短編


「……リシャナ?」

 その声が耳に届いたと認識した時、私の体は彼の背に沈んでいた。

 名前を呼ばれたこと、そして主人に身を預けてしまったことに対し紡ごうとした言葉はヒュウ、と喉を通る空気音にしかならない。
 彼が振り返ると寄る辺を無くした私は重力に逆らえず跪き、彼の腕の中に落ちた。

 おかしい。
 力が入らないのは、たぶん手足と口周り。それに体温も上がってる。
 頭を侵されている感覚はないものの視界は虚ろに歪み、自身の体に対する違和感を受け止めることで精一杯だった。
 さすがに訝しく思ったのか、彼の長い指が頬に触れ表情を覗き込まれる。

 整った顔を真正面で見据えた。
 きれい。と単術明快な感想のみを抱く。私は為されるがまま身を委ね、か細い呼吸音のみを繰り返すことしか出来ない。

 焦点が合ったりぼやけたりを繰り返しながら、添えられた彼の手がぺちぺちと私の頬を叩いたりはたまた緩くつねったりとこの状況でもなお容赦のない様を眺める。
 顔の痛覚は生きたままのため素直に痛いと思ったが、いつもは大なり小なり反応を見せる部下が全くの無反応だということも加味し──彼は結論を出した。

「……森で毒を貰ったか」

 どく。……ってなんだっけ。
 彼の呟きを耳にしたのを最後に、一層意識が自身の深層へ引き摺り下ろされる感覚を抱く。

 もはや私に出来たのは、反応がないのをいいことに手加減なしで頬をつねる主人に対し、眉間に皺を寄せ不満を訴えることのみだった。


 *

 ──というのが、気を失う前の話。
 どれだけ容赦なくつねってくれたのか知らないが、うっすらと痛みを訴える頬に嘆息がこぼれる。が、今の私じゃ手を伸ばしてそこを撫で付けることも出来ない。

 多少楽になったものの未だ自由を奪われ続けている体に顔をしかめると、真上に影が差し掛かって私は重たい頭を持ち上げた。

「神経毒なんて煩わしいものを打たれるとは。お前の間抜けも極まったね、リシャナ」
「……ぐうのねもでません」

 心の底からの蔑み顔で部下を見下す主人──ギラヒム様の言う通り、私は今、体の一部が麻痺する毒に侵されているらしい。
 おそらく先ほどまで探索していた森、その深部に生息する虫か植物が原因だろう。
 毒とは言え、幸い時間が経てば何をせずとも抜けていく類のものだそうだ。そのかわり、侵されている間は手足と口の自由がほぼ効かずこうして人形のような状態が続くらしい。

 拠点にたどり着くまではまだ距離があり、特効薬も手元にない。故に私はひたすら休んで回復を待つことしか出来なかった。

 少し時間を置いたものの手足の痺れは薄れておらず、大木に背を預けたまま私の四肢は投げ出されている。それに神経をやられたせいなのか、頭はぼんやりと熱っぽかった。

 目の前で屈んだギラヒム様が私の額に手を伸ばすとひやりとした冷たさが広がって、そこから生まれる安らぎに瞼が下りる。
 そのまま額から頬に沿ってするりと撫でつける主人の手の心地よさに私は抗うことが出来なかった。

「呑気に和んだ顔をしているけれど、麻痺した体にお仕置きをするという手もあるんだよ?」
「うー……はんせい、してるので、それはヤです……」

 口にする拒絶の言葉はさっきよりはマシになったもののまだまだ覚束ないものだった。
 舌がうまく回らないし喉も痺れのせいか異物が張り付いたような違和感がまだ拭えていない。

「のろいのつぎはどくって……わたし、そんなにめがみさまに、きらわれてるんでしょうか……」
「さあ。もしくは嘲笑われているか、だね」
「それは、ますたーだけでじゅうぶんです……っ……、」

 そこまで悪態をつくと、喋り過ぎが祟ったのか喉がヒリついて呼吸が浅くなった。どうやら調子に乗るには早すぎたらしい。
 息苦しさを覚えて私はひどく緩慢ながらも自らの腰へ手を伸ばした。

「みず……」

 そうして携帯していた水をやっとの思いで掴む。
 なんとも不便に成り果ててしまった自身の体に再び嘆息しながら、渇きを訴える喉を潤そうとした──時だった。

「あっ、」

 苦労して手に取ったそれは、呆気なくも主人に取り上げられてしまった。
 そんなことをされればもう取り返す術はなく、切実に訴えかける目で彼を見つめるしか手段は残されていない。

「ますたー、のど、おかしいので、のみたいです……」
「知っている。焦らずとも飲ませてやる」

 そう宣言をされるものの、彼の見せる艶やかな笑みに一切の安心は出来ない。しかしいつもみたいに主人の悪巧みから逃げ出すことも出来ない。

 しかめっ面の私の視線を浴びながら、ギラヒム様は水の入った容器を片手に、空いた手で私の体を引き寄せる。
 力を入れることが出来ずくたりと寄りかかる私の体を器用に抱えながら、彼は部下の貴重な水分を遠慮なく口に含む。──そして、

「──っん……!」

 私の唇にその口を押しつけ、私の口内へとそれを流し込んだ。
 与えられるのは何の変哲もないただの水だというのに、口内を満たす生温さと唯一熱い唇の感覚が襲い、脳内が溶かされるような錯覚に陥る。

 麻痺した口はせっかく与えられた水分の全てを上手く受け入れることが出来ず、口の端から糸を引くように水筋が伝う。
 だが、主人の目的は体の自由が効かない部下へ恵みの水を与えるなんて慈愛に満ちたものではない。与えるものだけ一方的に与え終えれば、後は対価を求めるように舌を絡められ唇を貪られるのみだった。

「……っは、」

 数分間、わざと音をたてながら食まれた後にようやく解放される。
 ただでさえ体が思うように動かないというのに違う種類の毒を主人から注がれたようで、私は浅くなった呼吸を抑えながら彼を睨んだ。

「また、気をうしなったら、どうしてくれるんですか……」
「そうなれば次は……血でも飲ませてあげようか。回復出来るかどうかは知らないけれど」

 彼の言葉が冗談なのか本気なのかはわからないけれど、そう嘯く艶然とした笑みはもはや誰の目から見てもわかるくらいには欲情している。
 濡れた舌で唇を一舐めする主人に、私は縋るような視線を送ることしか出来ない。

「……抵抗するのをねじ伏せて遊んであげるのも良いけれど」

 ギラヒム様の手の甲が私の首元を撫でる。
 痺れておかしくなってるはずなのに、そこから生まれる熱がやたらはっきりと感じられるのは何故なのか。

「──無抵抗な体を弄んであげるのも、存外楽しめるかもね?」

 今まさに体を蝕んでいる毒より、目の前の主人から与えられようとしている欲の方が猛毒だと思えてしまうのは……何故なのか。

「ますたー、かわいい部下が、よわってるんですよ……!」
「ああそうだね、まさに弄り時じゃないか」
「なんで、興奮してるんですかっ……!」

 私に水を与えた時は、それこそただの悪戯混じりだったのだろう。
 だがそうして主人の手に為されるままの無抵抗な私へ、彼の内の支配欲が顕在化してしまったらしい。

 私の中の毒が消えるまで、おそらくあと数時間。
 彼に対して使える抵抗の手段はない。

「毒を以て毒を制す。──下等な人間にしては、悪くない言葉だね? ……リシャナ」

 主人から与えられる毒は果たして消え得るのか。
 冷たい予感に身震いする私の鼻孔を、甘い匂いがかすめた。



口移しが書きたいだけだったのですが、毒云々と趣味が出てしまいました。