わる。
 私を同類と言ったあの時と同じだ。声音に含まれるのはやはり、純粋な悪意だけではない。一度目の邂逅で抱いた違和感は確信に変わりつつあった。

 その声音のまま、彼はゆっくりと私の目の前へと歩み寄る。

「さっきまであいつらが追い回していたのは、お前の飼い主だけだよ」
「え……」
「何故かは……わからねぇだろうな」

 思わず目を見開いた時、私は見えぬ目で正面に立つダークリンクと視線を交わした。
 そこにある意志は、冷え切った同情と憐れみと、諦念。
 束の間訪れた静寂の中、彼がどんな表情をしていたのか私にはわからなかった。

「それは、」

 ダークリンクは、言いようのない黒い感情を内包した声色で私に告げる。

「──お前が、この世界に必要のない存在だからだ」


 *


 彼の言葉を聞き、疑念よりも秘密が暴かれたような緊迫感が私の全身を貫いていた。
 誤魔化しの言葉を紡ごうとする唇は震えてしまい、舌がもつれてしまう。

「……何を、言って、」
「俺やお前がいてもいなくても、女神と魔族の争いは勝手に始まる。歴史は勝手に動く。命令に従う兵隊や守られる市民以下の存在なんだよ、『半端者』なんていうのは。……自覚がない訳じゃないだろう。お前も」

 ダークリンクの言葉を否定したかった……が、それは叶わない。理由は言葉ではなく記憶として私の中に居座っていた。
 守護鳥に巡り合えなかった空での記憶。大地に降り立ってから幾度となく投げかけられた『半端者』への言葉。影の赤い目はそれすらも見透かしている。

 彼は言葉を失った私を見据えたまま、一拍置いて問う。

「勇者がここに来た時の光景、見たよな」
「……見た、けど」
「なら、ここが“精神の試練”なんざ生温いことをさせるだけの場所じゃねぇってことは薄々勘付いてるだろう」

 彼が聞いているのはここで目覚める前、私が水の中で見た記憶のことだろう。
 リンク君がここ──“サイレン”へ来た時の記憶。
 守護者による過去の再現とは違う、曖昧な夢のような光景だったけれど、やはりあれは実際に起こった出来事らしい。

「……昔の聖戦でも騎士や賢者と呼ばれる奴らがここに放り込まれてきた。目的は精神の強化と、研磨」

 この場所についてギラヒム様が立てた推測は間違っていなかったようだ。
 聞こえだけは良いこの地の存在理由をダークリンクは忌まわしげに語る。強い否定の意志を隠そうともしていない。

「知っての通り、守護者に傷つけられても体が傷つくことはない。が、過去には心が折れて廃人になるやつもいた。一人二人じゃない、大勢の人間が」

 まるでその目で見てきたかのように、ダークリンクは言葉を紡ぐ。彼が生まれる前の出来事のはずなのに、そこに虚言はないという確信めいた響きがある。……水の中で見た記憶の断片が、真実味を持たせているのだろうか。

「そうして余分なものを削って、弱い奴は淘汰されて……残るのは、望まれた姿になった存在だけだ。そいつをなんて言うか、わかるよな」
「────」
「『勇者』って、呼ぶんだよ」

 ──望まれた。
 世界を救う、『勇者』が生まれることを。そして繰り返す、女神と魔王の戦いを。

 語られるだけなら、まるで御伽噺のように出来上がった道筋。
 しかしそこにたどり着くまでにあるのは力及ばず倒れ伏した亡骸たちと、削ぎ落とされ不必要とされたヒトだったものたち。

 そして影は言うのだ。
 彼と──私は、そうして物語の舞台を整える過程で出来た“余分なモノ”なのだと。
 私たちの存在の有無に関わらず戦いは始まる。始めさせられる。道筋は決められている。

「……きみ、は、」

 私は暗闇の視界で自身の行く末を映し、影に問う。

「君は、何をしようとしているの……?」

 刹那、ダークリンクが息を止める。
 訪れた沈黙は彼の逡巡を表す時間でもあり、彼が自分にとって忌むべき存在を想い、憎悪の色を濃くするための時間でもあった。

 深い呼吸音を皮切りに、彼は口を開く。

「──言ったよな、この世界で一番狂ってるヤツを教えてやるって」

 夢の中の邂逅で告げられた言葉。
 違うのは、もはや彼の声と表情に道化としての仮面はどこにも存在しないということ。

 私は影と正面から対峙し、覚悟を決める。
 彼の本当の目的と、私たちの『運命』を、知るために。


 *


「──女神と魔王は、何のために戦い続けているんだと思う?」
「……?」

 静かに語り始めたダークリンクが最初に投げかけた問いは、予想もしていなかったものだった。
 質問の意図がわからず私は数度目をしばたたかせる。が、彼から話をはぐらかそうとするような意志は感じられず、私は素直に答えた。

「……世界を手に入れるため?」
「大まかに言えばそうだ。女神か魔王、勝った方が世界を支配する。その方法は全く違っているだろうけどな」

 話す声音の向きが変わり、彼がどこかへ視線を移したのがわかった。
 赤い視線が見つめる先に何があるのかしばらく考え、おそらくそれが離れた場所で静かに佇む守護者に向けられていると予想する。

「ただ……正確に言えば、奴らはその鍵となるモノをめぐって争っている」
「……?」
「女神はその鍵をこう呼んでいた。……『神の遺産』と。それが、全ての元凶だ」
「え……」

 やがて私は気づく。ダークリンクが見つめているのは守護者ではない。
 守護者の鎧の装飾に象られている、私ですら何度も目にしたことのある紋章だ。

 空においては女神像を中心とした建造物や祭具に、大地においては女神の封印が施された地に。そして、『勇者』と魔王が手にする剣に。
 烙印のように刻まれた──正三角形。

「あれが出来たのはまだ世界に善も悪もなかった頃だ。だから、一度手にすればどんな欲でも祈りでも叶えることが出来る。世界を安寧に導くことも、混沌に陥れることも、な」

 言葉の裏に深い憎悪を宿しながら、ダークリンクは淡々と語る。
 私自身も、空にいた頃に見聞きした神話と、大地に落ちてからは主人と各地を巡る中で話を聞いた事がある。

 遠い遠い、昔のこと。世界を創った神様は、完成したこの世界へ遺産としてそれを遺したという。
 手にした者のあらゆる願いを叶えると言われ、かつての聖戦において魔王様が野望を果たすため聖地に赴き求めた、神様の力。

「そんなモノがあれば争いが起きるなんて、当然の話だ。そして仕向けられたようにどんな時代にも女神軍と魔王軍が存在していて……争い続けている。魔王と女神ですら、舞台に乗せられた演者に過ぎない」

 ダークリンクは自身とこの世界が追いやられた袋小路の根幹を、色彩の欠けた口調で紡ぐ。

「昔起きた戦争も、魔王と女神の終わらない争いも、空と大地の隔絶も、魔王の封印も、再び聖戦を引き起こすために生まれた存在も……『半端者』に狭い世界しか与えられなかったのも。全部、決まっていたことだ」
「────」
「全部全部、神の遺産と……そしてそんなモノを残しながらも輪廻を支配する神のせいだ」

 それがある限り、演者たちは永遠に自由になれない。
 決まり切った結末に付き纏われ、何度でも戦いを繰り返す。

「だから、」

 暗闇が動いて、私を覆う。
 真っ黒な視界の中で私は視ることが出来た。ずっと歪んで皮肉を嘯いていた赤い目の、初めて見せる奥底。

 ダークリンクは私の目の前に立つ。その姿はとても、リンク君と似ていた。
 容姿や声質だけじゃない。試練に立ち向かおうとする『勇者』にひどく似た目つきをしていた。
 意志を固めた彼が戦うための誓いを抱き、前を見据え、宣告する。

「──俺は、その遺産をぶち壊す」

 決意をたたえた赤色が、私を捉える。
 魅入られたまま動けずにいた私へ、影が手を伸ばした。

「俺の共犯者になれ、リシャナ」
「……!?」

 ダークリンクの指先が、私の目の周りをなぞるように触れる。
 温度のない手。呪いをかけた張本人なのに、恐怖はない。彼がかけた呪いを伝って、ずっと秘められていた切実な叫びが聞こえてくる気がした。

「あれを壊せば俺もお前も自由になれる。……それだけじゃない。この世界のやつらも解放出来るかもしれない」
「そんな、こと……何の確証があって……」
「ああそうだな。あれを壊して何が起きるかなんて誰にもわからない。……けどな、」

 ダークリンクが私の頬に手を添える。冷たい指先が輪郭をなぞり、その声音が低く続けて、

「あれが作った輪廻に魔族が救われる未来なんて存在していない」
「……!!」
「魔族が救われるにはあれを壊して『運命』を覆すしかない。それが出来るのはあれが作った輪廻からはみ出た俺たち──『半端者』だけだ」

 影に明示されてしまったその道に心臓が脈打つ。
 彼の前でもう虚勢は意味を成さず、今まで考えもしなかった手段が残響となり思考を奪った。

「……わたし、は、」

 それだけしかこぼせず、口を噤む。
 脳裏に浮かぶのは、主人が守護者に過去を見せられていた時に握った冷たい手。

 私が影の共犯者となり根源を断つ。
 それは主人にとって、一番望ましい道なのかもしれない。
 全てをひっくり返して恨まれることになっても、彼が幸せになれるのなら。

 ──でも、

「…………ごめん」

 血が滲むほど唇を噛み締め、ようやく顔を上げて彼に向けたのは、自身に対する呆れを隠せない皮肉な苦笑だった。
 自分が導いた結論があまりにも愚かだと、わかっているからだ。

 わかっていながら、私の答えは一つしかない。

「それでも叶ってほしいんだ。マスターの願い」
「……!!」

 ダークリンクが絶句する。
 暗闇の中で視えていたはずの赤色は、もう見えない。ただ向けられる視線に怒りと失望と、哀しみが満ちたことがわかった。

 おそらく彼が語ったこの世界の仕組みに嘘偽りはない。だからこれは私の勝手な判断でしかない。
 ダークリンクやギラヒム様が抱える願いとは似ても似つかない、感情だけで物謂う惨めな欲でしかないのかもしれない。

 それでも、

「私にとっての主役はギラヒム様で、私はギラヒム様の部下でいたい。……そうでしか、いられない」

 ──やっぱり私は、誰にとっても“正義の味方”じゃなくて、“悪い人”にしか、なれないんだ。


「……そうかよ」

 低く呟き、ダークリンクが一歩私から離れる。
 そして、

「本当に……バカなやつ」

 その声に宿るのは、わずかな自棄と、それ以上の覚悟だ。

「ッぐ……!!」

 瞬間、私の首は何かにつかまれそのまま地から足を離される。
 巨大な手が私の首を絞めて頭を潰そうとしている。おそらく、ダークリンクが呼んだ守護者の手だ。
 牙を向いた影は歪んだ視線で私を射抜き、叫んだ。

「お前がそう言うのなら、このままギリギリまで精神をすり潰す。嫌でもわからせてやる、教え込ませてやる」

 全身を締め付けられ体が酸素を渇望する。
 苦痛に喘ぎながら、ようやく私は彼が本当に望んでいることを理解した。

 彼は彼の意志で『運命』に抗おうとしている。
 オリジナルから引き継いだものではない彼自身の強さで。生まれた理由に縋り続けている私とは、真逆に。

「絶対に、認めさせてやる──ッ!」

 だから、彼の願いに背く私は正々堂々と戦わなければならない。
 このまま巨大な手に首を折られて、記憶を貪られたとしても。
 自分の“本当の願い”を、見せつけられたとしても──。


「そこまでだ」


 一つの声音と共に、穿たれた一閃。
 私は何が起きたのか認識できないまま首を絞め付けていた圧迫感から解放され、肺へ逆流した酸素に咽せかえる。
 そうしながらも見えぬ目で、私はその後ろ姿を視た。

「こいつの頭を潰していいのは、ワタシだけだ」

 地に突き立てられた刃の音。
 あまりに物騒な宣言をして──魔族長ギラヒムは、私と影の元へと乱入した。



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