過去編4_晦冥
スカイロフトに珍しい雨が降った。
明け方窓を叩き出した雨粒はやがて合唱のように音を立てながら空の島を濡らしていく。当分その勢いは弱まりそうにはない。
その光景に無心で見入っていたわたしの耳に、扉の向こうの足音が届く。
「リシャナ、朝だ……ぞ……?」
「……せんせい、おはよう」
いつもの日課で部屋へ踏み入ったせんせいは、既に起床して支度まで終えていた部屋の主の姿に目を丸くする。
わたしはその表情に少しだけ勝ち誇る気分で笑みを返した。
「起きていたのか」
「うん。雨が珍しくて」
あまり寝られなかったから、とは言えなかった。
わたしは早起きの分、せんせいの屋内菜園のお世話を手伝い、一緒に騎士学校へと向かった。
わたしの感情の機微に聡いせんせいに何度か顔色を窺われたが、ぎこちなくもなんとかごまかし通せた。
「────」
雨が降れば、屋外の実技はもちろん中止になる。だから今日は教室の中でずっと学科の授業だ。
朝から変わらず降り続ける雨の音は耳に心地よく響き渡る。
加え、アウールせんせいの双子の兄弟であるホーネル先生の声が眠気を誘い、昨夜の分を補うように何度か眠りの世界に引き込まれてしまった。
ただ、眠れた感覚は一切しなかった。
『──リシャナ』
「────」
あの声が、ずっと聞こえている。起きていても、夢の中でも。
だからたまに、自分がどっちの世界にいるのかわからなくなる。声の主が近づいてきているのか、それともわたしが近づいているのか。それすらも曖昧なほどに。
雨はその声を掻き消そうと躍起になったように、ざあざあと降り続けていた。
* * *
足元の感覚は覚束ないまま、一日の授業はあっという間に終わりを迎える。
雨雲に隠れた太陽は雲海の下へと沈んで、夜が訪れた。
「……ここにもいない」
わたしは一人忙しなく、騎士学校中の部屋を巡っていた。
手の中にはロフトバードの黒く立派な羽を用いて作られた羽ペンがある。せんせいが普段使っている物だ。
放課後、授業が終わり重い頭を抱えて教室を出ようとした際に、偶然教卓の上に忘れられているのを見つけたのだった。
せんせいが忘れ物なんて、滅多にないことだ。やっぱり最近忙しくて気が抜けてしまっているのだろうか。本人は全くそんな素振りを見せないけれど、心配になる。
とにかくまだお仕事中だろうけど、これが無ければ彼も困ってしまうかもしれない。
そういう訳で、わたしはせんせいを探して騎士学校中を歩き回っていた。
「──あ」
わたしが小さく声を上げたのは、いくつかの部屋を巡り、そろそろ諦めようかと思っていた頃。
目先の廊下の角へ白い長髪が消えていく瞬間を目にした時だった。
せんせいかもしれないと、わたしは小走りにその人影を追いかける。
「せんせ……い……」
廊下を曲がり、目で捉えた後ろ姿は予想通りアウールせんせいだった。
しかし彼を見つけたにも関わらず、わたしの声は急速に萎んでいき、その後ろ姿を引き止めることはなかった。
せんせいが校長先生や他の教師、そして知らない大人たちの後に続き、少し大きな教室──会議室へ入っていったからだ。
最後尾で部屋の扉を閉めるせんせいの横顔は、苦い顔つきをしていた。
「…………」
閉じられた扉を前に数秒逡巡し、辺りを見回す。
誰もいないことを確認したわたしは、扉の取手をつかんで音を立てないようゆっくりと捻る。鍵はかかっていない。
そのままほんのわずかな隙間を開けて、中の会話に耳を傾けようとした──瞬間、
「──鳥ナシの仕業ですよ」
耳へ飛び込んできた声に、びくりと肩が跳ねた。
知らない男の声だ。けれどその声音には強い憤りが滲んでいることがわかる。姿を前にしていないのに、威圧感すら感じる。
「部隊長、その言い方は……」
「……失礼」
他の男の声が鳥ナシと口にした男──部隊長をたしなめる。謝罪は口にしたものの、彼の敵意は決して薄れることはなかった。
部隊長は一拍言葉を溜め、「しかし」と続ける。
「今回の件を軽く見ない方が良い。スカイロフトに魔物が増えているのは事実なのですから」
ここまでで、わたしは既にこの会議の主旨を理解していた。間違いなく、昨夜の一件だ。
そりゃそうだ、と自嘲の笑みがこぼれる。
騎士学校の生徒が見回りの、ましてや魔物を退治した衛兵に襲い掛かるなんて誰がどう見てもわたしが悪い構図だ。自分でもそう思う。
……してる後悔は、あの子が斬られる前に止められなかったことだけだけれど。
「もちろん、騎士学校の生徒さんをどうこうとは我々も考えていません。将来の私たちを継ぐ子らです」
部隊長さんは冷静な言葉回しで淡々と話を進めている。目の前にいる騎士学校側と揉めるつもりはないと、態度でも示していた。
そう、彼にとっての敵は外にいるのだ。
「ただ、」
そこで一度言葉が切られる。それはあたかも扉の向こうにいるわたしに対し、視線を向けるための間のようにも感じた。
もしかしたら最初から気づかれていたのかもしれない。その上であえて、敵意を隠さず話しているのかもしれない。
そして彼は、低い声音で問いを投げかける。
「魔物の血を持つ生徒をこのままにしていて良いのでしょうか……?」
「────」
覚悟していた程、胸の痛みは強いものではなかった。
話の頭から察していたし、こんな議論はいつの頃からか何回もなされている。わたしが知らないだけで、きっと数えきれないほどに。
扉に触れている指先が冷たい。自分のことなのに、この向こうに広がるのが別世界のように感じた。
「…………」
少しだけ隙間を広げたが、せんせいの顔はここからだと死角で見ることが出来ない。
……見えたところで何になるのだろうと自棄にもなりながら、わたしは音を立てず扉を閉めた。
これからどんな論争が繰り広げられようと、結末が変わることはないとわかりきっていた。
「──あれ、リシャナ?」
「!!」
扉から手を離したその瞬間、背後から唐突に声をかけられ今日一番心臓が跳ね上がった。あわや叫んでしまうところですらあった。
間一髪声を上げずに振り返ると、そこにいたのは短い金髪に空色の瞳をたたえた少年──リンク君だった。
私服の彼は、動揺を隠しきれていないわたしの振る舞いに若干の戸惑いを見せていた。
「り、リンク君? ど……どうしたの?」
「アウール先生に用事があって探してたんだけど……」
「あ、ああ、せんせいに……」
嘆息にも近い声を漏らしながら、ようやくわたしは落ち着きを取り戻す。盗み聞きが中の人にバレてしまえば扉の向こうの炎に油を注ぐことになってしまう。
わたしはなんとか平静を装い、顎で背後の扉を指し示す。
「せんせいならこの中だよ」
「あ、もしかして会議中?」
「そう。しかも戦争勃発前っぽいから急ぎじゃなければ今はやめといたほうが良いかも」
「そ、そっか」
その火種がわたしとは言わなかったけれど、素直なリンク君は額面通り受け取ってくれたみたいだ。文句無しの良い人である。
そしてわたしは彼の空色の瞳を見つめて──そういえば、と思い至る。
「あのさ、リンク君」
「ん、何?」
「この間の剣技の演習で……その、わたしが蹴っちゃったとこ、大丈夫?」
リンク君は何のことかと数秒悩み、「ああ」と声を漏らす。
「何ともないよ。アザとかも残ってないし」
「そっか、よかった。……ごめんね」
「いいって! それよりさ、あの演習、すごく楽しかったよな」
それはゼルダちゃんからも聞いていたことだった。けれど本人の口からきくと……なんだかむずむずするものがある。
しかも言葉の通り彼が心から嬉しそうな顔をするものだから、中途半端な形であの試合を終わらせてしまってかえって申し訳ない気分になった。
「また、やれたらいいな」
「……うん、そうだね」
濁りのない爽やかな笑みに、今度はちゃんと笑顔を返すことが出来た。
ついさっきまで冷えていた指先はいつのまにかほんのりと温かくなっている。
それからしばらく、わたしはリンク君と他愛のない立ち話を交わした。
扉一枚隔てた先では自身の処分について話し合われているというのに、ここでこんなに和やかな会話をしているなんて、すごくちぐはぐな感じがする。
でもリンク君との久しぶりの雑談は、心から楽しく思えた。
彼と話していた時間はそこまで長くなかったと思う。
しかしふと時間が経ってしまっていたことに気づき、わたしは部屋へ戻ることを彼に告げた。会議が終わって、わたしの姿が大人に見られてしまうのはよろしくない。
「────」
ただ、最後に一つ。
──この恐いくらい真っ直ぐな目をした同級生に、ひとつだけ問いかけたくて、わたしは足を止めた。
「ねえ、リンク君」
「うん?」
「君は──正義って、何だと思う」
リンク君はわたしの唐突な質問に微かに目を見張った。さっきまで普通の世間話をしていたのだから、当然の反応だろう。
「い、いきなりどうしたんだ?」
「んー、リンク君ならわかりそうだと思って」
我ながら曖昧すぎる理由だと思ったけれど、リンク君は頭をひねって真面目に考え込んでくれた。わたしは茶化したりせず、唇を結んでその答えを待つ。
そうして言葉を選びながらも、彼は毅然とした声音で答えを告げた。
「……守りたい人がいたら守ってあげること、それが正義だと思いたい、かな」
「────」
リンク君はさすがに気恥ずかしくなったのか、ほのかに顔を赤くして目を逸らした。
しかしわたしの中に、その言葉がすとんと落ちていく感覚が残る。……それと同時に、彼の高尚さが羨ましくも思えた。
わたしは予想以上の答えを返してくれた同級生に胸奥で尊敬の念を抱いて、「そっか」と一つ区切る。
「リンク君の場合、やっぱりそれはゼルダちゃんになるの?」
「な、なんでそうなる……!?」
「あれ、違うの? そうかと思ってた」
リンク君は赤い頬をさらに真っ赤に染めて慌て出す。まあつまりそういうことなのだろう、とだけ思うことにした。
このまま茶化しても楽しそうだけれど、そろそろ潮時だろう。
わたしは慌てるリンク君をなだめ、何気ない足取りで自室のある廊下へと向かう。
「わたしは眠いからもう寝るね、おやすみ。リンク君」
「あ、ああ……」
リンク君は頭を掻きながらも律儀に頷く。
わたしは階段を数段のぼり──少し考え、リンク君の方へ改めて向き直った。
「うまく言えないけど」
わずかに呆けていても、リンク君の精悍な顔つきは変わらない。
わたしは口元を緩め、一つ告げた。
「君は、すごい人になりそうな気がする」
返事は聞かず、彼に背を向ける。
彼の心根は──既に『騎士』たりうるものなのだろう。
わたしはそれだけを思った。
* * *
自室に戻り、明かりもつけずに固いマットレスに体を沈める。そのまま呼吸を留め、真っ暗闇の中に溶け込んだ。
誰にも見つけて欲しくなくて、息さえ殺せば消えてしまえるような気がして。
そうして時間を忘れかけた頃、遠慮がちなノックの音が静寂の室内に響いた。返事をしようと小さく息を吸うけれど、声は喉奥で潰えてしまう。
声を出すことを諦め無言でうずくまっていると、暗闇に一筋の明かりが差し込んだ。
誰が入ってきたのかは、顔を見ずともわかった。
「……起きているな」
彼には──アウールせんせいには、わたしがここでこうしていたことなんて部屋に入る前から見透かされていたのだろう。
数秒置いてギシリとスプリングを鳴らし、彼が傍らに座ったことがわかった。
「……リシャナ、」
「昨日は、ごめんなさい」
問われる前に謝罪を口にする。見つかった後は無駄な悪あがきかと自嘲したくなる早口だった。
わずかな驚きの気配がすぐ側から伝わってきたけれど、冷静な口調を保ったまま彼は続ける。
「……夜の外は危ないから、出るなとあれほど言っただろう」
「……うん」
形式的な言葉を交わし、気まずい沈黙がすぐに訪れる。
本題がそこではないことは互いに理解出来ていて、それだけに時の流れがとても遅く感じた。
先にその沈黙を破ったのは、せんせいだった。
「衛兵については、軽傷だったそうだ。だが怪我をさせたことと役務を妨げたことは、反省しろ」
「……ごめんなさい」
動悸はない。呼吸も乱れていない。わたしは冷静でいられている。しっかり罪を認めている。
そうやって、自身を無理矢理納得させる。
「……リシャナ」
せんせいがわたしの名を呼んだ。
その声に導かれるように、わたしはゆっくりと上体を起こして彼と向き合う。暗がりの中でもせんせいの優しい眼差しがわたしを待っていたことがわかった。
「お前にとっての懸念も、わかる」
彼の真っ直ぐな視線がわたしを捉える。
おそらく先程のあの会議で、わたしがキースを殺されて激怒したなんて都合の良い情報は流れていない。見回りの衛兵の邪魔をし、危害を加えたという情報しかせんせいには与えられていないはずだ。
それでもせんせいは、わたしが衛兵に剣を向けた理由を察している。
それが優しくて、救いでありながら──苦しいほどに、胸が軋む。
「しかし……お前にとっての脅威でなくても、スカイロフトの他の人間にとって脅威となる存在は、“危険”だと認識されてしまうんだ」
魔物は、という主語を彼はあえて口にしなかった。それが彼の気遣いなのだと、わかっていた。
……わかっていた、のに。わたしは手の震えを抑えることが出来ず、それを紛らわせるようにシーツをぎゅっと握り締める。
せんせいは、悪くない。誰も悪くない。
悪いのは魔物で、魔族で──わたしだ。
「未来にはお前にすらも危険が及ぶ可能性だってある。……だから今は、苦しいかもしれないが、」
「──魔族のわたしに未来なんてないッ!!」
叫びの後の沈黙は、両者の痛ましい傷を確認させるには充分すぎるものだった。
わたしは自身の声に驚いて、濡れた頬にすら罪の意識を覚えて、隠すように頬を拭う。それでも溢れてくる雫に強い嫌悪感を抱いた。
息を詰まらせるせんせいと再び視線を交えることはもう出来なくて、わたしは瞼を伏せて掠れた声を絞り出す。
「……大声出して、ごめんなさい」
「いや……俺こそ、悪かった」
せんせいも動揺しているのか、一人称が若い頃のものに戻っていた。それを指摘する余裕は双方ともにない。
ただそれだけの空気に呼吸が出来なくなるほど耐え難い苦しさを覚え、わたしはふと思い至った逃げ道を口にした。
「……そうだ、羽ペン忘れてたよ。教室に」
「あ、ああ……持っていてくれたんだな。ありがとう」
場にそぐわないお礼の言葉に、胸の奥がずきずきと痛む。
わたしは羽ペンをせんせいの大きな手に乗せて、薄い羽ごしに伝わる温もりを数瞬だけ享受する。
その哀しい温かさから離れ難くて、わたしは手を浮かせないまま唇を震わせた。
「ちゃんと、反省する。もう夜に外には出ない。……せんせいの言った通りだと思う」
「…………」
「けど、今日は一人にしてほしい。……明日も晴れないみたいだし、きっと一人でも起きられるから心配しないで」
それだけ言い切って、わたしはそこからゆっくり手を引いた。
ペンを握ったせんせいの視線が言葉もなく重なり、わたしは最後の力を振り絞って笑みを返す。
微かに頬を強張らせ、彼は言葉を継いだ。
「……何かあれば、いつでも来い」
「うん、ありがとう」
「……おやすみ」
「おやすみ、せんせい」
そうしてせんせいは黙ったまま、わたしの部屋を後にした。
隣室からはしばらく経っても何の音も聞こえてこず、わたしは彼が自室に戻らなかったことを悟る。わたしを一人にするために、わざわざ壁の薄い隣室から離れてくれたのだろう。
「────」
わたしはベッドに身を投げ出し、顔を枕へ押し付ける。そのまま窒息してしまいたかったのに、生物としての本能が嫌でも酸素を取り入れてしまう。
──アウールせんせいと初めて出会ったのは、いつだったのだろう。
まだ世界の仕組みも何も知らなかった、幼い頃。親のいなかったわたしは、寄宿舎で一人暮らしていた。
騎士になるべく親元を離れて下宿している同世代の子も少なからずいたため、周りのいろんな大人たちがその頃は助けてくれていた気がする。
みんなが親や兄弟のようだったし、もしかしたらその時にはせんせいと出会っていたのかもしれない。
けれどいつのまにか、わたしは大人たちの手から離れた位置で生かされていた。気づかないうちに、徐々に遠ざかるように距離を置かれていたのだ。
今になればわかることだけれど、わたしの中に魔族の血が流れているという噂が流れたのがその頃だったのだろう。
わたしには否定する術も、力もなかった。それは歴然たる事実だったからだ。
そうしてその頃、わたしの後見を申し出たのが──アウール先生だった。
その日のことは覚えている。
先生はまだ騎士学校を卒業したばかりで、教師の道を歩む直前だった。年齢も、大人というよりお兄さんと呼んだ方が自然だった頃だ。
その時には大人に対しある種の恐怖心を抱いて部屋へ引きこもっていたわたしに、彼はこう告げたのだ。
『──安心しろ。俺は君の味方だから』
口調も目つきも、まだまだ若かった彼の言葉。
それでも唯一警戒しなくていい大人なのだと、“味方”なのだと心の底から思えたことは今でも鮮明に覚えている。
彼がわたしの後見人となった理由は本人から聞いたことはない。それでもその日から先生は──わたしのせんせいとなった。
時には厳しくしながらもたくさんのことを教えてくれて、いつだってわたしの“味方”でいてくれる人だった。
「────」
せんせいは味方。でも味方である以上に、迷惑をかけたくない人だ。
わたしの血が彼すら貶めるというのなら、わたしは──。
『──リシャナ』
声が、聞こえる。
ずっとわたしを呼ぶ、誰か。
あなたは、わたしが魔族だということを知っているのか。
知った上で、わたしを呼んでいるのか。
──あなたに会えれば、世界は変わるのか。
『リシャナ』
声の主が誰なのかわたしはまだ知らないのに、その声音に淡い温もりすら抱いてしまう。
縋りたくなるような、泣きたくなるような、全ての答えを握っているような、声音。
唯一歯痒いのはその姿をこの目で見られないこと、ただそれだけ。──だから、叶うことなら、
『リシャナ』
一度でもいいから、あなたに会ってみたい。
『──帰っておいで』
それは嵐が近づく、前夜だった。
晦冥
雨の日。きえたいとおもった日。