短編


「ギラヒム様!」

 空虚な室内に響いた、普段より音程の高い声音。緩慢な動作で首を傾け視線を寄越せば、ほぼ思った通りの姿がそこにあった。

 ほぼ、というのは帰還直後のその顔に珍しく機嫌の良さそうな笑みが浮かんでいたということだ。
 とは言えそれに対して特段興味は湧かず、視線はすぐに膝上の魔術書へと戻る。

 部下はその対応に対し怯むことも不満げな顔をすることもなく、主人が腰掛ける椅子へと寄り添ってくる。
 傍らに立った彼女は、こちらが顔を上げずとも穏やかな笑みをたたえているとわかった。

「ただいま戻りました」
「ああ」
「命じられた通りあの地の兵隊、みんな倒してきましたよ」
「……そうか」

 そういえばそんなことを命じたか。
 普段この部下に対し与える命令に失敗の一言は当然許していない。それ故に本人の口から報告を聞くまで、自身が命じた内容は思考の彼方に追いやってしまっていることがほとんどだった。

 音もなく魔術書を閉じ、再び視線を傍らに寄越す。そこには変わらず笑みを浮かべたままの部下が佇んでいる。

「……やけに上機嫌だね。今朝無理矢理叩き起こしてあげた時はあれほど機嫌を損ねたくせに」
「お役に立てたことが嬉しいんですよ。今はそれがとても幸せなんです」
「────」

 その唇から紡がれる色のない言葉を、最初は適当に聞き流してやろうと思っていた。が、返された答えに微かに瞼が揺れる。
 そして彼女がここに踏み入った時から大方の予想はついていたが、それが確信に至ったことにより内心で溜め息がこぼれた。相変わらず、面倒事ばかりを持ち帰る。

「幸せ、ね」
「はい」
「……お前にとっての幸福が何なのか、聞いてあげようか」

 そこで初めて部下の顔から笑みが消え、両の眼が見開かれた。何故そんなことを聞かれているのかわからない、と言ったところか。
 だがその疑問を口に出すことはなく、彼女の顔には再び笑みが浮かぶ。

「──魔王様がご復活されるためのお力添えを出来ることが、私の一番の喜びであり幸福です」
「…………ああ、」

 なんとなく予想できた答えに意志のない相槌が落ちた。
 同時に気づいたのは、こいつが嘯くそれが模範解答であるということ。

 あの天邪鬼に。ひねくれていて、不躾で、歪んでいる部下にもそうした“正しさ”が芽生えたのだとすれば──悪い事ではないと、そう言えたのかもしれない。

「そうだね」
「え?」

 ──その首に刃を添えるのは、あまりにも容易かった。

 すぐそばにあった腰へ腕を回し、抱え込むように引き寄せる。そうして間合いどころか逃げるための距離すら失った部下の顔には、焦燥の他に心の底からの恐怖が滲んでいた。

「ぎ、ギラヒム様……なんで……!?」
「大丈夫。お前は正しいことを言っているよ。素晴らしい解答だ」

 慈愛を込めた賛辞とは裏腹に、首筋に添えた魔剣の刀身は微塵も動くことはない。そのまま青く染まる顔を空いた片手で掬い上げると、喉が小さくひくつく音が耳に届いた。
 そうして吐息がかかるほどの至近距離で、本物に向けてやるものに遠く及ばない嘲りを与えてやった。

「本当に──気色悪くて仕方がない」
「……あ、」

 唇からこぼれ落ちた彼女の声音に、温度は無い。
 模範的で、愚直で、忠実で、完成された、生きるために上位の者へ取り入る魔族の外面。
 それは種族として当然の生き方だ。何もおかしなところはない。目の前のこの存在も、そうした生存本能に従い最適な手段を取ったに過ぎないのだろう。主人の手を煩わせる犬がもしいなければ、使い捨ての駒くらいにはしてあげたかもしれない。

「しかしこんなところまで来てくれたんだ。手土産に一つ、考えを正してあげようか」

 作り物とは言え、あの部下が来たる死に怯え切る表情を見る機会はなかなかない。
 だからせっかくのその表情を目に焼き付けてやるつもりで見下ろしながら、冷えた頬を指でなぞる。

 恐怖に溺れた瞳を覗き込みながら……常識を教え込むように、ワタシは宣告する。

「──あいつが、ワタシ以外に与えられたものを“幸福”だと感じる時なんて、あるはずがないだろう?」

 幸福の形すら主人に捧げている、絶対的な従者。
 世界の誰もが狂っていて不幸だと嘯く未来を、あれは心からの笑顔を見せながら幸せだと言い切るのだから。

「もはや、“ワタシでないといけない”んだよ。あれは。……ね?」

 魔族にとって最善の未来も自身が生き長らえるための手段も、あれには必要ない。
 だからこそあれは手下でも配下でもなく──主従であることに拘るのだろう。
 そしてそれは、ワタシ自身も同じだと言えた。

「そういうわけで、ついでに『お前は何のために戦うのか』と質問すれば、答えは自ずとわかるよね?」
「──ッッ、」

 返事を紡ごうとしたのか命乞いをしようとしたのか、刹那彼女の喉が震えをみせる。
 しかしそれが声になる前に、魔剣の刃がたった一度閃いて。

 部下の顔をしたそれが呆気なく壊れた光景だけが、網膜に残った。


 *


「へ」

 遠方からようやく帰還をし、報告のために訪れた彼の私室。
 扉を開けた先の異臭と違和感に、私はただただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

「……どういう状況ですか、これ」

 鉄臭く、反射的な不快感が込み上げる匂い。詰まるところ、死臭だ。
 彼が座る背の高い椅子の側には、首元から腰にかけてを無惨にも切り裂かれた死体が転がっている。
 ここまで部外者が立ち入ること自体滅多に無いはずなのに、それがこんな状態になっているなんてただ事ではない。あと誰が片付けるんだ、これ。

 問いかける私に対し、彼は頬杖をついたまま視線すらも寄越さない。
 そこで機嫌の悪さは察したが、予想に反し答えはすぐに返ってきた。

「お前に化けた侵入者がいただけだ」
「え……私にですか?」

 淡々と告げられた答えに、わずかに裏返った声が上がる。侵入者という単語にも驚いたが、よりにもよって私に化けるなんて。
 その様がどういう具合なのか興味はあったが、さすがに自分と同じ顔が死体になっているところをわざわざ観察するのは気が引けたので見ないでおいた。

 私は死体から距離をとりつつも主人の方へと視線を走らせ念のため怪我がないか確認をする。……その侵入者をすぐ近くにまで引き寄せて切り裂いたのか、彼の胸部は返り血で真っ赤に濡れていたが、怪我はなさそうだった。

 ギラヒム様は不愉快そうに鼻を鳴らし、私を指先だけで呼びつける。
 ものすごく嫌な予感がしたけれど、渋々お側へ参じると何の躊躇もなく私の体を引き寄せ自身の膝の上へと乗せた。
 ぬるりと湿った血の感触が直に素肌へ伝い、咽せ返る鉄の匂いと主人の甘い匂いが混ざり合って脳髄を震わせる。

 彼は背後から私の後ろ髪を指で除け、覗いた首筋に唇を這わせた。

「なかなか面白かったけどね、例えばお前は何のために戦うのかと、聞いてみたりね?」

 低く、艶やかに紡がれる声に脊髄が直接揺らされているような感覚すら抱きながら、それでも彼が告げたその問い──ニセモノの私へ向けた問いに、閉じかけた瞼が持ち上がる。

「そんなの」

 背後へ首を捻れば真正面から主従の視線は絡み合う。それに捉われたまま、私は続けた。

「マスターのため、以外の答えってありますか?」

 紡いだ答えに、彼の唇は満足げに弧を描く。
 くつくつと含み笑いを漏らし、私の体は血で濡れた彼の元へとさらに引き寄せられた。

「本当にお前は、残念な部下だよ」
「な、何で貶されたんですか私?」
「それすらわからないならまだまだ教育が足りないということだねぇ。ワタシの手を煩わせる罪は重いよ?」

 愉しげに嘯きながら、彼の親指が私の唇をゆっくりと伝う。端までそれがたどり着けば今度は押し付けるように唇を重ねられた。
 そうして名残惜しむように緩やかに離されたそこは、鮮やかな紅色で染まる。彼の目に映り込む私の唇も、同じ色に濡れていた。

 主従の唇を彩る深紅色。
 まるで消せない烙印のようにも見えるそれを、とてもとても幸せそうに主人は見つめていたのだった。

(210410/主従の日)



侵入したのは女神側のスパイとかではなくただ単純に魔族長に取り入ろうとした魔物だったのでした。不憫。