短編


「んー……星が見たいなー」

 一人寒空へこぼした呟きは緩やかな風に乗り、虚しく暗闇へと消えていった。

 頭上を覆う分厚い雲が半径たった数メートルでも避けてくれれば叶うことなのに。空の世界と違い、大地の夜は月も星も見えず景色が味気ないのが欠点だった。
 眼下には果てしない森が広がっている。私がいる切り立った崖の上から見下ろせば、それは黒い海のようにも見えた。だからと言って考えナシにそこへ飛び込むことはすなわち地獄行きを意味する。

「……もう少しだけでも明るければ、いい眺めなのに」

 叶わぬ文句を垂れつつも、野営地から夜の森を抜けここまでふらついてきたのは、私の独断だった。

 私は今回少し遠い地方へ、我が主人──ギラヒム様と足を伸ばしていた。故に野宿という過程は必然的に発生し、今夜は森の外れで休憩を取ることになった次第であった。

 ギラヒム様は私が抜け出してくる少し前には微かな寝息をたてておやすみになっていて、対する私はどうにも寝付けず気の向くままその場を離れてきた。
 そうして森を一望できるこの場所を見つけ、眠くなるまでと曖昧な期限だけを決め無為な時間を過ごしていたのだった。

「……?」

 そんな茫洋とした思考の海を漂っていた私を現実へ引き戻したのは、不意に耳へ飛び込んできた物音だった。
 背後から聞こえたそれは枝葉が揺れる程度の些細なものだった。だが、動物でもいるのだろうかと深く考えることなく私はその正体へと振り返り──小さく目を見開く。

 そこにいたのは、先ほどまで野営地で眠っていたはずのギラヒム様だった。……それもやや不機嫌そうなお顔の。

「マスター……起きちゃったんですか?」
「お前がたてた音で目が覚めた」
「あら……」

 低い声でそれだけ返され私は思わず顔を強張らせる。
 どうやら注意が足りていなかったらしい。無意識に物音を立ててしまったか……もしくは出かける直前に彼の寝顔を凝視したからか。たぶん後者のせいだ。
 ギラヒム様は言葉を続けずに私の隣へと座る。ご機嫌はあまり宜しくなさそうだけれどお仕置きはしないでくださるみたいだ。眠いし面倒だからだろう。

 そのまま夜の穏やかな空気を感じながら、束の間の沈黙が二人の間に訪れた。時折やわらかな風が体を撫でては体温を少しずつ奪っていく。さすがに少しだけ寒くなってきたかもしれない。
 私は庇うように自身の肌を擦り合わせ、主人は寒くないのだろうかと何気なく視線を目先の森から逸らした……その時だった。

「────、」

 私の視線は行き着いた先で、彼のものと真正面からかち合った。いつからそうしていたのか、前置きもなくじっと見つめられ私は言葉に詰まる。
 そして私が口を開く前に、彼の薄い唇が震えた。

「甘い」
「……え?」
「甘い匂いがする」

 何の、こと──?
 そう思った時には主人の整った顔は間近にまで迫っていて、自然な動作で腰に回された腕は私から逃げるという選択肢を奪い取っていた。
 よくわからない拍子に何かしらのスイッチが入ってしまったのか、彼は私の耳元へ唇を近づけ言葉を吹き込む。

「食欲がそそられる」
「ま、マスター……いきなりどうし、」
「お前が、欲しい」

 部下の動揺の言葉を遮り、白く細い指が私の顎を輪郭に沿ってなぞる。良い匂いがするのはむしろ彼の方で、私の脳はくらりと揺さぶられる。
 何も言えない私の答えを急かすように、彼は低く濡れた言葉を紡ぎ続ける。

「お前が……リシャナが愛しい」
「マスター……?」

「──愛している」

 その声音が、耳朶を震わせた。

 体温が上がる。鼓動が激しくなる。私を捕らえる主人の体に、何も考えず身を寄せてしまいたいとすら思う。
 私は熱が滲む視線から逃げるように目を逸らす。混乱する頭を落ち着けたかったし、何よりその言葉を紡いだ彼の姿を映し続けるのは……難しかった。

「……私も、大好きですよ」

 俯いたまま、心音に紛れてしまいそうな声でそれだけを返す。
 私の答えを耳にした主人の口元が三日月型に歪んだのが見えずとも、わかった。

 だから、私はそのまま、

「大好きなので……そろそろ“ホンモノ”に甘えに帰りますね」

 ──腰から抜いた魔剣を、目の前の主人の胸へと突き刺した。

「……あレぇ?」

 壊れた玩具のように不規則な抑揚を持った声が落ち、カクンと彼の姿をしたソレの首が折れる。
 剣が貫いたその部分からは赤い血ではなく光の粒が溢れ出し、やがてギラヒム様だったモノは光と共に溶け崩れ、霧散する。
 クスクスという、子どものような笑い声だけがその場に残った。

「……夜更かしなんて、するもんじゃないな」

 私は魔剣を腰に収め、長く深いため息をつく。……まさか森の精霊にあんな悪戯をされるとは。
 早い時点で気付いていたものの、ほんのちょっと陥落されかけた自分が腹立たしい。加えて偽物とはいえ大好きな主人の胸を剣で貫くのはなかなかにトラウマになりそうな体験だった。

 森のそこかしこでふわふわと漂う精霊たちを恨めしい視線で一瞥し、私はホンモノの主人が待つ場所へと引き返した。

 * * *

 ギラヒム様は私が凝視した時と変わらず、綺麗な寝顔を保ち大木に身を預けながらおやすみ中だった。
 私は少し迷って彼にぴったりと寄り添う形で簡易毛布にくるまる。単純なもので、ほんのりとした温かさに包まれると胸の内にもじわりと安心感が広がった。
 その感覚に身も心も委ねたままゆっくりと瞼を下ろそうとした、その時、

「……精霊なんぞにしてやられるとはお前もまだまだだね」
「!!?」

 真横から耳朶を揺らした声に眠気は一気に吹き飛び、私はその方向へと首を捻る。
 先ほどまで閉じられていた瞼はうっすらと開かれ、正真正銘、ホンモノの不機嫌な主人が目を細め私を睨んでいた。
 私が精霊に遊ばれたことは既に察しているらしく、彼は呆れ混じりの嘆息を小さくこぼす。

「お前が遊ばれたのが色情精霊だったら喜んでワタシも加わったが、悪戯程度にしか魔力を使えない小精霊に遊ばれるとは」
「すみません……あと色情精霊だったとしても喜んで加わらず助けていただけたらありがたく存じます……」
「それは無理なお願いというものだね」

 そのまま罵り貶されることも覚悟したが、主人の言葉がそれ以上続くことはなかった。彼も一度目を覚ましたとはいえ未だオネムのようで、もう一度眠りにつこうと腕を組み直す。

 そして私はというと……ふと一つの疑問が浮かび、不機嫌な今の主人に聞くことではないと内心で思いながらも彼の横顔を見遣る。

「……マスター」

 小さくこぼした敬称に、彼は片目だけで私へ視線を送る。艶のある表情に胸の内がざわめいたが、その目を見つめ返し私は続ける。

「偽物のマスターに口説かれました……って言ったら、どうしますか」

 我ながら不躾で狡い質問だと思った。
 それでも問いかけてしまったのは、偽りの彼でも……その声で『愛している』と言われた瞬間が脳裏に焼き付いていたからなのだろう。
 無論、彼が同じ言葉を紡ぐことを望んでいる訳ではない。が、その事実に彼が何を思うのか、と無粋にも興味を持たずにはいられなかった。

 ギラヒム様は私の問いに対し何の反応も見せず、片目を伏せて静かに結んでいた唇を開く。

「何もしない」

 瞑目したまま、彼は答えた。
 ……予想はしていたものの少しだけ肩を落としてしまった自分がいる。その答えは半ばわかっていたのに。

 しかし俯いたままだった私の顎は彼の指に唐突に掬われる。
 彼の両眼はいつのまにか開かれていて、その顔に深い笑みをたたえたまま続けた。

「お前が『おねだり』をしない限り……ワタシは何もしてあげないよ」

 触れそうな距離に迫った唇が揺れて……低く、告げられる。
 私はその声音に酔いながら、ギラヒム様の本質を改めて思い知る。

 ──彼が私を離さない理由は、支配欲。ただそれのみだ。
 それが愛より深いものなのか、全く別種のものなのか。私にはわからない。しかし自身が溺れたのはこの欲望で、懐柔され彼の思うままにされ初めて私たちの関係は成り立つのだと思い知る。脳に刻まれる。
 望む答えをそうしてお預けにさせられても、もうそこに目を向けることは出来ない。

 私は揺さぶられた自己を精一杯保ちながら、力なく彼に身を預けた。

「……いっぱいおねだりします、帰ってから」
「したいのならイイ子でいることだね。ワタシはもう眠い」
「はい。……おやすみなさい、マスター」

 毛布にくるまる主人の隣に再び寄り添う。彼は眠る前の最後の儀式というように私に唇を押し当て、そして互いが互いに身を委ねたまま眠りについた。 

 精霊のクスクスという笑い声が森の彼方で聞こえた。