*一応真影編の視力が奪われた状態の時のお話ですが、未読でも全く問題ないです。 ──子供の頃に見た、舞台のようだ。
こんな呪いを受けておきながらなんとも呑気な感想を持ったものだと、自戒の気持ちはある。しかしあえて例えるならば、それが適切だと思った。
当然、その時の記憶は呪いとは無縁な、平和に浸り切った日常の一コマに過ぎない。たしかそれは、騎士学校の授業の一環で見た神話が舞台のお芝居だった。
かいつまんで思い出せる範囲でもなんとも稚拙な舞台だったと思う。手作りの人形を使った棒読みの台詞と演技。女神様の慈愛に満ちた優しさに人々が救われるというありふれたお話。
どこまでも平穏で、平凡で、お日様のような暖かさに満ちた時間。
けれど場面転換の瞬間。私たちがいた空間から、火の魔石の明かりと外から漏れる光がフッと奪われた。
閉ざされた暗闇の中は、自分が何番目の指を動かしているのか、目を開いているのか閉じているのか、何もかもが曖昧になるほどの黒一色に塗りつぶされていた。
怖い、とまでは至らずとも、急に闇夜の中へ放り出されたような不安感が全身を包んだ。
その時にギュッと握った服の裾の無機質な感触は、今でもよく覚えている。
──と、そこまで思い、「はて、」と思う。
闇を好む魔族でありながら、いざその世界に放り出されて思い出す記憶がそんな物悲しいものだなんて。
やはり、私が『半端者』だからなのだろうか。それとも、
「────」
私が本当は、暗闇さえも恐れているからなのだろうか。
「──それにしても、」
「────、」
耳に届いた低い声音に、目先の暗闇が震えた。
私がそうして考え込んでいたことに彼が気づいているか否かはわからない。どちらにせよ、続く声音には呆れが滲み出ていて、
「やはりお前には呪いに愛される才能があったようだね。よかったじゃないか。非凡な身に才能と呼べる特技が出来て」
「全く嬉しくないです……」
そんな嘲りの言葉すらも、今だけは安心材料となってしまうのだから皮肉な話だと思う。
──視力を奪う呪い。
主人、ギラヒム様の部下となってからの数年間。大地という危険に満ちた環境で様々な魔術を見てきたし、死の淵に立たされたことだって何度もある。
けれど、こうして感覚器に呪いを植え付けられるのは初めての経験だった。
無論、ここにくるまでに様々な方法を試し、回復を試みた。が、回復兵にも呪いを扱う種族にも解呪方法はわからずじまい。
結局、呪いをかけた張本人に会いに行くしかないという結論に落ち着き、今に至る。
本心ではすぐにでも呪いの主の元へ視力を取り返しにいきたかった。
しかし夜の森はただでさえ危険に満ちている。視力がない状態で入るのは自殺行為でしかない。
いずれにせよ、今夜はこの状態で一晩を明かすしかない。だから多少は腹を括っていたつもりだったのだけれど──、
「…………、」
「……何」
「あ、いえ……何でもないです」
予想に反してギラヒム様は私のことを放ってはおかず、こうして自室に連れ込み側にいてくれている。
ちなみに連れてこられたのが主人の部屋だとわかったのは、目が見えないというのに容赦無く放り出されたベッドが自室のものよりも広く柔らかくて……あと、主人の匂いが残っていたからだ。
これが彼の優しさなのか気まぐれなのか、それ以外の意図があるのかはわからない。
どちらにせよ、主人がすぐそばにいてくれるから私は平静を保てている。きっと彼がいなくなってしまったなら、一人暗闇の恐怖に駆られてしまうことだろう。
……主人の足を引っ張っている身で、甘えられる立場じゃないはずなのに。
「……?」
と、ここでようやく、私は思考の海から一度顔を上げた。
私が煩悶に囚われている間、主人が口を挟む気配も動く気配もなかったからだ。
「マスター……?」
途端、不安はさざなみのように襲いかかってきた。気づかないうちに私は一人になってしまっていたのか。
先ほどまで聞こえていた衣擦れの音も、主人の呼吸音も、鼓膜を揺らさない。掴んでいた現実世界と繋がる糸が、するりと手から抜けてしまったような感覚だ。
たったそれだけのことでおろおろと狼狽する私。
見えないとわかっているのにきょろきょろと首を振る部下を見遣り──「フン」という鼻息の音が落ちて、
「幼子のようだね。目が見えないというだけで」
「ぁ……」
「たった数秒の沈黙ですら恐怖を感じてしまうだなんて。視力を奪われると、精神まで子どもに戻ってしまうのかな?」
その声音を耳にして、怒りの気持ちがほんの少し。あとは皮肉にも、安堵の感情が胸を満たしていくのがわかった。主人にとってはちょっとした悪戯、もしくは好奇心だったのだろう。
けれど拗ねる気持ちも起きず、私は肩を落として嘆息を宙に放って、
「……呆れました?」
「今さらだろう」
「うー……」
ぴしゃりと言い切られ、あとは降参の唸り声をあげるしかない。主人の心からの呆れ顔を見ずに済んだのは不幸中の幸いというべきか。
すると、キシリと木材が鳴く音が耳に届き、私は視線を上げた。
同時に鼻孔を掠める甘い匂い。それが私を安心させる主人のものだと気づいた時には柔らかな何かが私の頬を撫でて、
「心配せずともちゃあんと同情しているよ? 本当に情けなくて、幼くて、可哀想だと、ね?」
細い指先が頬を撫でて、低い声音がクスリと笑う。
ああ、今のはわかった。主人は今、とてもとても意地悪で楽しそうな顔をしているに違いない。
私が喉を震わせられずにいると、さらに彼の気配が近づくのがわかった。
次いでするりと片手を掬われ、彼の指に絡めとられる。同時にもう片方の手で後頭部を引き寄せられ、触れずとも体温を感じる距離にまで誘い込まれて、
「……これで、子どものように視野の狭くなったお前でも、ワタシを見つけられるだろう?」
「……!」
手のひらを合わせ、指を絡めあい、ぐっと体を引きつける。
そして真っ暗な視界は──、
「まだ、見えない?」
「いや……」
視える。
吐息が唇を撫でる感覚が、輪郭をなぞる指先が、たった一度の瞬きすらも。
ほのかな灯火すらも存在しない黒の中で、その暗闇ごと支配する存在が、たしかに輪郭を縁取って。
「……マスターだけ、視えます」
ギラヒム様はその答えに「フッ」と満足そうに微笑み、私の頭を柔らかく撫でた。
いつもより感覚が鋭くなっているからか、その撫で方はまるで小さな子をあやすような意図的な優しさを感じる。
「……あの、なんだか私、子ども扱いされてます?」
「何も間違っていないだろう。今にも泣きそうな顔でご主人様に縋り付いてきたのだから」
「そこまではしてないです……!」
「フン、虚勢を張る余裕が出てきたようだね? しかし今日は弱々しいままのお前でいてくれていいんだよ? ……ほら」
「んむ!?」
反論をする前に、顎に添えた手でむにゅりと頬を挟まれる。
絶対に間抜けな顔をしている私にくつくつと含み笑いをこぼし──そのままギラヒム様は、私の唇に自身の唇を押し付けた。
それはまるで、自分はここにいると無理矢理わからせるための証明をするようなキスだった。
その証拠に、触れた唇の感触と吐息の温度が、彼の唇の形と距離を教え込ませてくる。一度きりで終わらず、二度、三度、同じように。わかれ、理解しろと、何度も何度も。
しかし乱暴な証明はふと途絶える。頬に手を添えられたまま、彼の唇だけが離れたのがわかった。
おそるおそる瞼を持ち上げる私に、彼は「さあ、リシャナ」と声音の振動を唇に落として、
「ワタシはどこに、いると思う?」
「────」
そこにいるけど、当然そういうことじゃない。
私は今、暗闇に誰を映しているのか。その熱が欲しいのならお前も唇で答えろと、そう言っているのだ。
私は小さく喉を鳴らし、そして熱をたどり、ゆっくりと彼の唇を食む。薄い唇を自分の唇で挟み、軽く吸う。
応えるように今度はギラヒム様が深く私の唇に噛みついてくる。
あとは角度を変えて、後頭部を抑えながら何度も何度も唇を貪られる。互いを求めて求められて、ちゅっ、ちゅと吸い付く音と、時折漏れ出る声音が耳朶をくすぐって。
そうして蕩けた呼吸と呼吸の間、ギラヒム様は唇を少しだけ離して、
「……このまま、視覚以外の感覚器の全てを、ワタシだけに染めてしまってもいいのかもしれないね」
「……!」
少しだけ上擦った吐息で注がれる欲望。熱を持った暗闇を、彼の声音という炎が侵していく。
「ワタシの肌の感触で、ワタシの匂いで、ワタシの味で、ワタシの声で。全部、染めて」
瞼をなぞる指先の感触と、鼻を掠める甘い匂い。
ぺろりと耳のふちを舐めた唇が柔らかく耳朶を食んで、ぬるい吐息と低い声音が鼓膜から脳までを犯す。
思わずギュッと瞑った瞼。暗闇の色は変わらないけれど、その闇の温度は私には熱くて、いっそのこと全てを委ねてしまいたくなって──、
「──なんて。とっくにお前はワタシだけに染まっているというのにね」
「…………、」
小さく吐息し、そう続いた主人の声音。
それは客観的な事実を述べているのに、どこか思わしげな自嘲が見えた気がした。
私がその表情を想像するよりも早く、ギラヒム様は「それにしても」と言葉を継ぐ。
「お前は本当に、可哀想で可愛いね? ……このまま呪いを解かぬまま、ワタシが一生愛でてあげてもいいのかもしれない」
「それは、嫌です……し、困るのマスターですよ……?」
クスクスと笑い、再び触れるだけのキスが落ちてくる。
可哀想で可愛い、なんて喜んでいいのか悪いのかわからないけれど、そんな一生も悪くないと囁く自分の存在は必死に見ないふりをした。
彼はやがて、私の肩を抱いたままベッドにぱたりと倒れ込む。そのまま行為に及ぶかと思ったけれど、頭を撫でる穏やかな手つきは主従を眠りの世界に誘ってくる。
「……マスター」
その誘いに乗る前に、私は短く敬称を呼ぶ。
返事はない。ただ、続きを促す視線を向けられたのがなんとなくわかって、私は繋いだ手をぎゅっと握って、
「この手だけ、このままがいいです」
片手だけの、ほのかな体温。今にも暗闇に溶けてしまいそうな六等星。
それだけでいい。それさえあれば私は、この夜を明かせる。
ギラヒム様は一拍間を置き、やがて軽く鼻を鳴らす。そして、
「……怖がり」
「今日限定です。……だめですか?」
彼は仕方ないと笑い、繋いだ手をもう一度結び直したのだった。
(240328/リクエスト作品)