──瑠璃色の世界。その光景を目に映した私が最初に思ったのがそれだった。
涼やかな風に乗って鼻をくすぐる潮の匂い。薄い陽光を浴びてキラキラと輝く水面。どこから何を運ぼうとしているのか、穏やかな波が寄せては返す。
大空よりも青く、大地よりも果てしない。地平線の彼方まで続く水の絨毯。私にとって、何もかもが生まれて初めての出会い。
あれが、あの光景こそが、
「──海、ですか? マスター」
「そうだよ」
主人の首肯を耳にした私は木製の手摺りに両手を置き、落っこちてしまわない程度に身を乗り出す。
両目を目一杯に押し開いて一望する光景に、私の心は根元から奪われてしまっていた。
ラネール砂海。かつてそこには“海”と呼ばれる無限の水の世界が存在していたことは知っていた。それから数百年をかけて砂漠化し、今や大地を潤す水は一滴も残っていない──そう思われていた。
現地の調査に出ていた魔物から報告が上がったのはひと月前だ。
『ラネール砂海に水が蘇っている』。耳にするだけなら夢物語のような話を、私は主人伝いに聞いた。
一度はいつも通りの私を揶揄う冗談なのかと思った。けれど違う。我が主人、ギラヒム様の端正な顔立ちはその数秒で見惚れてしまうほどに真剣なものだった。
そうして逸る気持ちを抑えながら拠点を出発し、七日七晩の旅路の果て、私は決して夢ではないその光景を目の当たりしていたのだ。
「っわ、」
と、唐突な横揺れによって私は回想から引き戻され、慌てて目の前の手摺りを強く握る。
私とギラヒム様はと言えば、二匹の魔物が牽引する水上用の荷台の上にいた。
フロリア湖の偵察用としてごくまれに使われる屋根無しの荷台だけれど、実際に乗ったのは初めてだ。地上を走る時とは違う、不安定で覚束ない足元の感覚に最初は戸惑ったけれど、今では外の世界に向けた感動がそれを上回っていた。
無論、調子に乗って落ちてしまえば泳げない私は成す術なく沈むことしかできないのだけれど……。
「あ、ちょっとだけ大きな鳥が飛んでますよ、マスター! ロフトバードに全然似てない見た目してます!」
「へぇ」
「興味なさそう……」
「興味がないからね。ワタシの興味をそそるのは、常に我が主とワタシ自身の美貌についてのみ、だよ」
という具合に、はしゃぐ私に対してドライな姿勢を崩さないギラヒム様は、清涼な風に身を委ねながら青の世界に視線を送っていた。風になびく白銀の髪が、海に負けない煌めきを宿している。
もちろんその美貌にも意識を飛ばしつつ、私は一面の青の世界を心から堪能するのだった。
「ん……?」
やがて果てしない青一色の光景を眺め続けて小一時間が経った頃。
進路の先に瞬く一筋の光を見つけ、私は荷台から少しだけ身を乗り出す。
あちらの海上では天候が不安定なのか、白い霧が発生しているようだ。その中でもはっきりと目視できるほどに煌々とした光は、私や主人にとって見覚えのある青色をしていた。
「あれが、報告で上がっていた時空石ですか……?」
「だろうね」
あの光は、ラネール地方で採掘される特殊な力を持った鉱石──時空石が放っているものだ。
ラネールに訪れる時はおなじみになった石。それが光を放ち作動しているということは、あの石の周囲一帯の時が遡っていることを意味する。
しかし目に見える範囲に現代と過去の境界線は見当たらない。それは、私たち主従が既にあの時空石の効果範囲内に入っているからだ。
つまり、
「こんなに広い海を再現しちゃうなんて、あの時空石、もともとは何のために使われていたものなんでしょうか」
「さあね。大方、過去の人間どもが何らかの機械の動力源にでもしていたのだろう。この広範囲を遡らせるまでに至った技術くらいは、褒めてあげてもいいかもね」
──そう。私たちの眼前に広がる海は、あの時空石が再現した過去の光景だった。
あの時空石がいつから作動し、誰が何のために使っているのか、光を見ているだけでは見当もつかない。が、あれだけの効力を発する石は女神の力──つまり女神の封印に紐づかれている可能性が高い。
目先に広がる未知に気を取られてしまいかけたけれど、これも立派なお務めなのだ。
私は浮かれた気分をなんとか抑え、霧が支配する海を真っ直ぐ見据えた。
私たちを乗せた荷台が時空石に近づくにつれ、霧は濃さを増していった。次第にそれは辺りが見えなくなるほどの壁となって私たちの前に立ち塞がる。
徐々に周囲の気温が奪われ、数歩分先の光景ですら霞んで見える。やがて──、
「……マスター、あれ、島でしょうか?」
「…………」
主従の視線の先に、巨大な黒い影が姿を現した。
霧に隠れて全貌はわからないけれど、島と呼べたのは距離のある今の時点でもかなりの大きさであると見て取れたからだ。
傍らの主人からの返答はない。聞いていないというより、主人も霧の向こうのものが何なのか計りかねているらしい。
それにしても、と私は再び影に向けて目を凝らす。
私たちの荷台が波打つ海上を進んでいるから、というのもあるけれど……あの島自体も波に揺られて見えるのは気のせいだろうか。
それ以前に、島と言うには何だか歪な形をしている気がする。中央から天に向かって数本の柱が突き出ていて、太い紐のようなものでその間を繋がれている。
私があの正体について考えを巡らせている間にも荷台は影に近づき──やがて全貌を目の当たりにして、私の目は驚愕に見開かれる。
「……海賊船、か」
「カイゾクセン?」
霧の中から現れたそれは、島ではなく一隻の巨大な船だった。
聞き慣れない単語を鸚鵡返ししながら、私は主人の腕にぎゅっとしがみつく。
船という乗り物の存在は本で読んだ知識程度には知っていた。しかし主人が口にした“カイゾク”とやらに聞き覚えはない。
私はその船の奇妙な迫力に圧されながら、主人に向かって首を捻る。
「マスター、カイゾクって何ですか?」
「海にいる野蛮な単細胞の集まりだよ」
「そう、なんですか……?」
即答で返されたけれど、なんだかすごく偏った知識を与えられた気がする。
一見、船上には人の気配が全く感じられない。船内に隠れている人物がこの船を操ってきたのか、もしくは波に運ばれ自ずとここまで流されてきたのか、それすらもわからない。
わかるのは、船の中央に位置する柱の先端に、眩い光を放つ時空石の結晶が存在しているということだけだ。
こんなに広い海を再現しているのだからどれだけ大きい石なのだろうと思ったけれど、予想に反して石自体はそう大きくはない。整えられた形を見るに、魔力を留めておくための加工が施されているのだろう。
ともあれ、見るからにおどろおどろしく得体の知れない状況だ。
──それなのに、私の全身を流れる血は嫌味なほど明白に、あの中に何があるのかを指し示してくれていて、
「えーと……この中に封印があるってことは……」
「お前にしては察しがいいね? 話が早い。とっとと仕事をしてこい」
「ええ……怖いからいやで、ッぎぁう!!?」
……やはり、女神の封印はこの船の中にあるらしい。
全力で顔をしかめて抵抗を示す私を一笑に付し、ギラヒム様は私の首根っこを捕まえて無理やり船の甲板へと放り投げなさったのであった。
「本当に、扱いが、雑……!」
魔物がこぼすのと同じ苦鳴を上げながらもなんとか甲板上に着地。無人の船に私の悪態が虚しく響き渡る。
船上には誰の気配もなく、纏うのは心なしか寒々しい大気それのみ。
私は無意識にも肌をこすりあわせながら自身の血が導く方向へ目を向け──船内へと続く大扉を発見し、誘われるようにそちらへと向かう。
ギシリと音を立てて扉を押すと、中からは生温い空気が溢れ出てくる。長年開かれていなかったのか、船内はかなりかび臭い。
私は腰にぶら下げていた携帯用のカンテラに魔石で火をつけ、暗闇の船内を戦々恐々としながら進んでいく。
愛する主人のためとは言えど、唐突に何かが飛び出しでもしてきたなら腰を抜かす自信があった。──のだけれど、
「あった……」
自らの血の示す方向に従い、必要以上に怯えながら狭い廊下をひた歩き、意外にもお目当ての封印には何事もなく到着した。
宝玉を抱えた女神像が中央に座す、がらんどうの船室。おそらくここは、先ほど目にした時空石を支える柱の真下なのだろう。あの時空石はこの女神像から力を得て海を顕現していたのだ。
封印と紐づかれた時空石は封印を壊せば魔力供給が途絶えて効力が切れてしまう場合が大半だ。つまりそれは、ここであの海が見納めであることを意味する。
「……ちょっと寂しいけど、仕方ないよね」
もっと長く海を眺めていたかったし、なんなら浅瀬で水遊びでもしてみたかった。が、大切な主人の望みには代えられない。
故に私は独り言ちた後、魔剣を天へと掲げ、そのまま縦一閃に振り下ろす。
切れ味の良い黒刃は石で出来た像を軽々と真っ二つにし、地面に崩れ落ちた女神像からは急速に光が失われた。
時空石の効力もじき切れる。この船が自重で砂海に沈んでしまう前に、脱出をしなければ。
そう思って足早に来た道を遡り、船室を出た──その時だった。
「あれ……?」
甲板に舞い戻った私が見たのは、ここに降り立った時と何も変わらない深い霧と、一面の水の世界。
数秒経っても景色は塗り替えられず、相変わらず船は青い海の上を揺蕩っている。
誘われるように天を仰ぐと柱の上の時空石の光は一切の翳りを見せていない。それはあの時空石が未だどこかから魔力の供給を受けていることを告げていて──、
「──!!」
同時に、複数の気配を感じて私は踵を返す。
霧の向こう。甲板上のそこかしこに影。影。影。
一つ一つの大きさは私の身長の半分くらいだ。しかしどこに隠れていたんだと言うほどの数の影が私を取り囲んでいる。
やがて影はじわりじわりと私ににじり寄り、目にしたその姿に私は両目を押し開いて、
「機械亜人……?」
影の正体は全て、電気信号による意志を持つ土人形──機械亜人だった。
通常はラネール東部にある錬石場などで見かける種族だ。武器を持たない彼らにとって魔族は天敵でしかなく、こうして対峙することは今まで滅多になかった。
「────」
はずなのに、私を取り囲む彼らは片手に長槍を持ち、感情の読み取れない虚ろな目をしたまま立ち尽くしている。
規則的に点滅する目の光だけが唯一の意思を感じられる手がかりなのだろうけれど、赤色に灯るそれが友好的な意志を告げるものだとは思えない。
首に冷たい汗が伝い、腰の魔剣の柄を握る。
一気に道を切り開いて主人の元まで逃げ切るか、もうしばらく様子を見るか。思考を回転させ結論を出そうとした、その時。
「……ゲン、」
一つ、電子音──否、声音がこぼれた。
それを皮切りに、音は続いて、
「ニン……ゲン」
「ゲン、ニンゲン」
「ニンゲン。ニンゲン。ニ、ニニンンゲンニンゲン」
「な、な、何、何……!?」
間をおかずに降り注ぐ、ニンゲン、ニンゲンという言葉の大合唱。抑揚はなく、一定の音程で繰り返される機械音声の暴力に私は思わず両手で耳を塞ぐ。
それでも指の間を縫って侵入してくる音声に頭を揺さぶられていると、ふとそれまでとは違う言葉が耳に入ってきた。
「人間。人間。参照データニ一致」
「参照、でーた……?」
「魔族長ノ配下。船長サマヘオ見セシヨウ」
「へ……」
続く言葉に今度は顔を上げる。
赤く点滅していたはずの機械亜人の目は、今や赤と緑で交互に点滅をしている。
その奇妙な色の移り変わりとなんとなくの語調から、彼らが喜んでいるような気がして私はますます開いた口が塞がらなくなる。
が、機械亜人は「シヨウシヨウ」と楽しげに繰り返しながら無情にも槍の矛先を突きつけてくる。
感情が読み取れないとはいえ、下手な動きを見せたら串刺しにされることは間違いないだろう。
機械亜人相手に人間の身振りがどこまで伝わるのかはわからないけれど、私は両手を上げて降参の意志を示す。
そうしてわらわらと寄ってくる彼らに導かれるまま、私は再び暗闇の船内へと連れ戻されてしまうのであった。
* * *
──ギラヒムがその異変を察したのは、船内に入ったリシャナを待ち続けて数十分経った頃。
あと五分で帰ってこなければ主人を待たせた罰としてなんらかの躾をしてやろうと考えを巡らせていた時のことだった。
最初に理解したのはあの船を覆っていた女神の気配が急激に霧散したということだ。リシャナがあの中の封印を破壊したのだろう。
……だが、やはりあの馬鹿部下は面倒事を引き連れてきてしまう体質らしい。
手間のかかる、と短く嘆息をし、ギラヒムは片手を弾いて召喚された魔剣を手に取った。
「────」
荷台を牽引する魔物が霧に向かって威嚇をしている。
その視線の先にいるのは複数の小型船に乗る小さな影。霧に紛れて全てを目視することは出来ないが、気配だけでも相当数いることは間違いない。
目を細めたままそれらを見遣り、ギラヒムは小さく肩を竦めて、
「さて」
鮮やかな一閃が放たれ、彼の前を阻む霧が両断される。
眼前。そして切り裂かれた霧の壁の先。そこにいたのはその両眼を真っ赤に染めた機械亜人たち。
「一体、誰の許可を得てワタシの所有物に手を出しているんだろうね?」
低く告げる声音。それに続いたのは、漆黒の刃が再び奏でた風切音だった。
* * *
──私が連れ戻された船内には、どこに隠れていたのか、数え切れないほどの機械亜人たちが存在していた。
小さな燭台に照らされる仄暗い廊下。そこを歩きながら私が知ったのは、あの時空石に供給される動力はほとんどこの機械亜人たちが作っていたということだ。
船の下層部に位置する空間には誰が作ったものなのか、何やら大掛かりな機械装置が所狭しと並んでいた。
封印を壊しても時空石の光が衰えなかった点を考えるに、相当な量の動力をあの場所で作り出していたのだろう。
……ただし、彼らの目的については未だ見えないままだ。
私は自身を取り囲む亜人たちに視線を送り、この先で待ち受けている何かに対してごくりと唾を呑み込んだ。
やがてたどり着いたのは先ほどの女神像があった部屋とは真逆に位置する船室だった。
一体の機械亜人が扉を開け、私を中に導く。
先ほどまで見て回った部屋に比べ、やけにこじんまりとした部屋だった。
が、据え置かれた机と床一面には大量の宝石やルピー、金色に輝く装飾品が転がっていた。その他にも豪奢な紋様が刻まれたナイフ、華美な装飾が施された手鏡など、世界中の宝を寄せ集めてばら撒いたかのよう。
……マスターへのお土産として喜んでもらえるかどうかはかなり微妙なところだ。
その宝石たちの奥に視線を遣ると、火の魔石がくべられた暖炉と、それに向けられた大きな椅子が目に留まった。
炎の光が淡く照らすその椅子に、誰かが座っていると私は理解する。と同時に、傍らの機械亜人が機械音声を発した。
「センチョウサマ、船長サマ」
船長──つまり、この船の主だ。
槍の柄で背中を押され、私は少しだけ前に歩み出る。挨拶をしろということなのだろう。
ゆっくりと足を進め、やがて背後に立つ。それでもこちらに向き直ろうとしないその人物の前に、私はおそるおそる回り込む。
この人が、船長?
それだけを思って、その顔を窺おうとした私は──、
「!!」
息を呑み、続く言葉を完全に失った。
そこにあったのは──朽ち果て崩れかけた、機械亜人の亡骸だった。
「……生きて、ない?」
機械亜人たちが船長と呼ぶ者。その機体は、既に“死んで”いたのだ。
一見、それは男性の人骨にも見えたけれど違う。朽ちた骨に見える、作り物の骨格だった。人間を模して作られたのか、頭部には金属で出来た目と鼻と口、おまけに髪や髭までも存在していた。唯一人間と異なるのは、右眼部分にぽっかりとした空洞が空いていることくらいか。
既にボロ切れ同然になった布を纏っていたり、頭に羽のついた帽子を被せられていることから辛うじて船長だとわかるけれど、そう言い切るための生気は欠片も感じられない。
声を詰まらせ身動き出来ずにいる私。その一方で、背後の機械亜人たちは嬉々として“船長サマ”へ報告をする。
「船長サマ。ホーコク。報告」
「魔族長ノ部下。ツカマエタ。報告。報告」
船長が停止してるとわかって話しかけているのか。もしくは生きていると思い込んでいるのか。……一見するだけなら、おそらく後者だ。
それらの報告の嵐に一呼吸すらも返さない船長の胸に、ある文字が刻まれていることに私は気づいた。
『RS-001× ドン・××』
辛うじて解読出来る箇所を拾い読みした程度だが、おそらくそう記されている。
この船長の名前か、階級か。どちらにせよ掠れた字の判読は難しそうだ。
機械亜人たちは黙々と観察を進める私のことをほったらかし、それぞれ思い思いの言葉を並べ立てている。
「人間、使ウ。魔族長、倒セル」
「魔族長、タオセル、タオセル」
「船長サマ。タスカル、タスカル」
「……魔族長を、倒す?」
魔族長──ギラヒム様を倒したら船長サマとやらが助かるとは、どういうことなんだろう。
その因果関係は彼らの会話からは読み取れない。ただどちらにせよ、私は魔族長を誘き出すための人質というやつらしい。
「…………」
そこまで考えて、私は一つため息をこぼす。
「私は人質に向いてないと思うんだけど……」
「魔族長、タオセル、タオセル」
私を捉えたところで常日頃からぞんざいかつ手荒な扱いをなさるギラヒム様が大人しく倒されてくださる可能性はほぼゼロだ。
むしろ彼なら無様に捕まった私を自己責任の一言で切り捨ててもおかしくはない。
なんて説得をしたところで彼らに伝わるはずがないだろう。
はなから人の話を聞かず「魔族長タオセル」「船長サマタスカル」を繰り返し、機械亜人たちはなんだか楽しそうに意気込んでいる。
私はそんな彼らの様子を横目にしばらく逡巡し、傍らの機械亜人に水を向けた。
「ねぇ、機械亜人ちゃん」
返答はない。けれど体ごと視線を向けられ、傾聴の意志を示されていると判断する。
チカチカと点滅する目の光を見つめたまま、私は彼に一つ問いかけた。
「この船長サマは、君たちに何て命令したの?」
機械亜人は三度、目の光を明滅させる。思考の間が必要だったのか、彼は数秒置いた後に短く返した。
「ココニハイルナ。船長サマノ命令」
「……ここに入るな?」
要領を得ない回答に首を捻る。額面通りに捉えるなら、大挙してこの部屋にお邪魔している彼らは船長サマの言いつけを守っていないということになるけどそれはいいのだろうか。
その後いくつか質問の仕方を変えてみたけれど彼らが“魔族長を倒す”理由については何もわからなかった。
彼らは過去のギラヒム様と何かしらの因縁がある一族なのだろうか。私が聞いたことのない、もしくはマスター自身も覚えていない可能性もあるけれど。
やはりそのあたりは当の本人に会って直接確かめる必要があるだろう。
そうなれば、どのタイミングで脱出を図るべきか、なのだけれど──。
「──!!」
その時、どこか遠くで重々しい破壊音が聞こえた。
まさか、と思った瞬間。一体の機械亜人が部屋へ飛び込んできて、目を赤く点滅させながらこう告げた。
「侵入者。侵入者。厳戒態勢、厳戒態勢」
* * *
「……フン、さすがにこの数は鬱陶しいことこの上ないね」
女神の封印から解放された海賊船。その船上に乗り込むことはあまりにも容易かった。
しかしそこでギラヒムを待ち構えていたのは、予想を遥かに上回る数の機械亜人の群れだった。
霧に呑まれた甲板。そこで無数の赤い光点が、血の色に染まった眼眸が、一人の獲物を逃すまいと目まぐるしく明滅を繰り返している。
「魔族長、タオス、タオス」
「タオス、タオス」
ギラヒムは槍やマチェットを手に飛び交う機械亜人の猛攻を最低限の動作で躱し、魔剣の一振りで数体分の体を両断する。同時にその動作の中で短刀を召喚し、背後から放たれた矢を全て撃ち落とす。
目先の機械亜人たちは海賊が故なのか、東に生息している同種族に比べ多少戦闘慣れしているようだ。
しかしギラヒムの興味はそれとは異なる点にあった。
両眼を赤く光らせ同じ言葉を繰り返し続けるこの亜人たちの戦意は、何らかの強い目的意識に支えられているらしい。
それは本来機械の体に埋め込まれた擬似的なものにすぎないというのに、これだけの数の意志が集まれば少々骨が折れる。
乗り込んだ当初は船ごとあれらを叩き潰してやるつもりだった。……が、どうやらリシャナを探し出すことが先決のようだ。
身を翻し、亜人たちが方向転換をする前に横一閃を放つ。武器を掲げたまま真っ二つになった機械亜人を捨て置き、ギラヒムは地を蹴り甲板の奥へと駆け抜ける。
目指すは慣れ親しんだ魔力が感じられる方向。おそらく、そう遠くはない。
が、進行方向に複数の機械亜人たちが立ち塞がり、思わず口内で舌が弾ける。
「……邪魔だ。そこをどけ。屑鉄ども」
駆ける勢いを一切殺さず剣風そのものとなって機械亜人たちを突き穿つ。
そうしてこじ開けた道を進み、四方に視線を巡らせるが部下の姿は見当たらない。
……甲板にいないのなら、船内のどこかか。と目的地を変える判断を下そうとした、瞬間だった。
「──マスター!」
「!」
今まさに探していた部下の声が耳に届き、ギラヒムはその場に足を止める。
リシャナの声は左右前後、どれでもない──真上から降ってきたのだ。
「あの馬鹿部下……」
部下の姿を目にし、心の底からの舌打ちがこぼれる。
この船のメインマストの頂点に座す時空石。他でもないその石自体に、リシャナの体は縄で縛られ拘束されていたのだ。
……やはり早々に連れ帰って、重い仕置きをする必要があるらしい。
それにしても、と一旦思考を切り替える。
どうやら機械亜人たちは、過去から再現された自分たちの心臓が、我が身でなくあの時空石であることを理解しているらしい。
そのためあの時空石にリシャナを括りつけ、無闇な破壊をされることを避けている。電気信号が通るだけの単純な思考回路しか持ち得ないくせに、小賢しさはあるようだ。
さらに、だ。
ギラヒムはそこまで考えた後、機械亜人たちの数度目の猛攻を往なすと同時に、時空石をめがけて複数の短刀を放った。
「チッ……」
しかし時空石のもとまでたどり着く前に、短刀は透き通った壁に弾かれてしまう。
やはり、時空石の周囲には魔力による防御壁が張られているらしい。故に、短刀を使った石の破壊も不可能だ。
……面倒なことこの上ない。
純粋な苛立ちに呪詛を吐き捨てたくなる衝動を堪え、目先の機械亜人たちへ向き直る。
彼らは赤い眼を瞬かせ、「魔族長」と前置き続ける。
「降伏シロ。降伏シロ」
「降伏シナケレバ、人質、死ヌ。落チテ死ヌ」
「……へえ?」
機械亜人たちの言葉に、ギラヒムが眉間の皺を深くする。
たしかに、リシャナの傍らには一体の機械亜人が控えている。ギラヒムが降伏に応じなかった場合、あれがリシャナの身を突き落とすということなのだろう。
……つまり、時空石を覆う防御壁は内側からなら抜けられるらしい。たしかにあの位置から甲板へ落ちたなら、普通の人間は間違いなく即死するだろう。
そこまで分析を終えたギラヒムは、やがて小さく吐息し──口元を歪めた。
「降伏、ねえ……? 魔族長であるこのワタシに向かって、随分な口を利くものじゃないか。過去の残骸でしかない機械風情が」
機械亜人たちの反応はない。敵意を示す赤い光だけが点滅を繰り返すのみだ。
それらの反論を待たず、ギラヒムは「それに、」と続け、
「生憎、ワタシの馬鹿部下はこんなところで犬死にをするようには躾けていないものでね」
魔剣の剣先を機械亜人に突きつけ、降伏という選択肢を捨ててやる。
そして高台から自身を見下ろす部下に向け、彼は深い笑みをたたえた。
「そうだろう? ──リシャナ」
*
「……なんて言ってますよね。きっと」
おそらくは間違っていないであろう耳に届かぬ声音を聞き入れ、私は顎を引いた。
魔剣を下ろす素振りを欠片も見せぬ主人を見て、彼が意図していることを確信する。そもそもその姿を見ずとも、私の主人ならばそうするとわかっていた。
魔族長の戦意を汲み取った傍らの機械亜人は、私と時空石を結ぶ縄を切って淡々と私を落とす準備に入っていた。
そこは機械で出来た思考の持ち主だ。魔族長が降伏に応じないとなれば、人質である私は用済み。後は事務的に人質を捨てる作業に取り掛かるだけだ。
私は再び甲板で乱闘を繰り広げる主人に視線を送り、ついでにこんな扱いをしてくれた機械亜人たちにんべ、と舌を出してやった。
「だから、私を人質になんてしない方が良かったんですよ」
それだけ悪態をついてやって、あとは思考を巡らせる。
腕を縛られているから武器は使えない。隙をついてこの子を蹴落とすくらいなら出来るかもしれないけれど、それが出来たところで何の解決にもならない。
……やるべきは一つだ。
きっと、愛する主人もそれを望んでいる。
覚悟を決め、私はもう一度甲板にいる主人と視線を交わす。
声は届かない。でも、彼が言おうとしていることはわかる。
──だから、
「マスター」
私は愛しき敬称を紡ぎ、そして続ける。
「……信じてます」
一度笑い、そして強く踏み出す。
私は背後の時空石に全力で体当たりをし──そしてそのまま、時空石もろとも空中へと身を投げ出した。
「ッフン。……上等」
私の体は防御壁を抜け、時空石と共に固い甲板に向かって落下していく。
同時に指を鳴らし、ギラヒム様は無数の短刀を私の周囲に召喚した。
機械亜人たちの視線が集まる。機械音声が発する音は何もない。けれど、彼らが目先の光景に驚いていることは容易に理解出来た。
ならば、そうして見惚れたまま、記録していろ。
──私のマスターの、かっこいい瞬間に。
「──!」
私を囲んだ無数の短刀は、主人がもう一度指を鳴らした瞬間音速を超えて撃ち抜かれる。
その短刀たちは私の体にはかすり傷一つつけず──時空石のみを粉々に打ち砕いてみせた。
膨大なエネルギーを集約していた時空石は砕けると同時に真っ白な光を放ち、船を丸ごと包み込む。
私は自分の体がたしかに抱き止められる感触を感じながら、光の中に思考ごとのみこまれていって──、
*
*
*
──その機械亜人が残りわずかな動力を使い導き出したのは、自身の終末が訪れたという一つの結論だった。
今となっては予備動力までも使い果たし、指先の一本を動かすための指示回路すら反応しなくなっていた。
代わりに眼球の役割を持つ感光装置をキシキシと動かし、辺りを見回す。
いつも忙しなく船長の世話を焼こうとする船員たちの姿はただの一つもない。彼はこうなるまでに船員たちの指示回路へと侵入をし、この部屋に立ち入るなという命令を下していた。
それなのに、集音機は無だけを捉えているはずなのに、彼の意識野で繰り返し再生されるのは船員たちの機械音声だった。
『船長、船長サマ』
『島ガ見エマシタ! 船長サマ!』
無機質で、抑揚のない、温度すら感じないはずの声音。
彼らと自分を乗せたこの船がどこに向かっていたのか、何の目的があったのか、結論を導き出そうとしてもその答えにはたどり着けない。
本来意識野に置いておくべき最重要情報が、手から滑り落ちるように呆気なく、消えていくのだ。
『──船長サマ、錨ヲ下ロシマショウ』
『新シイ島! 新シイ島!』
それなのに、そのはずなのに。
単調な機械音声の組み合わせでしかないその声音が。
いつまでもいつまでも、繰り返される。
『船長サマ!』
原因不明。演算不能。思考を繋ぐ回路が異常をきたしているのか。それとも解析不可能な重大欠陥が今になって顕在化してきたのか。
今となっては異常の根本を除去するためのプログラムも、焼き切れてしまった。
『──船長サマ』
それでもこの声だけは、燃やし尽くされる意識野の最後の一欠片にまで残っている。残り続けてくれている。
その結論は彼の終わりを安らかなものへと導くと、演算をせずとも証明された。
「────」
そして、終焉を迎える最後の瞬間。
彼は意識野の奥底にその記録と、その機体自身が発した人工音声を残した。
彼らの航海記に、細やかな終止符を打つように。
「──モウ一度。皆ト、アノ海へ」
*
*
*
瞼を開いた私の瞳に映ったのは、美しく整った目鼻立ちと、白銀の絹髪だった。
私は薄目でその美貌を見つめ、やがてふにゃりと口元を緩めて破顔する。
「……お怪我ありませんか、マスター」
「あるわけがない」
ギラヒム様はぴらりと前髪を閃かせ、抱きかかえた私へドヤ顔を見せつけてくださるのであった。
……どうやら主従二人とも、無事生還したらしい。
主人の魔剣により腕を拘束していた縄を切断してもらい、同時に主人の身体に負傷がないことをざっと確認。
それだけを終え、ようやく私は周囲の状況に目を向ける。
甲板に立つ主従を囲むのは、石になった無数の機械亜人たちと、黄檗色の砂風景だった。
水の上を漂っていた海賊船は、その半分を砂に沈めている。甲板にはところどころに穴が開き、手摺りや柱もほとんどが朽ち果てていた。
私はその光景と石になった機械亜人たちを見つめながら、ふと行き着いた疑問を口にする。
「この子たち、いつからこの海を彷徨ってたんでしょうか」
時空石から放たれた光の中で見た光景がいつのものなのかはわからない。けれど、おそらくあの時から彼らの航海はずっと終わりを迎えていなかったのだろう。
ギラヒム様は「さあね」と答え、一拍置いて薄い唇を震わせる。
「時間の流れを数えるための正気が保てていたなら、こうも狂いはしていなかっただろう」
「……そうですね」
そう続けた彼の目が、石になった機械亜人を通して何かを別のものを見ていると気づき、私は唇を結んだ。
その後、私はギラヒム様を連れ、船内に続く扉へと足を運んだ。
現代に戻ったことにより、機械亜人たちと歩いた時に比べ多くの損傷箇所が目立っていたが、幸い歩行が出来る程度の通路は残されていた。
やがて私たちがたどり着いたのは、この船の船長の元だった。
「────」
初めて対面した時と変わらず、船長の亡骸は椅子に腰掛けたまま永遠に時の流れを止めていた。彼は長い長い間、この姿のまま海を彷徨っていたのだろう。
「ちなみにこの子たちとマスターが今までに会ったことって」
「ないね。ただの一度も」
「ですよね……」
即答された返事に私は小さく唸る。
それならば何故、彼らは魔族長を倒すことにあんなに執着していたのだろうか。
執拗に魔族長を“タオス”と言い、船長サマが“タスカル”と繰り返していた機械亜人たち。
加え、彼らが時空石のために動かしていた動力機関、そしてあの白い光の中で見た記憶。
それらを繋ぎ合わせて思い至った事実に、私はハッと息を呑む。
「マスター。一つだけ思ったこと、言っていいですか?」
「……何」
ギラヒム様に短く促され、私は静かに言葉を継ぐ。
「この子たち、本当は船長サマが動かなくなってたこと、気づいてたのかもしれないです」
「……ほう?」
「だからマスターの……魔族長の魔力を使えば、船長サマにもう一度会えると思ったんじゃないかなって」
「────」
私の結論に、ギラヒム様がわずかに目を見開く。
たどり着いた答えは曖昧な情報を重ね合わせ、憶測に塗れたものだ。機械亜人の思考がどこまで人間のそれと同じ経路をたどり、答えを導き出すのか私にはわからない。
……けれど、もし自分が彼らと同じ立場ならそうするだろうと、なんとなくの確信があった。
ギラヒム様は数秒口を閉ざし、ほんのわずかに目を細める。次にこぼれたのは小さな吐息で、
「……仕方がない」
「え」
それだけ呟くと、彼はおもむろに床上の宝石の山を漁り始めた。
驚き呆気に取られる私を放ったまま、数秒宝石を物色し、やがてギラヒム様が手にしたのは手のひらサイズの透き通った鉱石だった。
「これならいいだろう」
「それって……」
何ですか、と問いかける前に、彼の手の中の石が紫色の輝きを放つ。その様子を目にし、私はそれが一定の魔力を込められる魔法石であると理解した。
驚く私に見守られながら、彼はその石を片手にゆっくりと船長の元へと近づく。
そして彼がその石を船長の右目部分、ぽっかりと空いた空洞に押し込むと──ピクリと、船長の指先が震え、左目に淡い光が灯った。
「ワタシの魔力が続く間は動いていられるだろう。動力源が変わって、過去の記憶は失われているだろうけどね」
驚きを隠せていない私を横目にギラヒム様は淡々と告げ、そこで一度吐息する。
「……二度目に得た生の中で一人この海を彷徨うか、仲間とやらを再現するために時空石を探しに行くかは、これの勝手だよ」
「マスター……」
滅多に見ない、彼の他人に対する配慮に私は目を見張ったまま何の言葉も出せずにいた。
けれどその行動の理由を推し量り、私の口元は柔らかく綻んだ。
と同時に、一つの閃きが私の頭を過ぎる。
「あ、それなら」
今度は私が主人の視線に見守られながら、床に落ちていたナイフを拾い上げる。次いで、再起動までに時間がかかるのか、未だ椅子にもたれかかったままの船長の正面に立った。
彼の胸に記された、掠れた文字列。私はそこにナイフで文字を刻み──、
『RS-002G』
「……何。それは」
「この子の新しい名前です。ちなみにGはギラ、」
「もういい。くだらないことをしていないで、とっとと外に出るよ」
「ちぇー……」
容赦なく部下を置いて立ち去ろうとする主人の背を慌てて追いかける。
……彼があの機械亜人に魔力を与えた理由は、なんとなく察しがついていた。
しかしそれを口にする無粋を私は持たない。
主人の気まぐれで、機械亜人の二回目の生が始まった。ここにはその事実が存在するだけでいいのだから。
* * *
砂の上に沈む船──砂上船を降り、私たちは砂海を歩く。
水上用の荷台はもう使えないから、近隣の警備にあたっている魔物たちに地上用の荷台は要請済みだ。
それらが到着するまでの間、私と主人は数分歩いた末にたどり着いた岩場に腰を下ろし、夕焼けに染まる砂海を眺めていた。
「海、もっと見ていたかったです」
「……あれほど見ておいて、まだ飽きていないんだね」
「まだまだ見ていられましたよ。マスターと一緒なら、何日だって」
そう付け加えたものの、今目の前に広がっている砂海でも同じことが言えてしまうのだけれど。
それでもやはりあの一面の水の世界はずっとずっと見ていたくなる神秘性があった。……が、その反面、そんな広い世界で船長を求め続けた機械亜人たちを想い、どこか胸が締め付けられる感覚を抱いてしまう。
「……やっぱり、」
そう唇を震わせて、少しだけ言い淀んで。
主人の視線を受けながら、私は息を継ぐ。
「私やあの子たちみたいな部下は、ご主人様と一緒にいられるのが一番幸せなんだろうなって……そう思いました」
そしてそれは、傍らに立つ主人にとっても同じだ。そこまでを口にする勇気は、私にはなかった。
続く言葉を見透かしたのか否か、ギラヒム様は横目で私の顔を見つめて小さく鼻を鳴らす。
「そうだろうね。特にお前のような単純な思考回路しか待ち合わせていない馬鹿部下は」
「……単純でーす」
遠回しな肯定とともにぐりぐりと乱暴に頭を撫で回され、解放される。そして呆れたように肩を竦める主人を見て、私の心のうちなんてお見通しなんだろうなと思った。
しかし再び伸ばされた彼の腕が、今度は私の体を柔らかく引き寄せる。
目をしばたたかせ目線を上げると、彼が薄い唇をゆっくりと開いた。
「この砂海を越えた先に存在する海に、いずれ出向く時が来る」
「……?」
「それがあの方が御復活される前なのか、後なのか、知りはしないけれど……お前がワタシの手元にいる限り、嫌と言っても連れてきてあげるよ。無論、ワタシの役に立つためにね?」
夕陽に染まる妖しく美しい微笑。私はその魔貌と彼の言葉に、口を半開きにしたまましばし停止する。
ああ、やっぱりずるい人だ。世の中のご主人様は、部下を手玉に取る極意を修得する義務でもあるのだろうか。
「絶対にもう一度来ます。マスターと一緒に」
「なら、いい子にしていろ。……馬鹿部下」
雲の向こうの太陽が沈むまで、赤色に染まる砂海は音もなく私たち主従を見守ってくれていた。
*
*
*
「る……る、る」
砂に埋もれた船内に言葉になりきっていない単音が、不規則な間隔でこぼれ落ちていく。
「あ、ル……アール」
その体に与えられた魔力が完全に馴染むまで、もうしばらく時間をかける必要がある。
長年稼働を停止していた思考回路や人工筋肉が正常に働き出すまでどれだけかかるのか、それはその機体自身もわかっていなかった。
「アール、エ、ス。……ジー」
だが、他の器官と比べ感光機、つまり眼球部分の動作は意外にもすぐに稼働をし始めた。
何百年の時を経て久方ぶりの光を認識した眼球は正面を一度見据え、やがて傍らにある宝石が散乱した机へと視線を移す。
目に留まったのは、古い手鏡だ。それを拾うことは不可能だが、そこに映る自身──その胸の部分に刻まれた文字列を、彼ははっきりと認識した。
「ジー、ハ、ギ……ゲラ。ド……、ゲラー」
やがて人工音声は単調な音の羅列から、意味を持つ音の繋がりへと姿を変える。
眼球は錆びた板に掘られた文字列を見つめ続け、彼は文字列を読み上げる。
彼が何を思ったのか、何かを思えたのか、何もわかることはない。
だが、彼は口にした。
明瞭な声音で、不釣り合いな主従が名付けたその名前を。
「──RS-002G。ドン・ゲラー」
新たに出航する、命の名前を。
(230412/主従の日記念)