短編


「マスター、おかえりな……」

 バシャンと瑞々しく弾けた音が私の言葉尻に被さった。地面に落ちて目的もなく転がる水桶は彼の爪先に当たってようやく停まる。しかしその行き先を私の目が追うことはなかった。

 数時間前に一人出かけようやく野営地に帰ってきたギラヒム様。
 待ちに待った愛しの主人は、全身を真っ赤に染めだらだらと質量のある液体を滴らせていた。

「ど、どどど、どうしたんですか!!?」

 私は初めて見る主人の衝撃的な姿に悲鳴混じりの叫び声を上げた。
 自身の足元に今しがた広がった水溜りを踏ん付け足が濡れる。しかしそんなことを気にする余裕はなく、彼が血みどろになった理由も対処の仕方も丸っきりわからない私はただただ混乱するばかりだ。

 彼が血を流すことなんて、あり得ないことだった。
 魔王様の剣の精霊、ギラヒム様の本来の姿を知る者なら理解は早い。この世界において、妖精や精霊と呼ばれる存在の身体は血を流すようにつくられていない。それでも傷を受けないわけでも、痛みがないわけでもない。傷がつけば命は削られ、痛みが走ればヒトと同じように苦しむ。……だからこそ、目の前の光景は異常でしかなかった。

「お、応急処置道具……!? その前に魔力薬の方が良んぐっ!」
「うるさいよ」

 騒ぎ立てる私の口を主人の一言と大きな手が塞ぎ強制的に黙らされた。赤い線が幾筋か垂れている顔を上げ、ご機嫌が決して宜しくなさそうな目を向けられる。そこで私がようやく気づいたのは、彼の表情には疲労感は漂っているものの負傷した際の逼迫した空気はないということだった。

「ここに帰る前に大型の原生生物が襲い掛かってきたから切っただけだ。まさかこんなに汚い返り血が吹き出すとは予想していなかったけれどね」
「んんぐん……?」

 塞がれたままの口からようやく納得の呻きがこぼれた。あまりにも全身真っ赤になっているものだから返り血だとは思わなかったが、たしかにギラヒム様が向かっていた森の奥では種族不明の原生生物が生息していると聞いた。返り血と言っても全身余すところなく血塗れになっているため、相当に大きな生き物だったのだろう。真相を聞いてもなお心臓に悪い。

 私はなんとか口を覆っていた手から解放され、お疲れ模様の主人をすぐに休ませる。そして急いで先ほど落とした水桶を拾い上げ、近くの川へ走って水を汲みに行った。
 本来ならこの血が彼のものでないとわかったとはいえ身体チェックをし傷があれば処置をすべきだ。しかしあまりにも血で塗れた身体から負傷箇所を見つけるのは困難だし……何より自身を汚されたことにより主人のご機嫌が急降下している気配を察したため、一刻も早く洗い流すべきだと判断した。
 ものの数分で帰ってきた私はたっぷり汲んできた水にタオルを浸して軽く絞り、座った主人の正面に屈んでお顔を失礼する。

「じゃあ、拭きますので……失礼します……」
「……ん」

 ……拒否されないということは拭けということでいいんだろうけど、なんだかすごく緊張するシチュエーションだ。
 とりあえず一番不快指数が高いであろうお顔から始めることにし、両目を閉じたギラヒム様の湿った髪を指先で避けて額から丁寧に拭いていく。
 どんな原生生物だったのか知らないが、体液か何かと混ざった赤いそれは私自身が流すものよりいくらか粘っこく感じた。白かったタオルはあっという間に赤く染まり、私は長期戦を覚悟する。

 何度かタオルを水に浸しては彼の肌を撫でるように磨いていく。布越しでも伝わる艶やかできめ細やかな肌の手触りを損なわせないように慎重に。……ついでにここぞとばかりに感触を堪能するつもりで。
 多少の邪心を抱えたこともあってかしばらく同じ行程を繰り返すと緊張が緩み、そのかわりに私の目は見慣れたはずの主人の顔に釘付けになった。

 ……ほんと、黙ってれば“容姿端麗”なのに。
 わざと手をゆっくりと動かし、薄れたとはいえ白い肌に依然浮き立って見える赤色を眺める。彼が本来染まることのないその色は奇妙に馴染み、自然にすら見える美しさがある。
 ふと彼の左頬を撫でていた指がほんの少しだけ冷えた箇所に触れる。そこは色素のない地肌の中で唯一はっきりと目立っている、菱形に塗られたような精霊としての“本体”が見える場所。何故かその部分だけを避けるように赤色は散っていた。

「綺麗ですね」

 主人の瞼が持ち上がり至近距離で視線が交わる。心臓が高鳴ったが目を逸らすことは出来なかった。
 不意に彼の口角が上がり、もはや見慣れた愉悦と嘲りが滲む笑みを向けられる。

「主人の顔を見るだけで欲情したのか? ワタシの美しさを前に仕方のないことではあるが」
「そういう訳では決してないので安心してください。ほら目瞑らないといつまでもベタベタですよー」

 軽くあしらわれた主人は普段なら不敬な部下へ反撃をするのだが、今は状況が状況なため不満げに舌打ちをこぼしただけで素直に瞼を閉じてくれた。
 私は気を取り直して水で濯いだタオルで主人の汚れを拭っていく。顔を終えた後は髪、腕……と全身へ。
 顔に見惚れていたせいで時間がかかってしまっていたため、残りは手を動かすことに集中した。
 それでも思考はぐるぐると巡ったままだ。

 ──私は何故、血に濡れた彼を綺麗だと思ったんだろう。
 彼がもともと持つ美しさは、私にも理解できている。けれどそれとは違う何かに対するものだと頭の片隅が否定をしている。
 魔王様に従える剣の精霊の宿命として、長い長い戦いの最中傷は負えど血を流さず、痛みだけを内包し続けた主人。
 精霊の性質と言ってしまえばそれまでだ。
 けれど本来彼が流すべきだった赤い血液はずっとずっと身体を膿んだまま、瘡蓋になることもなく……彼の中に存在し続けるのだろうか。

 綺麗だと思ったのは、そして彼の左頬の冷たさが未だ指から消えないのは。
 目の前にいる主人の存在を、哀しいと思った身勝手な感情なのか──。

「主人の身体を拭きながら感傷に浸るな」
「った!」

 そんな思考は額にピシリと当たった軽い痛みで打ち切られた。顔を上げると両眼を閉じたままのギラヒム様がノールックでデコピンをかましていた。
 手は止めずに動かしていたし表情を見られた訳じゃないのになんでわかったんだろう、と訝しんでいるとそれすらも見えているように主人は一つため息をこぼす。

「……本当に仕方のない部下だね、お前は」

 唇まで届いたはずの私の声は、引き寄せられた主人の固い胸板の中で押しつぶされてしまった。
 唐突に私の頭を引き寄せた彼の微かな吐息が真上で落ちて、自身が彼の中にすっぽり収まったことを理解する。

「ま……マスター、まだ終わってな、」
「うるさい。騒いでないで黙って耳を働かせろ」

 反論しようとしたものの後の言葉は頭を胸に押し付けられたまま出すことが出来なかった。
 抵抗すれば逆に窒息させられそうなので、言われるままそこに身を預けて耳の神経を澄ます。

「────、」

 そして鼓膜に届いた、遠く、それでいて規則正しく刻まれる音。反射的に開きかけた口を意識的に噤み、脳にまで響くよう、一音一音を確認するよう聞き入る。
 私を捕らえていた彼の手はいつの間にか柔らかく肩を撫でていた。顔を上げればその表情を知ることは容易かったけれど、そうするつもりはなかった。

「どうせワタシの過去の傷について余計な詮索でもしていたんだろう」
「……当たりです」

 主人は「バカな子だ」と唇だけで笑う。憐みも呆れも含まれていた声音だった。
 ……しかしその中に、僅かな憂いが閉ざされていたような気がして。
 まだ顔を上げられないままの私が答えを知る術は無い。

「この身体でどれだけ傷つこうが魔王様のための自身に生まれたことへ不満はない」
「…………」
「さらに言えば……最近は余計な思い込みを勝手にする浅慮な部下を手懐ける楽しみも出来た」

 言いながらギラヒム様は細い指で私の頭を小突く。
 耳に届く心音は彼が生きていることの他ならぬ証明だ。背負った痛みも傷も、目には見えない。それらが癒される未来が在るのかすら、わからない。
 それでも主人の拍動は毅然とした意志で止まることはない。

「ワタシはワタシとして生まれたことを後悔していない。昔も──今も、ね」

 長く息を吐き出して、ようやく私は主人の顔を見上げた。
 黒い両眼に写る私は少しだけ呆けた表情をしていて、思わず口元が緩む。

「かっこいいですね、私のマスターは」

 小さく笑う彼からは纏っていた憂いは消えていて、私はもう一度だけ彼の中に顔を埋めた。
 自身の主人を誇ると同時に、見えない傷がこの先癒されずとも……せめて報われるために戦おうと、思いを決しながら。
 
「……ところで、抱きついた私もベタベタの巻き添えになってしまった訳でして」
「お前はワタシと違って繊細に出来ていないのだから、川に丸ごと浸かればいいだろう」
「わあーりふじーん」
「知るか。さ、とっとと手を動かせ。一ミリでも残したら原生生物の餌にするよ」
「もうそんなに言うんだったら頑張って早く帰ってシャワー浴びましょうよー……」

 そう文句を垂れながら、私は主人に馴染みながらも不釣り合いな鮮血を洗い流していくのだった。