「リシャナ」
「はい」
「寒い」
「……はい」
短く言い捨てられた言葉は命令でも何でもない。けれど私は素直に頷き、お気に入りの椅子に腰掛ける彼の膝上にお邪魔した。以前は気恥ずかしさに襲われて硬直することしか出来なかったこの場所も、今となっては随分慣れたものだった。
そして今日みたいな寒い日は、抱え込まれて人間湯たんぽになることを強要される。
拒否権はないし、無条件で主人の元にいられるわけなのでこのお仕事(と言えるのかどうかは微妙だけれど)は嫌いではない。
懸念点があるとすれば、場合によっては長時間同じ体勢を強いられること。加えて、
「……チッ、」
「…………」
寒すぎてギラヒム様のご機嫌が超絶宜しくない日があることだ。……今日はその日らしい。
横向きに膝へ乗った部下の体を片腕で抱き寄せ、それでも紛れない寒さと空気の冷たさに苛立つ主人。地肌の熱を求めて服の中に侵入してきた手は、ひんやりとしていて反射的に肩が跳ねた。
そんな反応すら彼は腕ずくで封殺し、私の首元に顔を埋めて長いため息をこぼす。
「…………拷問かよ、この寒さ」
「マスター……素が出てます」
「うるさい」
首元でボソボソと喋られ、ぐいぐい頭を押し付けられ、くすぐったさに身を捩りたくなる。
その衝動を堪えて恐る恐る形の良い彼の後頭部に片手を置くと、ぴたりと動きが止まった。次いでこぼれ落ちてきたのは怨嗟の滲む低く掠れた声音で、
「こんな大地、全て燃え尽きてしまえばいい」
「それは……魔王様がご復活されるまで我慢してください……」
「遅いか早いかの違いだろう? ならワタシが先に寒さごと消し炭にし……盛大に炎で彩っても何の問題もないはずだ」
「問題だらけですよ……」
なんとか口調は装えているものの、言ってることは無茶苦茶だった。それほどまでに、今夜の極まった寒さは彼を苦しめているのだろう。
そんな状況でもいつもの寒そうな格好を貫くのは何故なんだろうとも思うけれど、文句を言いたくなる寒さというのは全面的に同意だ。
それに、万が一彼がヤケを起こしたりしたら大地中までとは行かずともフィローネの森の三分の一くらいは焼け野原にされかねない。……そうなる前に、なんとか寒気とストレスを和らげないと。
私は束の間考えを巡らせ、さらさらとした白髪を柔らかく撫で付けた。
「ギラヒム様」
「…………何」
敬称ではなく名前を呼ぶ。彼は部下の胸元に顔を突っ伏したまま、少しだけ首を捻って視線を向けた。
半分しか見えないが、整ったご尊顔は見るからに不機嫌全開といった形に歪められている。
私は片手をその頬に添え、結んでいた唇を静かに解いた。
「その、今日だけ……素のままでいるとか、いかがでしょうか」
その提案に、ギラヒム様が小さく目を見張った。
苛立ちにかき乱されながらも、曝け出てしまわないよう抑え込まれた彼本来の気性。
彼が従えている他の魔物たちがいる時はともかく、本性を把握している私の前でも頑なにそれを取り繕うのは、彼にとって主無き今も忠誠を示し続けていることの証左でもあった。
だから、それをわかった上で私の前ではいつでも気を抜いてもいいなんて、簡単には言えない。
──しかし、長い時間戦い続けてる彼なのだから、たまにはありのままでいることも許されていいはずだと思った。
「…………」
ギラヒム様は薄い唇を引き結び、数秒逡巡のための沈黙を保つ。やがてゆっくりと顔を上げて、一言呟いた。
「……抱き枕」
「素、解放して第一声がそれでいいんですか、マスター……」
「うるせぇな。お前が先に言ったんだろう。つべこべ言わずにとっとと体を寄越せ」
口調だけでなく部下の扱い方までも荒々しく変貌させ、彼は固い胸板に私の体を押し付ける。
だがそれだけでは満たされなかったらしく、私の体は両腕で丸ごと抱え込まれてしまい、内臓が圧迫されて呻き声が上がった。抱き枕というよりは縋られる藁の気分だ。
「リシャナ」
「はい」
「まだ寒い」
「……そう言われましても」
「この俺が言ってんだよ、どうにか、しろ」
「つ、つぶれ、潰れる……!!」
横暴を訴えながら圧し潰す勢いで締め付けられ、生優しい効果音で済まない嫌な音が背骨から聞こえてきた。
私は何とか彼の胸を押し返し、呼吸を死守して訴えかける。
「わ、私を潰す勢いで抱いてもこれ以上あったかくはならないですから……!」
「んなことはわかってんだよ。お前が俺の分まで頭を使え」
「えぇ……」
すげなく返され抗議の声も無視の始末だ。
素を出したことで無茶苦茶加減もさらに高まっている気もするが、そうすることを提案したのは私だ。今日はとことん彼の横暴に付き合わないといけない。
潰されないよう堪えながら頭を捻らせ、そして私はあることに思い至った。
「……それなら、一旦失礼します。マスター」
「は」
短く宣言して、彼が油断していた隙に膝から下りる。代わりに突き刺されたどこへ行くんだと問い詰める視線を、私は横目で見つめ返した。
「食堂でホットミルク、作ってきますから。ついでに私の部屋から毛布も持ってきます」
外からがダメなら内から作戦だ。人間と作りが違う魔物の味覚に提供できるものは限られているが、ミルクなら大丈夫だという事実は事前に確認済みだった。拠点の食堂はこの部屋よりずっと寒そうだけれど十分程度の我慢だ。
──と、踏み出した私の服の裾に何かが引っ掛かっていることに気づき、背後へ振り向くと、
「………………」
「そんな裏切られたみたいな顔しないでくださいよ……すぐ戻ってきますから……」
私の服を摘んで引き止めていた魔族長様は、その肩書きを持つ人が見せちゃいけない顔を無言で向けていた。
もう一度説得して渋々手放してもらった後は、足早に食堂へと赴いて備蓄されたミルクを火の魔石で熱した。
ほんの数分で温かな湯気を吐き出すホットミルクが出来上がり、マスターのお部屋に帰るその足で自室に寄って毛布も手に入れる。
お部屋に戻って私を迎えた視線は幾分か不機嫌さを増していたけれど、先に毛布にくるまっていただきその中にご一緒させていただくと、心なしか安心したような吐息が落ちてきて口元が緩んだ。
「ミルクはマスターの魔物舌にも合うんですね」
「どっかの馬鹿部下が強要するから、仕方なく飲んでるだけだ。普段ならこんなもの絶対口にしない」
と言いつつ、再びホットミルクに口をつけるギラヒム様。
人間と動物の関係性と同じく、魔族にとっても人が食べる物は大抵薄味だったり不味く感じたりするものらしい。
主人曰く、魔物の舌は主に人の血肉を啜るためのものらしいので、特に血の味は濃く甘く感じるとか。
「今マスターが飲んでる味と私が飲む味、違うふうに感じるんですかね」
「知らねぇ」
部下の中身のない問いかけに興味なさげに鼻を鳴らす主人。
そこで会話は終わると思ったけれど、彼はサイドテーブルにマグカップを置いて、
「……気になるんなら、舐めてみろよ」
「え」
何事かと見張った目は顎を掬われたことにより真っ直ぐに主人と視線を交わし、彼の親指が私の唇をかき分ける。
そのまま迫られ与えられるのはキスなのかと思いきや、唇の隙間から舌先を舐められた。
深く口付けるわけでもなく、ころころと弄ぶように舌先同士を混ぜ合わせられる。
時間にすれば短かったけれど、それでも解放された時には今までと違った熱が体を支配していた。
吐息を逃し、くたりと彼の胸の中に沈むと大きな手に頭を抱えられ、ぼうっとした感慨に耽ってしまう。
「……味とか、よく、わからなかったです」
「はッ、だからお前は馬鹿部下なんだ」
抱えた頭をぺしぺしと叩かれ嘲笑をいただく。その口調は先ほどまでに比べるとだいぶ本調子に戻ってきているようだった。
「あったかくなりました?」
「……まだ足りない」
「左様ですか」
問いかけの返事は素っ気ないものだったが、彼がそっぽ向くと同時に体を抱える腕に力を込められた。
たぶん、このまま抱かれていろということなのだろう。拒絶されない限り降りるつもりもないのだけれど。
「やっぱり、こういう何でもない時にマスターの素の口調聞いてると不思議な感じがします」
「文句でもあるのかよ」
「無いですよー。今のマスターも、いつもと同じくらい大好きです」
「チッ……、……うぜぇ」
舌打ちと共に指で頬をつねられたけれど、普段に比べて柔らかく感触を楽しむように摘まれる程度だった。
やがてその指は輪郭を伝い、唇に触れる。滑らかな指の腹に表面を撫でられ心地良い感覚に浮かされていると、覆い被さるような体勢で顔を覗き込まれた。そして、
「リシャナ」
「はい」
「……限界」
温かさで我慢の枷が緩んだのか、浅い呼吸音と共に唇を貪られる。
吸い付き、噛み付くように何度も咥えられて、舐められる。時折ちくりとした痛みが走ったのは、魔物特有の牙が触れたからだろう。彼の中では見た目以上に熱が回ってしまっているのかもしれない。
「今日は泣いてもやめてやらない」
「……いつもな気もしますけど」
「あれでも手加減してやってんだよ。……ご主人様のために健気な努力をしてみせた部下に、俺がご褒美をくれてやる」
そう言い放ち、私を射抜いたのは獰猛な目つきだ。
それでも私が今まで見惚れてきた魔貌は崩れることなくそこに存在していて、私は彼の根底から魅入られてしまっているのだと思い知ったのだった。