短編


「──ギラヒム様の味の好み、知らない?」
「知らねェ」

 ふとした問いかけに先輩魔族から返されたのはいつも通りの塩対応だった。
 爬虫類特有の黄色い大きな目は呆れに染まり、私を見下ろしている。

「つうか何で俺が知ってると思ったンだよ。味の好みどころかあの人が物食ってるとこ自体、一般魔族の俺ァ見たことねェッての」
「んー……やっぱりそうなんだ……」

 何となく予想していた答えに納得し、私は再び腕を組んでうんうん唸る。

 彼、リザルフォスのリザルが言う通り、日々行動を共にする私ですらギラヒム様が何かを食べているところはあんまり見たことがない。獣型の魔物みたいに肉をバリバリしたりもしないし、人間みたいに定期的な食事も彼には必要ないからだ。
 精霊だからなのか、その辺はなくても大丈夫なのだろう。ちらりと見える尖った八重歯は私を噛む以外に活用されたところを見たことがなかった。

「前に私がクッキー焼いた時は食べてくれたから、甘いものが食べられない訳じゃないと思うんだけど」
「……話の方向性が見えねェケド、お嬢は何をしようとしてンだよ、あの人に」
「何って……」

 リザルから向けられた至極ごもっともな問いに、私はしばし目をしばたたかせる。
 私がギラヒム様にしたいこと。そもそも何故、味の好みが知りたかったかと言うと──、

「ひ、日頃の感謝を、かんしゃ、を……ッ」
「感謝することがあったかどうか自信ねェなら無理して言わなくていいンだぞ」

 苦し紛れの答えは絞り出そうとしても出なかった。
 感謝してないわけじゃないのだけれど、どうしても日頃弄られている記憶の方が先に出てきてしまうのだから、すんなりと言い切るには無理があった。

 私は小さく肩を竦め、リザルにぽつりぽつりと事のいきさつを話し始める。

「空でこの時期、自分にとって大切な人にお菓子を作って渡すって風習があるんだけどね」
「……またよくわかンねェことすンのな、人間は。自分で食いモン作ってそれを他人に渡すなンてよ」
「魔族からするとそうだよね……。私も空にいた頃はあんまり馴染みなかった文化なんだけど」

 それが大地に落ちて魔族として生きて数年。何故今さらになって気になってしまったか。
 きっかけは先日スカイロフトへ物資調達に行った時に見つけてしまったもの。──“ちょこれえと”、という名前のお菓子だった。

 初めて耳にする名前だったけれど、どうやら空で見つかった新種の植物の実を潰したり捏ねたりして作られたお菓子らしい。
 それが今女の子たちの間で大流行しているらしく、その流れで私はある噂を耳にしてしまったのだ。

「なンだよ、噂ッて」
「…………好きな人に渡したら、想いが伝わるかも。って、噂」
「……、……へェー」
「わかってる、その可哀想なものを見る目を向けられるのも致し方ないって、わかってる……! わかってる、けど……!!」

 どこから流れてきたのか、スカイロフトでまことしやかに囁かれている噂。ちょこれえとの素を前にした私はたまたまその噂を耳にしてしまって──気づけば、お財布の中のルピーはお店のおばちゃんの手に渡っていた。
 ちなみにこういうのを『みーはー』というらしい。これもかつて空で学んだ言葉だ。

「それでも、作らない後悔よりは作った後悔の方がマシだと思って、今夜早速取り掛かろうと思い至ったというわけでした」
「……大体理解出来た。そこで飼い主の味の好みを俺に聞こうと思うあたり、ブッ飛ンでやがッケド」
「偉大な先輩魔族ならもしかしたら、という信頼感故に……」

 やっぱりちょこれえとがギラヒム様のお口に合うかどうか、それは食べてもらうその時までわからないようだ。
 しかしせっかく自分へのご褒美用のルピーを使ってまで材料を買ったのだ。ここまで来たらやるしかない。

 偉大な先輩リザルフォスにも(すごくてきとうに)背中を押してもらい、私は気持ち新たに深夜のお菓子作りへと臨んだ。

 ──はずだったのに。


 *


「……マスター」
「ん?」
「……動きづらいんですけど」
「へえ? 勝手に寝床から抜け出しただけでなくわざわざ一緒に起きてあげた主人を邪険にするとはね? 世話を放り出された上に、繊細な心に傷をつけられた可憐なワタシを見ても野蛮な部下の態度は改まらないらしい。まったく、嘆かわしいものだね」
「どれだけ構って欲しかったんですか……!」

 深夜。拠点の食堂、調理室。
 私は何故か、ちょこれえとを渡すつもりであった当の本人──ギラヒム様に、背後から抱きつかれたままお菓子作りの準備をしていた。

 部下としてのお仕事や魔族長様のお世話は朝から晩まで詰まっているため、一人こっそりお菓子作りに勤しむのは必然的に深夜になってしまう。
 だから同じベッドで主人が眠りにつくのを見届け、細心の注意を払って調理室へ向かった。のに、

「……何で今日に限って一緒に起きちゃったんですか」
「ッフン、魔族長たるこのワタシはいつでも有事に備えて万全の状態を整えているんだよ。なんとも健気で美しいものだよね?」
「いつもは意地でも起きないくらいぐっすりなくせに……」

 単に眠りが浅かったのか、それともそわそわしすぎた私が思った以上に騒々しかったのか。
 今日に限ってギラヒム様はすっきりさっぱりお目覚めになり、あろうことか調理場に立った私を早々に目撃してしまったのだった。

 本当は一人で作って驚かせたかったけれど、こうなってしまったからにはもう隠しようがない。
 それならば──いっそのこと、見られながら作ってしまうしかない。

 そう思い至った私は主人に背後から抱きつかれたまま、お菓子作りの決行に踏み切ったのだった。

「さて、生意気をのたまう部下がここで何をしようというのか。とても楽しみだねぇ?」
「とりはえふ、ほっへふねるのやめれくらはい」

 部下の頬をつねったりつついたりとちょっかいをかけてくる主人をあしらいながら、私は早速お菓子作りの準備に取り掛かる。
 どうやらちょこれえとというのは実からとれた状態だとものすごく苦いらしく、空から買ってきた材料は甘く味付けをし、板状に加工が施されていた。

 正直このままでも美味しいんじゃないかと思いもしたけれど、これをここで主人に渡しても風情がないと文句を言われるだけだろう。……作ってる現場を見られている時点で風情も何もないとは思うけれど。

 私は材料と共に手に入れたレシピをもう一度流し読みし、まずは板状のちょこれえとを細かく砕く作業から始める。
 レシピによるとちょこれえとは氷と同じく熱で溶ける食べ物らしい。というわけで火の魔石を焚き上げ作った熱湯を使い、じっくりと温めながら徐々に板を溶かしていく。

 料理自体に全く馴染みがないからか珍しくギラヒム様も部下の作業を静観をしていて、そんなご様子に少しだけ微笑ましくなりながら──数分後。

「……溶けた」
「……溶けましたね」

 固そうな板からとろりとした液体へと姿を変えたちょこれえとを見て、主従二人で感嘆をこぼす。
 あんな形からどうやって可愛いお菓子を作るんだろうと思っていたけれど、たしかにこれならいろんなお菓子の材料として使えるわけだ。

 続いてさらなる味付けのために森で取れた花の蜜やミルクを入れてかき混ぜていく。
 しばらくすると液体上のちょこれえとは少しずつ薄茶色に姿を変え、粘り気のある感触が出てきて、

「おおー……」

 “ちょこれえとケーキ”……のもとが、ようやく完成した。
 作業としては材料を溶かして混ぜただけなのだけれど、クッキー以外に初めて作ったお菓子だからかちょっとだけ興奮をしてしまう。

 あとはこれを型に流して、釜で焼き上げれば完成だ。
 意外にやれば出来るじゃないか自分と、ちょっとだけ得意げな気持ちにすらなってしまって、浮かれながらもう一度レシピを確認した──その時だった。

「……へぇ、」

 ずっと黙ったままだったギラヒム様の口から、とてもとても不穏な感嘆詞が漏れ出た。
 直感的に嫌な気配を察し、私はピタリと手を止める。けれど私が振り向くよりも先にギラヒム様は口を開いて、

「良い事を思いついたよ。リシャナ」
「はい?」

 ほぼ同時に背後から手が伸びてきたと思えば──長くて綺麗な指が、ちょこれえとの液体を掬い上げた。

 彼の指に纏わりついたちょこれえとはツウと一筋の糸を引き、ギラヒム様の眼前へと運ばれる。
 まさかこれが完成形だと思ったのだろうか。慌てて主人の方へと振り向いた私に彼は嫣然とした微笑を浮かべる。

「ま、マスター! それまだ完成してな……!」
「知っている。けれど、このままでいい」
「い、いいって……?」

 意図が読めずにそのまま聞き返すと、たたえられた美しい笑みは意味深な深みを増す。
 持ち上がった口角はやっぱり綺麗で、しかしそこに安心感は一切なく私の嫌な予感は濃くなるばかりだ。

「これで充分、遊べそうだからね……?」
「へ……むぐッ!?」

 そう言って彼はちょこれえとが絡んだその指を──容赦なく、私の口の中へと突っ込んだ。

 私の舌へちょこれえとを塗り込むように長い指が蠢き、くにくにと弄ばれる。
 人生初めてのちょこれえとの味。それは予想以上に甘くて、香ばしい匂いが鼻腔をついて、思わず頬が緩んでしまいそうで。
 でも今はその味をしみじみと堪能している場合じゃない。

「ま、ふた、それッ……おもちゃじゃなふて、食べ物れすッ……!!」
「そんなことはわかっているとも。なに、お前にとってもワタシの指と共にこれを味わえるのは幸せなことだろう?」
「んむぐ!」

 浮ついた声音で囁かれた後は指で円を描くように舌の腹を撫で回され、あふれて口の端を伝った唾液ごと唇のちょこれえとを舐め取られる。
 間近に迫るなまめかしい色香に数瞬魅入られてしまったけれど、なんでこんなことになったのかは全く理解出来ない。

「ああ……見てみなよ、リシャナ。こうしてワタシの指に絡めてみると、この食べ物もこんなに美しく映えてしまうんだね……?」
「ちょっと、何言ってるか、わからないです……!」

 ギラヒム様は私の体を捕らえたままちょこれえとを指で掬い取り、とろりと糸を引く様を陶然と眺めている。部下の突っ込みは華麗に無視だ。

 ……溶けてどろどろな状態を見られたのがまずかったのだろうか。彼の目にはちょこれえとが食べ物じゃなくて性的なおもちゃとして映ってしまったのかもしれない。
 好みの味なんて気にしている場合じゃなかったと、口内の甘味とは真逆の苦い後悔が頭をよぎる。

 それでも目を細めて、ちょこれえとが纏わりついた指を丹念に舐め上げる主人の姿はやはり妖艶で、反抗の言葉が消え失せてしまうほどに蠱惑的だ。
 赤く艶めく舌が長い指の隙間をぬるりと這う様を目にし、ぞわぞわと体の芯がくすぐられる感覚が走ってしまう。

 ギラヒム様は深い笑みをこぼし、ちゅ、とわざとらしく音を立てて自らの指を口から離す。そして、

「ほぉら……せっかくだから、一緒に味わおうか。リシャナ」
「──!」

 部下の唇を貪るように奪い、舌を絡めて甘い味を共有した。

 口内を蹂躙する熱の感触に酔いながら、残った理性でなんでこんなことになったのかという疑問を反芻する。
 ……好きな人のために頑張ろうと思っただけなのに。どこをどう間違ったら食べ物を性的なプレイに使われる結果になってしまうんだ。

 もはや半泣きにすらなりながら、全てを諦めて口内を満たす甘やかな感触に身を委ねてしまおうとした、その瞬間だった。

「──わかっているよ、リシャナ」
「え……」

 頭を満たす疑問を口に出したわけじゃないのに、それに答えるかのような声音が耳に届き、私はゆっくりと顔を上げた。
 待っていたのは、整った顔が見せる優しげな笑み。同時に穏やかに頭を撫でられ、私は呆然としながら続く言葉を失った。

「お前が考えていることなんて、最初からわかっている。そう必死に口にせずとも理解出来るよ。……ワタシはお前の主人だからね?」
「ま、マスター……?」

 滅多に聞けない、ギラヒム様の柔らかな声音。
 普段ならば裏を感じてしまう言葉は柔らかな手つきと共に、私の心を甘く噛み砕いていく。

 そのまま彼は部下の姿を両眼に映しながら静かに唇を解いて──、

「……ワタシも、大好きだよ?」
「──!!」

 継がれた言葉に、どくりと心臓が鳴った。
 顔を中心にして、一気に全身へと熱が巡る。
 それと共に私の心を満たすのは大好きな主人が自分のことを理解してくれていたという安堵感。そして、こんな状況を吹き飛ばしてしまうほどの愛おしさだ。

 遠回りをしてしまったけれど、私のマスターへの想いはしっかりと通じていて、

「マスター、私……!!」
「──だから、」

 ──という淡い期待は、続く彼の言葉によって不自然に断ち切られる。

 その展開に身を凍らせる私へ向けられたのは、先ほどよりも恐怖心を煽る、嗜虐的な微笑みだ。
 彼は私の唇についたちょこれえとをぺろりと舐め取り、愉悦を滲ませた声音で含み笑いをこぼす。
 口内に残るちょこれえとの味がやけに甘ったるく、私の思考を麻痺させていく気がして──、

「楽しもうじゃないか。お前がだぁい好きな、躾の時間を、ねぇ……?」
「……は、」

 体の奥底を震撼させる愉しげな声音を耳にしたが最後。
 ちょこれえとの甘い味は私にとって新たなトラウマとして記憶に刻まれたのだった。


(220215/VD記念)