短編


 それがどんなに些細な出来事だったとしても、私にとっては天地を分かつほどの一大事件であったのだ。
 忠誠を、愛を、命さえも捧げる主人へ刃を向ける。禁忌と知りながらも止められない。

 何故ならここで自我を保ち対抗しなければ、私は恐らく──大切なものを失うからだ。
 そう、人として大切な……。

「……ここか」
「!」

 物陰に潜んで整えていたはずの呼吸が再び浅くなる。降ってくるように届いた低い声に肩は跳ね上がり、本能が危機を知らせる。
 ほぼ条件反射で声がした方向へ突きつけた剣は、甲高い音を散らしながらズシリとした加重に耐えた。

 そして私は彼と視線を交え理解したのだ。
 もはや互いに……本気なのだと。

「抵抗して良いことは無いはずだよ、リシャナ」
「承知してますし、望むとこです……!」

 私はキシキシと小さな悲鳴を上げる魔剣で刃を押し返しながら──彼、他でもない自身の主人を睨み返したのだった。

 普段ならばここで跪いて許しを乞うはずが、魔剣を抜き、さらに反論まで口にしたのだ。主人の目に微かな驚きが走ったのは当然だった。
 しかし私を追い込む手が緩むことは無い。

 このままだと力で押し負ける。恐らく主人は持つ力の半分も出していないはずだから、私が堪えられるのは時間の問題だ。
 まさか刃を勢いのまま振り落として私を真っ二つ、なんてことはないだろうけど押し負けてしまえば何をされるかわからない。……というかそもそも、真っ二つに絶対されないかと問われるとあんまり自信がない。

 私が今すべきことは戦うことでなく、肉体的にも精神的にも生き抜くこと。だから──。

「全力で、逃げさせていただきます!!」
「!?」

 空いた片手でポケットの中から手のひらサイズの丸い粒を取り出す。彼の視線がその動作を捉えたと同時に、私は地面へそれらを思いっきり叩きつけた。

 風船が割れるような破裂音が数回響き、辺りは両者の視界を奪う真っ白な閃光に包まれた。
 その中で動けたのは私だけだった。
 耳の奥で木霊する残響に耐えながら私は逃げ道を辿る。

 走りながら、そもそもなんでこうなったのかという回想を巡らせて……。


 * * *


「ッぐ……」

 ソレを見た私は、喉がつかえて咽せそうになり思わず顔を伏せた。
 見せつけた張本人である主人、ギラヒム様は私の反応を予想していたかのように楽しそうな笑みを浮かべている。

 ……見せられたソレが具体的に何なのか、語るのも恐ろしい。出来ることなら今すぐ記憶から除外したい。
 強いて言うなら、ソレを使われたら絶対痛いだろうし下手をすれば数日は動けなくなるだろう。もとの健康体に戻れないかもしれない。──そんな代物だった。

「……マスター」

 衝撃からようやく帰ってこられた私は平静を装うことも忘れ、露骨に顔をしかめながら主人に向き直る。

「さすがにこれは、嫌です」

 拒絶の意志だけなら彼が気分を害す様子はない。最終的に私が折れるとわかっているからだ。
 しかし、今回ばかりはそうもいかない。遊ばれるだけなら百歩譲って良い。だが──その結果彼の部下として戦えない体になったら、本当に笑えない。

 彼は余裕の笑みを崩さぬまま、指でソレを弄びつつ視線を寄越す。

「主人の愛情を蔑ろにするとは、随分生意気になったものだね」
「生還できる保証が絶対無いですもん。もはやこの形の物を人体に使うっていう発想が怖いです。……あと愛情は直接いただけたほうが嬉しいかなって」

 言いながら、私は半目でソレを見る。
 主人の手にあってかつ細い指で支えられているという補正もある中、なおも目を背けたくなる存在というのはある意味すごいと思う。何なら今まで目にした中で一番邪悪な概念を感じさせる物だと思う。
 そしてそれを私に使おうと脊髄反射的に考えるギラヒム様がやっぱり一番怖い。

「安心しろ、お前がもし生還出来なくても残った身体は使ってあげるから」
「……一応聞きますけどそれ本気じゃないですよね?」
「さあ? どうだろう。本気かどうかは……使ってみてから考えよう」
「ひっ……!」

 彼が一歩踏み出す前に立ち上がって逃げようとすると、素早い動きで後ろから羽交い締めにされた。
 我が主人はこれだけ拒絶の意志を示しても諦めてくれないらしい。少なくとも私を捕まえる手は一切の抵抗を許してくれず私は悲鳴を上げる。

「む、無理です絶対無理!! それだけは無理ですッ!!」
「お前がどれだけ無理だと言おうとお前の体を弄る権利はワタシにあると言っているだろう。大人しく弄られろッ!」
「たしかに私の体はマスターのためのものっていうのは認めますけどッ! 戦えなくなる前にもう少し丁寧に扱ってくださいッ!!」

 ただでさえ最近ハードなおイタがすぎて体が改造される寸前なのだから、今回ばかりは全力の拒否もやむを得ない。

 しかしそれが主人に通用するかどうかは別の話だ。
 拘束されたままの私の目前に、彼はこれ見よがしにソレを持ってくる。
 間近で見ると本能的に肌が粟立ち、私は無理やり顔を背けた。

「絶ッ対無理です、今度こそ人としての尊厳が死んじゃう!!」
「往生際の悪い……、部下なら耐えてワタシに報いろッ!」
「そんなぶっ飛んだ根性論認めるわけないじゃないですか! この変態パワハラ上……司ッ!!」

 終にぷっつんした私は、叫びと共に最後の抵抗を試みる。

 そうして返ってきたのは──頭部に走った固い痛みと鈍い音。
 加え小さく聞こえた、主人の呻き声。

「……あ」

 緩く、私の体は解放される。
 が、私は冷や汗を流しながらやらかしてしまったことを悟って背筋が凍る。
 振り向きたくない。けど、振り向かなくてはならない。

「ま……マスター?」

 恐る恐る、主人を窺い見る。
 背後で黙ったきりのギラヒム様は、顔を抑えたまま俯いていた。

 ──私が、頭突きをかましてしまったから。

「ま、マスター……ごめんなさ、」
「リシャナ」

 謝罪を言い切る前に、地を這う低い声で名を呼ばれ呼吸が止まる。
 私は、死期を悟った。

「そこまで使われたくないなら──死に物狂いで逃げてみるといい」

 言いながら顔から手を離した主人は、深い深い笑みを浮かべていた。
 私はおそらく今まで生きてきた中で五本指に入るほどの戦慄を味わう。
 主人の口角は上がっているのに、殺気を全身に浴び視線だけで跪きたくなる表情。

 固まった私を見下ろしたまま、彼が指を鳴らし数本の短刀が召喚される。
 ……まさか、こんなしょうもないことで狙われるのか。

 だがギラヒム様は本気だ。
 本気で私を捕まえて、ソレを使うつもりだ。

 私はこの場で土下座なり何なりして許しを乞うべきだったのだろう。
 だが、再びソレを目にした私は……短絡的にも抵抗をしてしまったのだ。

「こ、今回ばかりは、嫌ですからね……!!」
「上等。お前がその気なら、逃げ切ってみろ……!」

 こうして、傍からみればわけのわからない理由で。
 主従間戦争は勃発したのだった。


 * * *


 そういう訳で、私は主人に追われながら拠点中を巡っていた。
 間一髪の場面が何度かありつつも逃げ隠れを続ける私は、今現在、拠点の内でもやや広さのある部屋の死角に入り込んでいる。

 短刀の雨を躱すだけならともかく、まさか魔剣での斬り合いにまで発展したのはさすがに肝が冷えた。
 咄嗟にデクの実でごまかして逃げて来られたのはよかったものの、主人の剣を受け止めた腕はまだ痺れてる。どれだけ私の体をいじり倒したいんだ。

「……いない、よね」

 主人の気配は今のところない。
 私はその場に座り込んで、深く安堵のため息をついた。何故かここ最近の戦闘の中で一番気を張っている気がする。

 ただ、単純に逃げ回るだけなら私に少しは分があるようだ。
 普段のお仕置きの度、伊達に多種多様な逃げ方をしてる訳じゃない。……自慢することじゃないけれど。

 しかし問題は逃げ回ってるだけじゃこの戦いは終わらないということだ。
 今のところの選択肢は、主人が諦めるか私がアレを使われるかのどちらか。
 ……なんとしてでも、前者で決着する方法を考えなくてはならない。


「──?」

 と、俯いていた私の目の前に、いつのまにか何かが浮いていることにようやく気づいた。

 何かと思えばそれは、黒い刃。
 ──ギラヒム様の、短刀。

「なっ!!」

 引きつった声をあげ咄嗟に伏せると、頭のすぐ上の壁に短刀が突き刺さる。それも深々と。

「な、なんで…!」

 物音は聞こえず気配もなかったのに、短刀は確実に私を狙っていた。
 嫌な予感がして、おそるおそる物陰から顔を出す。

「見つけた」

 木材が軋む不気味な音。
 ゆっくりと部屋の扉が開かれ……重なった主人の視線に私は固まる。

「手を煩わせた分……存分に楽しませてもらおうか?」

 私が見たのは、魔力が宿り少しだけ異なった色彩を放つ彼の目。

 私は察した。
 ギラヒム様は──剣の精霊の、探索の能力を使っている、と。

 ……ただの喧嘩に、対女神用の力を使わないで下さいッ!!

 あの力を使われたらどこへ行こうがどう足掻こうが呆気なく捕まってしまう。マスターは逃げるという手段ごと私から奪い取る手段に出たらしい。

「ほら、考えてる暇は無いんじゃないのかい?」
「ひぃっ!!?」

 主人の愉しげな声と共に指を弾く音が響いて、私は反射的に身体を翻す。と、数秒前まで私がいたところに今度は三本の短刀が突き刺さる。本当にこの人、部下をハリネズミにするつもりなんじゃないだろうか……!?

 これが純粋な斬り合いなら私にも一瞬くらいは反撃の余地があるかもしれない。……が、ギラヒム様には飛び道具がある。
 普段私は銃でそれを補っているものの、残念ながら今それは自室だ。なんて愚かなんだと思うけれどこんなことになると予想してなかったんだから仕方ない。

「そろそろ逃げるのをやめて遊んでもらおうか?」
「……!」

 考えてる間も無く、主人の声が背後から迫ってくる。
 あえて時間をかけて追ってきているのは、私が恐怖し逃げ惑う姿をじっくり楽しみたいからだろう。
 それとは対照的に私を襲う短刀は休む間もなく切っ先を向け降ってくる。

 私は今しがた飛んできた短刀を魔剣でギリギリ弾き、意味がないと理解しながらもネズミのように家具の隙間を縫って物陰に入り込んだ。

「……も、むり……かてない……!」

 息を切らしながら絶望が口をついて出る。
 どうしたらギラヒム様に勝てるのか。逃げても見つかる、真っ向から戦ってもまず勝てない。
 やはり素直にひれ伏して、頼み込んでアレを出来るだけソフトに使ってもらうべきか……。

「──いや絶対無理」

 抱えた頭の中で、ギラヒム様が片手にぶら下げているアレを思い返すとそう呟くしかなかった。
 いくら優しく使ってもらっても身体のどこかしらが歪む未来しか見えない。本当にどこから仕入れてきたんだ、あんな凶器。

「……あ、」

 そこまで考えて、私はふと一つの可能性に行き着き声が漏れる。

 ……そうだ。逃げられないし戦えもしないなら──向かうしかない。


「……!!」

 私が意志を固めた、その瞬間。
 指を鳴らす音がやけに鮮明に耳へ飛び込んできて、私は反射的に身を捩る。
 たった今まで身を預けていた家具に短刀が突き刺さるのを尻目にそこから転がり出て、私は魔剣片手に主人と対峙をした。
 重なる視線は部下ごときの動きなど理解していたように愉しげに細まり、私を捉える。

「へえ? まさか正面にくるとはねぇ。実の主人を斬るつもりか?」
「さすがにマスターのことは斬りたくないですし斬れるとも思ってないですよ。──マスターのことは!!」

 言いながら、私は小さく息を吸ってマスターの懐へ飛び込む。
 重い剣撃を往なし追い打ちから逃れつつ、距離を開かないように堪える。ここから不意打ちを食らわせるなんてまず無理だ。

 でも……抜け道なら、ある。

「……!」

 刹那、主人が珍しく驚いたように息を呑んだ。私が向かう先が、己の身でないと理解したからだ。

 彼の片手がふさがっていて、両刀を使われていなくてよかった。
 だから私は、なんとか目標に辿り着ける。

「こんな教育に悪い物は……私が葬ります!!」

 ギラヒム様が目を見開く。
 その時既に私は一歩踏み込んでいて、瞬間、

 ──ギラヒム様の手にあるソレを、真っ二つにした。

 ……さよなら、私の体を改造する凶器……!!


「や、やったぁ!!」

 剣を収め、ど真ん中でぶった切られたソレを目にし両手を上げて歓喜する。

 そう、私は主人と戦うことをやめ──諸悪の根源であるソレを破壊することに目的を変えたのだ。
 斬られた後もその見た目は禍々しいことこの上なかったけれど、さすがにもう使うことは不可能だろう。仮に使われたとしても体の改造は免れそうだ。

 私は地獄から逃れた喜びと、いつもの戦闘よりも良い動きをしていたという自意識で浮かれてしまっていた。


 ──だから、
 私の背後で、主人が不敵な笑みをたたえていることに最後まで気づかなかった。


「…………リシャナ」
「あ」

 束の間の喜びが一瞬にして冷やされる、主人の声。
 私は不自然に両手を上げたまま、ゆっくりと振り返る。

 目があった主人は相変わらずの綺麗な笑顔を見せていて……私の喉が情けなくひくついた。
 彼は笑みを絶やさぬまま、形の良い唇を歪める。

「褒めてあげないとねぇ、ワタシの隙をついてコレを斬ってくれるなんて」
「あ……あ、りがとう、ございま、す……?」
「素直に誇ればいい。立ち回りも悪くはなかった」
「へ……」

 予想外の言葉に、思わず困惑してしまう。
 死ぬほど罵倒されるかと思ったのに、数年に一度の賞賛までもらってしまった。まさか、これは本当に怒られずに済む……?

 が、困惑しながらも本当に能天気な私の脳味噌を、
 ギラヒム様の視線が鷲掴みにした。

「だからご褒美に──もう少し“強い”方を使ってあげようか」
「!!?!?」

 私の目の前に、斬ったはずのソレが。
 いや……ソレをもっと大きくしたものが、現れた。

 さっきよりももっともっと痛そうだし、見てるだけで泣きそうになる──凶器を超えた、兵器。

「ま、マスター、今から土下座するのでッ」
「必要ないだろう。これはご褒美なんだから」
「ひいッ……!!」

 逃げようとする足はとっくに力が抜けていて、迫る主人の光景を最後に断末魔をあげながら、

 二度と主人に抗うことはしない。

 そう、私は固く、固く心に誓ったのだった。



“ソレ”が何だったのかは、ご想像にお任せします。