短編


「────え?」

 破砕音が、高く高く跳ね上がった。
 しかし私は何も反応出来ず、甲高いその音はもはや耳に届いてすらいなかった。
 手の中のカップが落ちて割れてしまったことよりも、もっともっと衝撃的な光景が目の前に広がっていたからだ。

 そしてその光景を生み出した当の本人は何の言葉も発せずにいた私を冷ややかな視線で一瞥し、低い声で一言、

「遅い」

 とだけ告げて、そっぽを向いた。

 主人、ギラヒム様が当たり前のように横たわっているのは私のベッドだ。最近、拠点への帰還が遅くなると決まって私の寝床は彼に奪われている。
 だが、私を震撼させたのはそのことではない。寝床の奪還は彼の機嫌が直らなければまず無理だととっくに理解している。

 問題は、今まさに彼の両手に抱えられているものであり──その存在によって作り上げられている光景だった。

「マスター……なに、を……」
「見ればわかるだろう。お前が勝手に連れ込んだ動物の面倒を主人自ら見てあげていたんだよ」
「…………ほわい?」

 呆然としたままそれだけを返す私。様子のおかしい部下の反応を華麗に無視した主人。そのかわりに返事をしたのは「ミィ」という鳴き声だった。

 私は目を見開いたまま、彼の手に抱えられている存在が何なのか再度確認する。
 やはりそこにいるのは、スカイロフトに生息する愛くるしい小動物──レムリー。

 大きな耳とふさふさしたしっぽを持つその子は日々の疲れを癒すため、数日間だけのつもりで私が空から連れ帰ってここにいた。
 本来は夜になれば凶暴化する魔物に近い性質を持った動物だが、魔族の前では警戒心が刺激されないのか比較的大人しいままだ。
 だから自室で放していても問題ないと思っていたのに。まさか主人の手に渡って、それだけでなく、

「…………」
「ミィー」

 天下の魔族長が、鬼畜の化身である私のマスターが、敵と私を嬲り地獄の苦しみを与えることが趣味の主人が。
 ──小さな動物に、癒されている……!?

 ここ数年のうちで三本指に入るほどの衝撃を受け身動きが取れずにいる私。
 頭のおかしい反応を見せる部下にギラヒム様は一切視線を寄越さず、細い指でレムリーの短い毛をくすぐり撫でつける。

 たったそれだけの光景だった。傍から見ればなんてことはない、ありふれた光景だった。
 しかしその動作主が我が主人であるという一つの事実が、私の思考を根こそぎ強奪して──、

「マスター」
「何」
「…………私は床に這いつくばってるので、ぜひ続けて下さい」
「フン、わかっているじゃないか」

 結果、その素晴らしい光景を前に私はひれ伏すことしか出来なかった。
 ギラヒム様は鼻を鳴らし、引き続き部下を放ったままレムリーとの戯れを再開する。
 寝転がった主人が小動物をいじっているところを、床で正座する部下が凝視するというなんともシュールな絵面が出来上がってしまったが気にする余裕は無かった。

「…………」
「…………」
「ミィー」

 頬から顎にかけ細い指で柔らかく撫でられたレムリーはミィミィ鳴きながらくすぐったそうに身を捩る。
 ちらりと視線を逸らせば主人の顔には何の感情も滲んでおらず、無に近い表情をしていた。
 だが、おそらく猛烈に癒されているのだろう。さっきまであったはずの部下に対する不機嫌の気配は既に弛緩していた。

 視線を送り続けてる間にもギラヒム様は手の中の小さな体を自身の固い胸板の上に置き、レムリーがそこでひっくり返る。
 そのまま気持ち良さげに伸びをしさらに甘えるレムリーのお腹を、彼は無言で撫で続けた。
 どれだけ眺めていても、癒しそのものと形容出来る光景だ。絵にして額縁に入れて飾りたいとすら思った。

 ──思った、のだけれど。
 それとはまた別に、

「…………」

 正座で凝視し続ける私を、主人は見向きもしない。
 初めは癒しと癒しの相乗効果を全身で受け止めていた私だったけれど、だんだんとそれを映す目が細まり、胸の内に隙間風が吹くような感覚を覚えてきた。

「……マスター」

 試しに一度だけ彼を呼んでみる。
 罵られることも覚悟していたけれど、予想に反して彼は視線すらもこちらへ与えてくれない。
 切実な視線を送っていると、ふと薄い唇が数秒だけ開き、

「寝たいのなら勝手に寝て構わないよ。床でね」
「う……」

 あまりに淡白な声色でそれだけ言い捨てた。

 ……どうやら思った以上に拗ねてるらしい。
 ここ最近帰りが遅くなることが多かったからだろうか。その分の腹いせはその日中にきっちり受けているはずなのだけれど、なお嫌がらせをしないと気が済まなかったのだろう。
 床で眠るのも嫌だけど、それ以上に今のこの状況に耐えられなくなってきた。

 顔をしかめる私の視線の先には大きな手のひらで頭を撫でられミィミィ鳴くレムリー。
 それを見据えながら私はベッドの縁にしがみつき、彼の艶やかな腕に指先で触れる。

「マスター……」
「…………」

 先ほどよりも少しだけ縋るような声音で主人の腕を引く。が、彼から返される反応はついに何もなくなった。
 レムリーは完全に彼に懐いてしまったのか、小さな頭を彼の頬へと擦り付けている。
 ……そこを替わってくれとは言わない。そう言いはしない。しない、けれど。

「────」

 やれと言われたらやりたくなくなる、逆にやるなと言われたら意地でもやりたくなる天邪鬼の気質が絶妙に刺激され、はっきりと「主人に構われたい」と私は思ってしまった。……きっと彼の思惑通りなのだろう、完全敗北だった。

 私は顔を上げ、再び主人の横顔を見遣る。視線の先では彼の指を甘噛みするレムリー。
 数秒その様を目にし、決心する。そして、

「──!」

 眼前にあった彼の腕に唇を運び、小さく息を吸って──そこを食んだ。

 ぴくりと、ギラヒム様が微かな反応を見せる。当然歯を立てたりはしない。彼の肌に傷をつけるようなことはしない。
 自分が連れ込んだ小動物に対抗するなんて一部下というか一人間としてどうかと自分でも思ったけれど、こうまでしないと彼は私に構ってくれないのだろう。

 柔肌の感触が唇に伝わり、同時に鼻を掠める甘い匂いが意識をくすぐる。
 そうしてレムリーの鳴き声を背景に数秒の静止を経て、恐る恐る口を離し彼の表情を窺おうとした、瞬間。

「ふぉッ!?」

 主人が上体を起こしたことを認識する間もなく私の両脇はその腕に抱えられ、振り回すような勢いで彼の体の上に乗せられた。

 私から見れば体に跨り彼を見下ろす体勢になっているはずなのに、見下されていると感じてしまう視線に射竦められる。彼の指の背が輪郭に沿って誘うように伝い、私は唇を結んだまま顎を引いた。
 ちなみにレムリーはといえば気ままに場所を移し、床でのんびり欠伸をしている。

「こんな小動物に嫉妬するなんて、お前には羞恥心というものが無いようだ」
「一応、ありますけど……動物以下っていうのは否定出来ません……」
「だろうね。……一体どちらが愛玩動物なんだろうね? リシャナ」

 駆け引きの敗者である私に反駁する権利はない。
 頬へ添えるだけに留まっている彼の手のひらに、唇を噛みながらも擦り寄ってみればようやく綺麗な顔に満足げな笑みが浮かぶ。

 あとは引き寄せられるまま彼の胸に身を委ね、お手本を見せるように全身を食む彼に為されるがまま、癒しとは無縁な夜を過ごすしかなかった。



一部の動物からものすごく懐かれそうな魔族長。部下は動物好きだけど何故かすごく警戒される。