*ちょっと痛い描写あり
*主従どっちもネジが飛んでる
*脱がされはしますが致しません 獣が我を失い本能を剥き出しにする条件は様々だ。食料を目の前にし今まさに貪ろうとする時、仲間や子の命が脅かされ敵と戦おうとする時、自身の命の危機に瀕した時……。
魔物のそれも例外ではない。ヒトに近い体や言葉を持つ者ですら、己の本能に抗えない瞬間がある。
瞳孔は細まり鋭い牙をたてて、獲物へ我欲をぶち撒ける。その時の彼らに明確な意志があるのかどうか、それは本人にすらわからない。
だから、今目の前で我を失っている主人がどうやって自身を押し留めるかなんて──誰にもわからない。
「マスター……?」
これは、死ぬかもしれない。
戦場以外で滅多に持ち得たことのない危機感と、生温い汗が背筋を伝う。
私は今、ギラヒム様の手により地面に組み敷かれ、身に乗り掛かられている。
それは甘やかな情事の流れにおいて為されたものではない。ほんの少しでも逃げる素振りを見せたなら、すぐにでも息の根を止めて彼が食すのに適した姿にされる。そんな加虐的な欲だけが満ちた光景だった。
何故こうなったのか、私にもわからない。
数分前に足を踏み入れた聖域の空気にあてられて自我を失ってしまったのではという予想までは出来るものの、答えを知ったところでこの状況はどうにもならない。
私の腕を拘束する ギラヒム様は普段なかなか見せはしない犬歯を剥き出しにし、呼吸を荒げながら……欲に蓋をせぬ歪んだ双眸で私を捕らえている。
私の呼びかけもおそらく無視されたのではなく、聞こえていない。つまり、主人を止める術はない。……肉食動物に囚われた小動物は、こんな時どういう抵抗を見せるのだろうか。あまりにも場違いな疑問を、脳の奥でぼんやりと呟く。
「──!」
彼の呼吸に混じる言葉はなく、息をこぼしながら空いた片手で無理矢理服を脱がし……というより邪魔なものを払い除けるように引き裂いた。
しかしそれすらも煩わしくなったのか、終に主人は私の肉を着衣ごと噛み切るように上からかぶり付いて、歯を立てながら布を引き裂く。
……淫靡な光景だとは思う。
彼の生々しい獣としての一面が見えても、その姿は気高く綺麗に見えてしまうのだから。
ギラヒム様も魔物なんだな、と他人事のような自分がどこかで呟いた。
纏う衣服を除けられて最早私が彼から身を守る手段は何一つ無くなった。果たして彼が最初口にするのはどこなのか、覚悟すら出来ない。
主人に噛みつかれたことは何度もあるけれど、今回は弄ぶような甘い愛撫を目的とした生易しい行為ではない。
肌に直接犬歯を立てられたのなら、そのまま食いちぎられてしまうという確信はあった。
「マスター」
「────」
「……食べたいんですか?」
私の問いかけにやはり返事はない。
それどころか彼は無防備な私の身体を前にし、呼吸だけを繰り返したまま動こうともしない。
……さて、どうしたものか。
何もされないのは、彼の奥底に追いやられた自我による制止なのか、それともどこの部位から食すか決めかねているだけなのか。
そして私は主人のために何をすべきなのか。
考える時間はあまりないが、それは私にとって避けられない最重要の問題だ。
「……っ、」
そう呑気な思案を巡らせていると、不意にギラヒム様が私の鎖骨辺りへと唇を寄せ──浅く息を吸いながら歯を立てた。
予想していたよりも鋭い痛みが走り、肌が裂け出血したのがわかった。喰まれたまま肉まで持っていかれる……と身構えたが、そこまでで主人の口は呆気なく離れていった。
目を覚ましたのか、と数瞬思ったが違う。
ゆっくりと顔を上げ目にした彼の口元は赤い血でうっすら濡れていて、主人はそれをペロリと舐めとった。愉悦に溺れた、満足気な笑みを浮かべながら。
ああ、食べようとしているんだ。今の行為は迷いでも慈悲でもない。──ただの、“味見”だ。
結果私は、主人に食されるに値する食料だったらしい。
「────」
そう認識して同時に私が驚いたのは、主人の猟奇的な欲に対し、決して自身が抵抗感や恐怖心を抱かなかったことだった。
──私が決めた、私が死ぬ瞬間。
それは主人が魔王様に会えた後。
もしくは、主人の手にかけられた時。
後者の意図は、私が彼とって役に立たない存在となり切り捨てられる時のことを見越したものだったが……こうして求められながら殺されるなんてことは想定していなかった。
しかし、今。
主人が── ギラヒム様の本能が、私を欲しているのなら。
私は喜んで私を捧げるべきなのかもしれない。
「……そう考えたら、悪くないのかもしれないですね」
嘯きながら片手を上げ、未だ擦れた血の跡が残る主人の頬へ触れた。警戒するような一瞬の反応があったが、拒絶はされない。
私はぼんやりとその顔を眺めながら口元を緩め、吐息をこぼす。
「いいですよ、マスター」
「────」
主人の双眸がほんの少し見開かれる。ただ、そこに彼の意志が戻ってくることはまだない。……最期に声くらいは聞きたかったかもしれないけど、まあ……いいや。
私の手はするりと主人の頬を撫で、親指で柔らかい唇に触れる。
「残さず、食べてください」
──刹那、私を映していた彼の瞳の奥に、獰猛な炎が灯る。
一拍置いて、主人の牙が降りてきたのは首元だった。
次はもう、その牙が肌を食い破り私は呆気なく噛み砕かれてしまうのだろう。
生温い呼吸が肌に触れ、牙が皮膚へ到達する直前にまさぐるような柔らかい唇があたったと思えば、間を置かず刃が立てられる。
痛いのは嫌だと思っていた。……でもこんなふうに終わるのなら、案外悪くはないのかもしれない。それだけ、思って。
そして主人の牙が食い込み、焼けるような痛みが襲って──、
「──の、」
「え?」
微かに聞こえた吐息混じりの声に、本能的に瞑っていた瞼を開く。
肌に触れるか触れないかのところで主人はいつのまにか俯いていて、
「ッ……破滅的能天気部下!!」
「ひいッ!!?」
私は顔の真横に手を突かれ、間近で激昂した ギラヒム様に悲鳴を上げた。
いつのまにか彼の目には普段通りの意識が戻っていて。
加え……愚かな行為に走ろうとした部下に本気でキレていらっしゃった。
「い、いひゃい、ちぎれます、ちぎれちゃう!!」
「千切って欲しいと強請ったのはお前だろう……? それとも、その首に一生残る跡をつけてあげようか?」
ギラヒム様は怨嗟の声を落としながら、私の身体へ自重を乗せ口の端を摘み上げる。……どうやら自力で自我を取り戻したらしい。それはそれで良かったのかもしれないけど、この苛立ち方は後々喰われるより酷い目に遭わされる気がしてならない。
頬を摘まれ額に穴が空きそうなくらい指を押し付けぐりぐりされ、半泣きになったところでようやく解放された。それでも彼のご機嫌は斜めのままだ。
「とにかくッ……このタチの悪い場所からとっとと離れるぞ」
「あい……」
そう答えたものの、無残にもびりびりに破かれてしまった自身の服を見下ろしどうしようかと数秒悩んだ。すると ギラヒム様が一つだけ舌打ちをこぼし、脱いだ自身のマントを私に向かって放り投げてきた。おそらく羽織れ、ということなのだろう。
……まさかの役得。なんて邪心をほんの少し抱きながらありがたく身を包ませてもらうと、横目で様子を窺っていた主人が徐に口を開いた。
「……お前は、」
「はい?」
「……本気でワタシの餌になるつもりだったのか?」
目を見開き見つめ返した視線は、訝しげに細められた主人のものと交差をする。
彼の内心は、表情からは読み取れない。求められている答えが何なのか、私にはわからない。
しかしいずれにせよ、私が彼に告げる答えが変わることはないのだろう。
「──なりますよ。マスターが求めるなら」
口角を上げて己の主人を目に映し、言い切った言葉。
それに対して彼が驚きを見せることはない。むしろそう返ってくるとわかりきっていたような、呆れ混じりのため息をこぼして、
「……狂ってる」
そう呟いた。あとは「行くぞ」とだけ言い残して彼は歩き出す。
その後ろ姿を眺めながら、私は数分前に自身を本気で喰らおうとした主人の面影と重ねる。
きっと、迫る生命の危機に恐怖を抱くというのが正常な反応だったのだろう。実際、恐怖を一欠片も抱かなかった訳ではない。こうして命を失わずに済んだ今、確かな安堵を抱いているのだから。
しかしそんな自覚を持ちながら……それでもあの時生まれた自身の欲が忘れられない。
こうして──主人に食われたいと思う私ももしかしたら。
ある種のケモノなのかもしれない。