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過去編2 袖搦と銃



 ほどよくお日様が隠れて少し風の出ている、曇りの日。日差しが苦手なわたしにとって、一番目覚めが良くて活動しやすい日。──だというのに、

「……はぁ」

 深いため息はわたし以外誰もいない教室に虚しく響いて消える。
 ……せっかくせんせいに起こされる前に自力で目が覚めたのに。皮肉にも、朝一番の授業は学校にいる中で最も退屈な時間だった。

 手元に広げた本へ意識を戻すと、どこまで文字を追ったか忘れて迷子になってしまう。
 わたしはそんなささいなことにすら肩を落とし、視線を本から教室の外の世界へと移した。その瞬間、

「……っ!?」

 黒い影が唐突に視界を横切って、肩がびくりと跳ね上がった。
 背中に人を乗せた大きな鳥が、建物すれすれを一直線に飛んでいったのだ。

 いくら鳥乗りが楽しいからと言って、こんな低空を無邪気に飛び回るのはいかがなものだろうか。……屋内に鳥が飛び込んでくるわけでもないのに、過剰に反応してしまったわたしもわたしだけれど。

「……はぁ、」

 再びため息がこぼれ落ちる。本日何度目なのか、もはや数える気にもなれなかった。

 今日の午前中は“鳥乗り”。その名の通り、生徒たちが各々の守護鳥──ロフトバードに乗りこなすための訓練を行う授業だった。
 昨日の剣技の授業と合わせ、騎士学校で重要視される実技だ。

 そしてこの授業は──自身のロフトバードを持たないわたしには、参加することが出来ない授業でもあった。

「────」

 鳥乗りの授業の間、わたしには束の間の自由な時間が与えられる。
 これはやむを得ないことだから、せんせいはもちろんクラスのみんなも何も言わない。わたし自身も納得はしているつもりだ。

 自由は好きだ。けれど、この自由は少し憂鬱だ。
 せめてせんせいがいれば退屈しのぎが出来るのに、せんせいはまさに鳥乗りが専門だ。鳥乗りの授業は彼がメインで担当している。

「────、」

 わたしは教室の外の世界へ視線を移し、鳥と共に次々と空へ飛び立つ同級生たちを見遣る。
 目一杯に翼を広げ、羽ばたいているのはロフトバードなのに、その背に乗るクラスメイトたちも一体になって空を泳いでいるようだった。今日は風もあるから、流れに乗ればさぞ気持ち良いことだろう。

 晴れ晴れとした空だというのに、わたしの胸にはぽっかりと空虚な穴が空いたままだ。それはきっと今日だけでなく、この先もずっと。

「……やめよう」

 どうしても鬱々としてしまう気分を紛らわせるため、数秒瞼を伏せる。どうせまだまだ時間はあるのだから、もう一度本の世界に逃げ込んでしまおう。
 気を取り直し、本の内容を思い出そうとページを捲った──その時だった。

『──リシャナ』

「……え?」

 一つの呼び声が、私の耳と脳を鮮明に震わせた。

 たった一度名前を呼ばれただけなのに、全身の血管がざわざわと騒めく。わかっているはずなのに教室を見回し、誰もいないことを確認してしまう。
 それ以前に、その声の主が生徒や先生でないことは最初から理解していた。

 だって今の声は──夢でわたしを呼んだ声と同じものだったのだから。

「────」

 脈打つ心臓を抑えつけて、一度考える。
 ……名前を呼ぶ声は、夢の存在でなかったのだろうか。

 もちろんただの幻聴という可能性もある。何かの音と聞き間違えただけかもしれない。

 けれど、声の主はおそらく存在している。
 あの声音がわたしの鼓膜を揺らした感覚は、未だに生々しく残っている。そして何より──、

「────」

 名前を呼んだ人物の、気配を感じる。
 見られている、もしくはそこにいるという気配ではない。抱いているのは、“どこかにいる”という根拠のない確信だ。

 曖昧で、自分でもわからないことだらけの不可思議な感覚。
 しかしわたしはその気配の糸を、何故か手放したくない衝動に駆られる。

「…………、」

 じっと目を伏せて考える。……どうせ鳥乗りの授業はわたしに関係ない。
 授業が終わるまでの間なら、声の主を探しに行ってもまずバレることはない。すぐに行って様子だけ見て帰ってくれば、問題はないだろう。

 わたしはそれだけを決めると、立ち上がった勢いのまま椅子に引っ掛けていた丈の長いケープを羽織る。
 本来は鳥乗りの際の風除けとして使われるものだが、わたしの場合はある理由から身を隠すためのものだった。

 背についたフードを深くかぶり、完全に顔を隠す。生徒がこの時間に出歩いていると怪訝に思う住民もいるかもしれないから、念のためだ。

「……よし」

 わたしは本能で感じる気配に誘われるまま、教室を抜け出した。


 * * *


 騎士学校の広い敷地を出てしばらく歩くと、大きなモールや家々が並ぶ大通りに出る。
 お昼の時間も近いため、早めのランチをしながら会話を楽しむ主婦や、前を見ず無邪気に遊びまわる子どもも多い。日差しがないうちにと農作業をしている人もいた。

 曇りの日にも関わらず、多くの人でガヤガヤと賑わう大通り。わたしは当てもなく、しかししっかりとした足取りでそこを通り過ぎる。

 わたしの足は人混みを避けつつ、次第に家屋の少ない町外れへと導かれていく。
 人の気配が遠ざかると、知った土地のはずなのに未知の場所を探検している気分にもなってくる。

 声の主の気配は近づいている感覚が一向にしないけれど、見失うこともない。
 幽霊のように不安定な気配を追いかけ続けて、まるで意図的に誘導されているような気さえしてくる。

「……は、」

 一つ息をついて、頭に酸素を入れ直す。
 迷いない足取りもそう長くは続かず、時間が経つにつれて重くなり始めてきた。

 夢中になっている間に、いつのまにか草木が生い茂った島の裏手にまで来てしまっていたらしい。
 上がった呼吸を整えるため、わたしは立ち止まって一休みをする。

 同時に、唐突な疲労感がのしかかってきた。曇りの日だからといって夢中で歩きすぎてしまったのだろうか。
 これでたどってきた気配が気のせいだったら泣きたくなるところだけれど、教室を出た時と変わらず声の主が“いる”感覚は存在している。

 一体、どこでわたしを呼んでいるのだろう……。

「──本当か?」
「!」

 その時、油断しきっていたわたしの耳へ低い声音が飛び込んできて、反射的に身を小さく屈める。
 今のは頭に響く声ではなく、すぐそこで発された肉声だった。

 わたしは身を隠した草陰から恐る恐る顔を覗かせる。
 視線の先には舗装された小道が伸びていて、簡素な鎧を身に纏った二人の男──スカイロフトの衛兵が立ち話をしていた。
 いかにも見回りという格好をした男たちは大通りで見た主婦と同じように呑気な顔をして話し込んでいる。休憩時間なのか、サボりなのか。……おそらく後者だろう。

 何故こんなところに衛兵がいるんだというところまで考えて、わたしは頭上を仰ぎ見る。答えはすぐそこにあった。

「……女神像」

 視線の先に佇むのは、慈愛の微笑みをたたえる女性の石像。わたしがたどり着いたここは、スカイロフトを見守る巨大な女神像が立つ島だった。

 スカイロフトの創造神を模したとされるあの像は、騎士学校や住宅街のある本島と隣接する小島に建っている。
 本島と小島は一部が地繋ぎになっていて、どうやら夢中で歩いているうちにたどり着いてしまったらしい。

 あの衛兵たちは女神像の周辺で不正を働く輩がいないか見回りをする当番だという訳だ。
 小道から外れ、木陰で話に没頭しだしたところを見る限り、その役目を果たす気はさらさらなさそうだけれど。

 仮に彼らに見つかったとしても、女神像に何かいたずらをしているわけではないのでお咎めはないだろう。……が、面倒なことにはなる。
 わたしは束の間の休憩もかねて、草陰で息を潜めながら、おサボり中の衛兵たちの話に耳を傾けた。

「……ほら、夜になるとたまに魔物が出てくるだろう」
「ああ、最近報告が増えてるやつな」
「あれ、そろそろ危なそうだから騎士学校の上級生をバイトで雇って夜の見回りを強化するらしいぞ。当然俺らの当番も増えるって話だ」
「うわ、面倒だなそれ……」

 “魔物”という言葉に、わたしの肩がぴくりと反応する。

 たしかに、最近夜になると島内で魔物の姿を見かけることが多くなってきた。
 正確に言うなら、もともと人が寄り付かない島の裏側などに居ついていた魔物たちが、表に出てくるようになったのだ。
 あの衛兵たちの話も、近いうちに実行されるのだろう。

 しかし魔物といっても、実際は獰猛性を感じない小さな生き物ばかりだ。そのあたりで見かける小動物や、それこそロフトバードと何ら変わらないはず。
 ──そう思うのは、わたしだけなのかもしれないけれど。

「あんまり上長に目ぇつけられないようにしねーとなぁ。また睡眠時間が削られかねない」
「んなことしなくてもスカイロフトは平和なのにな」
「だよなぁ……。つか、魔物みっけたとしてそのあとはどうしろって言うんだろうな」
「そのあとは……」

 ──そのあとは。
 彼の言葉の先を想像し、わたしの背筋にツウと冷たい汗が流れたのを感じた。
 嫌な胸騒ぎがして、心拍数が上がっていく。呼吸が乱れていく。

 衛兵が魔物を見つけた後なんて。
 魔物を“駆除”した後、なんて──。

『──リシャナ』

「ッ!!」

 震える体を自ら掻き抱いた、その瞬間。
 あの声が、わたしの名を呼んだ。
 今度は目の前で呼ばれたかのように、はっきりと。

 同時に、新鮮な酸素を得たかのように、乱れた呼吸と動悸が落ちついていく。
 ……また、あの声に不思議な安心感を抱いてしまったらしい。

 だが、声の主の気配はそれを最後にパタリと消え失せてしまった。

「……う、」

 すると今度は、頭に重りをのせたような倦怠感が襲い掛かり、わたしは手の甲で額を抑えつけた。
 おそらく、女神像に近寄りすぎたせいだ。
 あれはスカイロフトの人々にとって神聖なものらしいけれど、わたしはあの場所の空気に耐え切れず、近づくとどうしても気分が悪くなってしまう。

 気づけば二人の衛兵の後ろ姿も遠く彼方へと離れていた。

「…………、」

 そろそろ授業が終わる時間だ。せんせいにバレないうちに帰らないといけないし、何よりこのままここにいるのは体に良くない。

 わたしは踵を返し、逃げ出すように女神像を後にする。
 高い塀を越えたその先、天に最も近い場所で微笑みを浮かべる女神像には一瞥もくれなかった。


 * * *


 騎士学校へ帰るには先ほど通った家々が並ぶ大通りではなく、学校に隣接する剣道場から伸びる桟橋へ迂回した方が早い。鳥乗りの授業の間はそっちに生徒もいないため、都合がいいだろう。
 わたしは倦怠感がのし掛かる体を懸命に動かし、小走りで騎士学校への帰路をたどる。

 このまま行けばぎりぎりクラスメイトが帰ってくる前には教室へ戻れるはずだ。というより、せんせいが帰ってくるまでなら実質セーフのため、まだ時間には余裕がある。

 やがて視線の先に剣道場の屋根が見えてきて、内心で胸を撫で下ろした──その瞬間だった。

「……?」

 わたしの真上を大きな何かが飛び去って、弛緩しかけた体が一気に硬直した。

 ──今さらながら、わたしは重大な過ちを犯してしまっていたことに気づく。

 家々が立ち並ぶ大通りと違って、こちらの道はとても見晴らしが良い。
 つまりそれは、“空から見つかりやすい”ことを意味する、と。

「あ……、」

 翼の羽音が唸り声のように轟き、わたしの口から情けない声がこぼれる。
 頭上で大きな円を描いて旋回し、高い位置から獲物を見下ろす影。
 体の震えを庇いながら、わたしはゆっくりと顔を上げる。

「ロフト、バード……」

 喉から絞り出た掠れ声が、その影の正体を呟く。
 教室から眺めていた時は自由を楽しむために広げられていた翼。それが今、羽音だけで獲物を威嚇するかのごとく扇がれている。

 甲高く鋭い鳴き声が響き渡り、獰猛な目の中には怯えるわたしが映った。そこから逃げようとしても、周辺に隠れる場所はない。

 ロフトバードは翼を大きくはためかせ、首をもたげて巨大な体躯を捻る。次いで勢いをつけるために、翼を左右へ目一杯広げた。

「……ぁ、」

 ……来る。
 クチバシが、翼が、獰猛な瞳が。わたしを狩るために。
 その四本の爪は、罪人を捕らえる刺又のように。

「い、や……」

 わたしの数倍大きな体躯が、迫る。
 眼下で立ちすくむ獲物を引き裂くために。

 そして、わたしの震える手は無意識にも腰のソレに手を伸ばしていて、

「──来ないでッ!!」

 広大な空に響き渡ったのは、耳を劈く発砲音だった。

「────、」

 気づけばわたしは一人地面にへたり込み、ロフトバードは慌てたように何度も翼をはためかせながら、遠い空の向こうへ逃げていた。

 わたしの手の中にある一丁の銃からは白い薄煙が昇り、風にのって揺らめいていて、

 わたしはその場から一歩も動けなかった。


 * * *


 わたしが教室へ帰り着いたのは、とうに授業が終わり休憩時間に差し掛かっていた頃だった。
 重い足取りで教室の扉を開くと、クラスメイトはみんな昼食に出払っていて、残るのはせんせい一人きりだ。思った通り、わたしの帰りを律儀に待っていてくれたようだ。

 せんせいはわたしが側に寄ると、何も言わずに読んでいた本を閉じて顔を上げる。
 怒られるのを覚悟して、視線が上がらないままわたしはせんせいの前に立った。

 少し間をおいて、せんせいが口を開く。

「……ロフトバードに、襲われたのか?」
「……!」

 彼の言葉にわたしは思わず目を見開いた。
 何故わかったのだろう。ロフトバードに傷をつけられる前に追い払ったから、見た目からじゃ何もわからないはずなのに。

 その戸惑いが伝わったらしく、わたしの表情を見遣ったせんせいが小さく息を吐く。

「鳥除けの銃、撃っただろう。今日は風が出ているから、学校まで聞こえたんだ」

 ……そういうことか。
 先ほどロフトバードに向けて撃った『鳥除けの銃』は、せんせいがわたしに持たせてくれた護身用の空砲だ。
 わたしが羽織るケープもロフトバードに見つからないよう身を隠すためのものだったけれど、それでも今日のように見つかってしまった時の最終手段がこれだった。

 守護鳥と言っても、基本的には動物と同じだ。目の前で突然大きな音がすれば、ロフトバードも危険を察知して逃げていく。
 せんせいの言う通り、この銃は音が大きく鳴るように作られているため風向きによっては少し離れた学校にまで聞こえていてもおかしくはない。

 せんせいは念のためわたしの全身を一瞥し、安心したように顎を引いた。

「怪我、無いな」
「……うん」
「なら良い。昼食は食べに来るだろう?」
「…………、」

 そう言って立ち上がろうとした彼に、わたしは再び目を見張った。
 勝手に教室を抜け出したこと、一人で危ない目にあったこと、もしかしたらせんせいに迷惑をかけていたかもしれなかったこと。全部、怒られると思っていたのに。

「……怒らないの?」
「怒る理由がない時は私も怒らないよ」

 せんせいが苦笑しそれだけを返す。その一言を聞き、全身から力が抜けてしまった。
 わたしは小さく口元を緩めて、言い返す。

「……その理由がもうちょっと減ってくれたら嬉しいんだけど」
「それはお前の態度次第だな」
「わたし、比較的真面目に頑張ってると思うけどなー。鳥乗りの授業以外は」
「あと朝と晴れの日以外だな」

 そうしてわたしとせんせいは少し遅めの昼食に向かう。
 せんせいと一緒に食べた自家製野菜の盛り合わせはすごく苦かったけど、文句を言いながらも残さずに食べた。


 結局声の主の行方は、今日もわからないままだった。


袖搦と銃
曇りの日。鳥がまたわたしを襲った日。