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長編3-11_はぐれもののディソナンス



 ──灰色の雲に閉ざされた空が、最期に見た光景だった。
 
 深く、暗い深淵で。長い、長い時間。
 答えの出ない問いを、繰り返し続けていた。

 共に葬られた同族も、それ以後に呪いそのものとなった魂も、誰も誰もこの穴から抜け出すことは出来ず──数千年。
 大地における女神の封印がついに綻び、魔族にとっての戦いの瞬間が再び訪れようとしていた。

 亡霊と化した魔の魂はここで嘆くことしか許されない。
 あの日折れた牙も、爪も、命も。
 全て全て失った出来損ないの獣には何も。

 もう何も、出来ないはずだった。

 ──しかし、

『──私たち魔族は、ものすごーく諦めが悪いんですよ』

「────」

 その深淵に、魔物らしからぬ少女の声音が届いた。

 本当に同族なのか疑ってしまう、あまりにも人間じみた声色で、言葉で。彼女は魔族としての在り方を高らかに宣言した。

 同時に、その命の灯火が消される間際に立たされていることを理解した。
 同族だとしても、人間の少女の命など見捨てておけば良いはずだったのに。

 それでも、

「──まだだ」

 こぼれ落ちたその声音は、少女を我々の魂の在処へと導いたのだった。


 *


 ──激情の匂いが、身を焼き尽くしていく。

「フンッ──!」

 肺に留まる呼吸をわずかに逃し、漆黒の刃で砂風を真っ二つに斬り裂く。
 刀身が居着く前にすかさず次の剣撃へと転じ、攻め込んだ間合いを保ったまま次なる攻勢へと流れ込む。

 今ここで、目先の獲物の命を刈り取る。意識はそれだけに塗り固められているはずだ。
 ──そのはずなのに。澱んだ感情の渦が、纏わりつく焦燥が、ギラヒムの理性を揺さぶり続けていた。

「煩わしいッ!!」
「!」

 それらをかなぐり捨てるように刀身を叩き付け、甲高い金属音を鳴らし、また剣を振るう。
 続く刃の交錯。衝突。躱しては捌き、魔剣の剣撃が相手の頬を掠めては血の滴が散る。切断された金色の髪が砂塵と共に舞う。

 剣を振るたび確実に『勇者』の体には裂傷が刻まれ、血が流れ、命がこぼれ落ちているはずだった。しかし、

「──ハッ!!」
「!?」

 先手を取って追い込んでいたギラヒムの剣が弾かれた瞬間。目と鼻の先に、空色の眼眸が迫った。
 呆気に取られ、数瞬静止する思考。だが、あの得体の知れない匂いが意識を無理矢理引き戻し、胸が貫かれる寸前に鋭く光る剣先を受け止める。

「チッ……!」

 舌を弾き、一度飛び退いて自分の頭を支配するその匂いの正体を探る。

 ──森と火山。これまで何度かかつての『勇者』と重なる片鱗を見せた空の少年。
 それはあくまでも瞬間的なものであり、彼の無意識下の本能がその体を動かしていたに過ぎなかった。

 けれど、今は違う。彼は彼自身の意志で剣を振るい、魔族長と互角に渡り合っている。以前までの、人間の少年らしい虚勢や恐怖を捨て去って。

「……フ」

 そこまで分析したギラヒムはふっと息をつき、皮肉げな笑みを浮かべた。

「火山ではゆっくりと話をすることが出来なかったけれど、驚いたよ。純粋無垢な少年であったはずの君が、まさか“殺意”を覚えてくるなんて」
「…………、」
「一体、女神はあと何度、非情で残酷な罪を重ねるんだろうねぇ? ……こんなに幼気な少年を、まるで“化け物”のような成長速度で血も涙もない『勇者』に変えてしまうのだから……ね?」

 わざとらしく強調された“化け物”という言葉に、リンクの頬が微かな強張りを見せた。
 ギラヒムの低く舐るような声音はそうして少年の心を揺さぶるためのものだ。
 だが一方で、その言葉にはわずかな同情の意も含まれていた。

 森と火山では幼子のように手も足も出せなかったはずの少年が、ここに来て対等に渡り合っている。既に多くの魔物たちと戦い、肩に巻かれた包帯からは大量の血が滲んでいるというのに、その戦意はこれまでと比べ物にならないほど色濃いものだ。

『勇者』という肩書きを持っていたとしても、彼にとっての剣技は空の人間が会得する知識と経験の範疇からそう逸脱してはいないはずだ。
 それでも、彼は意識の力で魔族を圧倒し、渡り合っている。

 ──本当にそれは、彼が『勇者』であるが故なのだろうか。
 いくら揺さぶりをかけても光を失おうとしない空色は、ギラヒムの中に微かな懸念を抱かせていた。

「まあ……どちらでも良い。ワタシはやっと、君と本当の“殺し合い”が出来るのだからね」
「……!」
「嬉しくて嬉しくて堪らないよ。一方的に蹂躙して痛め付けるのも悪くはないけれど……足掻く獲物をねじ伏せて、いたぶって、屈辱に表情を歪める瞬間は、やはり心から興奮してしまう」

 その声音を遮るようにリンクが一際大きく剣を振るうが、白銀の刀身に込められた憤怒はけたたましい金属音と共に虚しく散っていく。
 そうして表情を歪める少年の様子を見遣り、ギラヒムは舌なめずりをした。

 無抵抗な弱者をいたぶるよりも、こうして必死に抗おうとする愚者の心をへし折り、生殺与奪の権を握ってやる方が興奮する。
 鍔迫り合った刀身越しに視線が絡み、ギラヒムは同意を求めるように目を細めた。

「君もそうではないのかな?」
「そんなわけ、ないだろうッ……!!」

 否定の一閃が放たれるが、残ったのは虚空を斬り裂く風切音のみ。
 ギラヒムはリンクが顔を上げる前に間合いを詰め切り、魔剣の刀身が空色の網膜に映りこんだ。

「自分でもわかっているのだろう? “殺意”を持ったから、迷わず魔物たちを殺してここまで来られた。そしてこうも思っている。……自分が今していることは“正義”なのだから、仕方がないのだと」
「──、ッあぐ!」

 舞い遊ぶ魔剣の黒閃がリンクの傷口を狙って刻まれていく。
 ただし致命傷は与えられない。これは傷つけ、弱らせ、心身を奈落に陥れることを目的とした、陵辱だ。

「ああ、そうだとも! 君は何も間違ったことをしていない! それでこそ『勇者』だ! 数千年前と同じだよ!!」
「が、ァッ──!!」

 高く叫び、一際重い魔剣の一太刀が体勢を突き穿ち、続いて放たれた追撃がリンクの体を貫く。

「その目も、その表情も。血を引いていないというのに全て全て、同じだ」

 砂地に叩きつけられたその身をギラヒムが追うことはない。ただ、氷の気迫を宿した目が今すぐにでもその首を刎ねてしまいたいと告げていて、

「──実に腹立たしい、なぶり殺して魔物の餌にしてしまいたい存在だよ」

 数秒前までの狂喜の表情から一変し、激しい衝動を抑えた眼光がリンクを射抜く。
 狂気的で目まぐるしい気性。そしてそれ以上に、視線だけで全身を炙られるような深い深い憎悪の炎。
 生まれて初めて向けられた激しい赫怒の感情に、リンクは圧倒される。彼はそのまま、手の中の剣を下ろしかけて──、

「……本当は、こんな感情なんて持ちたくなかったさ」

 束の間の逡巡を一度呑み込み、少年はふらりと立ち上がった。
 ギラヒムはぴくりと眉根を寄せ、警戒するようにその姿をじっと見つめる。

「まだ、わからないことだらけなんだ。『勇者』の使命が何なのか、ゼルダが今何をしようとしているのか。……それを全て知った時、自分のしていることが正しいと言い切れるかどうかも、本当はわからない」
「…………」

 こんなところまで来て、この少年は何を言い出すのか。ギラヒムの目に呆れの色が浮かぶ。
 だがその言葉を取り繕いはせず、リンクは短く息を継ぐ。

「……それでも、一つだけわかることがある」

 空色の視線は対峙する魔族長の元からわずかに逸れ、その背後へと注がれる。

 ──そこあるのは淡い青色の光が灯った巨大な歯車と、金色のハープを携え祈りを捧げ続ける幼馴染の姿だ。

「やっと間に合った。ようやく手が届く場所にまでたどり着けたんだ。それだけで、戦う理由は充分だ」

 ずっと待ち望んでいた幼馴染との再会。
 本当ならば手放しに彼女の無事を喜び、すぐにでも安全な場所へ連れて行きたかった。

 けれどその幼馴染は今、『勇者』を信じて自分の使命を果たすことに集中している。
 白銀の剣に宿る精霊がリンクに教え示したように、彼女もまたこの大地で見つけた自分のすべき事と向き合っている。

 そして彼女を庇うように立ち、固唾を飲んで勇者と魔族長の剣戟を見守る戦士──インパも同じだ。
 腹部から滴り落ちる血が地面を濡らし、見るからに痛々しい姿をしているというのに、その目にはリンクと同質の強い光が宿っている。
 主の助けになりたいと、心から願っている。

「お前の言う通り、この気持ちを“殺意”と言うんだとしても、この先起きることが運命で決まっていたとしても。……ゼルダの助けになれるまで、絶対に諦めたくないんだ」

『──大切なものを、運命だからって言葉で諦めたくない』

 静かに告げる『勇者』の声音に乗せて、一人の少女の宣言が蘇る。
 同時に、ギラヒムは気づいてしまう。先ほどから心の奥底で燻り、焦燥を生み続けていたものの正体が、その言葉だったということに。

 その上で、この少年も同じことを告げた。
 あまりにも浅はかで馬鹿馬鹿しい。優れた剣を手にしただけで、たった数年生きた程度の人間風情がこの運命を覆せるわけがないのに。

 苛立ちが募り、黒い感情が首をもたげ、そんな言葉を吐いたことを今すぐにでも後悔させてやりたいという衝動がずるりと背筋を撫で上げていく。

 けれど──、

「必ず、お前を倒す」
「────」

 決然とした意志をたたえ、魔を捉える空色が白銀の剣を構えた。
 突き抜ける蒼穹を閉じ込めた瞳。それはどこまでも澄み渡り、一切の迷いを切り捨てていて、

『──願いを継ぐために、お前をここで討つ』

 数千年前にあの方と繋がっていた糸を断ち切った、“希望”と同じ色をしていて。


「……ああ」

 力が抜けたように吐息がこぼれ、ギラヒムはゆっくりと瞼を閉じるまま天を仰ぐ。

 今も昔も、変わらぬ曇天。
 まるでこの光景がこの世界にとっての調和の象徴なのだと誇示するかのように、何も変わってくれはしない。そして、

「……君も、あの時から何も変わっていないんだね」
「…………、」
「惜しいね。やはり、もっと時間をかけていたぶって、たっぷりと苦しみを与えて、もっともっと絶望する顔を見てあげたかったよ。……あの時の分まで」

 虚ろな表情で言葉を紡ぐギラヒムの意図を、リンクが理解することは出来ない。
 抑えきれない激情の波に煽られるように、その声音は微かに震えていた。

「だが、それは諦めることにするよ。……君をこのまま生かしてはおけない」

 もう一度その感情を押さえつけるように深く呼吸し、ギラヒムは緩やかに片手を持ち上げる。
 天に掲げられた指は、快活な音を鳴らして、

「『この先起きることが運命で決まっていたとしても諦めたくない』──そう言ったね。それはこちらも同じだよ。……この願いを、絶たせてやるものか」
「!!」

 出現したのはリンクの四方を囲む、夥しい数の短刀と長剣。じわじわと獲物をいたぶるためでなく、確実に息の根を断つための無限の刃。
 言葉の通り、これでとどめを刺すつもりなのだとリンクは悟る。

 最後にギラヒムは、無感情な双眸で彼を見つめて、

「我が悲願のための生贄になれ、『勇者』」

 その指が指揮をするように一度振られた瞬間。
 ──数千の切っ先が、リンクを目掛けて一斉に降り注いだ。

 四方八方から体を串刺しにする刃の豪雨。避けることは愚か、防ぐことも不可能。痛みにのたうち回ることすら許さないほどの刃の嵐がリンクへと襲いかかる。

 そうして次にギラヒムが目にする彼は、人間としての原型を留めていない肉塊と成り果てたもので──、

「────ッ!!!」

 刹那、閃光が螺旋を描いた。

 リンクの体を貫くはずだった刃の群れは、鮮やかに円を描いた白銀の一閃とそれが起こした剣風により、全て打ち払われる。
 刃が襲いかかった瞬間、ぐるりと身を一回転させたリンクの剣撃が短刀の豪雨を弾き返したのだ。

 驚愕に満ちたギラヒムが目にした空色の瞳は、恐怖に歪むどころか一欠片も光を失っていない。さらに、

「ハァ──ッ!!」
「ッ!!?」

 次の瞬間。思考を奪われていたギラヒムの眼前へ、一直線にリンクが飛び込んだ。
 間一髪召喚された魔剣が白銀の一太刀を受け止めたが、大きく体勢が崩れたギラヒムをリンクの剣撃が一気に畳み掛けていく。

「ッ……お前、何故……!!」
「……自分でも驚いてるよ。こんな体だけど、普段より頭が冴えてる。剣が軽く感じるんだ……!」

 縦横無尽に剣を振るい、斬り払い、反撃を捌き切りながら、落ち着き払ったリンクの声音がギラヒムへ答えを告げる。
 本能とは少し違う。まるでもう一人の自分が背後に佇んでいるかのようにどう動くべきかを指示し、ギラヒムの魔剣を圧倒していく。

 ……きっともう、何も知らなかった頃の少年ではいられない。待ち受ける未知と、大地に蔓延る魔の一族に恐れを抱くことが許されるただの人間ではいられない。
 その道の先に幸せがあるのか否か、誰にも判断のしようがない。
 けれど、答えはさっき、耳にしたじゃないか。

 ──魔族に対する“殺意”なら、抱いてしかるべきなのだと。

「大切なものを守れるなら『勇者』だろうが化け物だろうが、何にだってなってやる!!」

 白銀の剣が魔剣の攻勢を迷いごと断ち切り、その勢いを殺さぬままギラヒムの間合いへ滑り込む。
 同時に一筋走った鮮やかな一閃が、ギラヒムの胸部を斬り裂いた。

「ッく──!」

 血液の代わりに散るのは彼の命そのものである黒い欠片。
 傷は深くない。しかし、ギラヒムにとっては初めてまともに受けた一撃。魔の存在を打ち払う女神の剣が、初めて届いた瞬間だった。

「人間、ごときが──ッ!」

 怒りが全身を焼き尽くし、傷口を庇いながらも怨嗟の声音で唸り声を上げる。だが白銀の剣勢が緩むことはなく、空色の瞳は輝きを増して魔族を圧倒していく。そして、

「──ッ、」

 魔剣の太刀筋を完全に見切った瞬間、リンクは体を翻して剣撃を受け流すと同時に、ギラヒムの背を捉えた。
 時間にしてみればたったの一瞬。この刹那の時の中で、ギラヒムがリンクの剣を避ける手立ては何もない。

 背中を貫こうとする白銀の剣を塞ぐ術は、何も。

「────」

 ──運命を理由に、大切な人を諦めたくない。
 何も知らない愚か者は、本当の地獄を目にしたことがないからそんな“希望”を吐き出せるのだ。

 過去に何度、そう叫んだことか。
 今もそう叫べたなら、どんなに良かったことか。
 そもそも何をどう喚いたって、誰の耳にも届きはしなかったのに。 

 だから、誰かが描いた道筋を描き変えられるその時まで。一人足掻き続けるしか道は残されていなかった。

 今だって同じだ。
 抗うための方法はもう、残されて、いないから──、


「──約束通りですよ、マスター」


 一つの声音が戦場に落ち、魔族長を貫くはずの白銀の剣が何者かの剣撃に弾かれた。
 体勢が崩れ、押し開かれたリンクの目に映り込んだのは、額に掲げられた銀色の銃身。

 反射的に身を屈めて盾を構えた瞬間、耳を劈く発砲音が響き渡る。弾丸が引き裂いたのは額の皮一枚のみ。しかしその圧力に耐えきれず、リンクの体は砂地へと吹き飛ばされる。

「────」

 先に地上へ降り立っていたギラヒムの背に、次いで着地したその人物が軽く体を預ける。
 背中に乗る柔らかな感触とほのかな体温。嗅ぎ慣れた血の匂いから、その体も傷だらけなのだとわかる。

「ご褒美、期待してもいいですか?」

 そんな体をしていても再会の喜びを隠せていない単純そのものの声音が、今はとても心地よく感じて。けれどやはり、生意気で。

「……この後の働き次第に、決まっているだろう」
「既にとんでもなく働いたのに……」
「……フン。この期に及んで文句とは、少し足止めしてみせただけで随分偉くなったものだね」

 “調和”という名の変わらぬ光景を掻き乱す、異質な不協和音。『勇者』との対峙の瞬間にも普段と変わらぬ考えナシでいる能天気。
 彼女がそんな存在だったとしても、その名前を口に出さずにはいられない。

「──リシャナ」

 背中合わせに立つ部下は、満足げに笑ってみせた。