短編


「何触ってるんだい?」
「あ」

 今まさに自分がしていた行為の危うさを自覚したのは、真上から我が主人の低い声が降ってきた時でした。

 肌寒さが屋内でも体に付き纏う季節。空ならば部屋を暖める設備や体を包む衣服はいくらでもあるのだろう。それに対し、寒さに強い亜人たちが住む地上にはそんな優しい文明の恩恵はなく。

 中途半端に人と同じで寒さに弱い私は毛布にすっぽりくるまって、同じく寒さに弱いはずなのに強がっているギラヒム様も、やはり暖かさを求めて私の毛布に侵入してくる。
 外から帰ってきたばかりの主人は体も手もひんやりしていて私は悲鳴をあげる。それでも断固として離してくれない彼と戦いながらいつのまにか疲れ二人して眠っているのがこの頃の日課となっていた。

 そうしていつもの夜を過ごし、ひんやりとした空気を暖めようと太陽光が降り注ぎ始めた爽やかな朝。
 窓の隙間から差すやわらかな陽光が顔をくすぐって、私はまどろみの世界からゆっくり瞼を開けた。軽く伸びをし、隣で寝ている主人を起こそうかなと頭が働き出した私……だったのだけれど、

「……おおぅ」

 目を開いた私は至近距離で飛び込んできた光景に、不自然に上ずった声を漏らす。
 はじめは壁かと思った。あながち間違ってはいないのだけれど、それは平らでなく滑らかでありしなやかな線を描いている。きっと触れば跳ね返るような堅さなのだろう。見ているだけでそれが伝わる、完成されたといっても過言ではないそれ。──つまりギラヒム様の上半身である。

 無意識にも食い入るようにそれを眺めてしまった私。ちらりと目線を外せば当の本人は何事もないように綺麗な顔立ちを保ったままお休み中である。
 ……なんでこんなに寒いのに上半身裸なんだろうこの人。とも思ったけれど、いつも裸に近い格好をしてるし脱いでいたところで変わらないのかもしれない。

 完全に眠気が飛んだ私は改めて目の前の整った筋肉をまじまじと凝視する。いつか空で読んだ雑誌に筋肉は美なんて少し危ない言葉が踊っていたのを思い出したけれど……これを見たらちょっとわからなくもない気がする。

 そして私はここで眠っているのが綺麗な寝顔をしていながら私を虐める時は全力を超える全力で、目前の筋肉をフル活用しながら暴虐の限りを尽くす主人だということも忘れて……その身体に手を触れたのでした。


 ──それから冒頭。
 その声が頭上から降ってきた時には、思いっきり手のひらでしなやかな筋肉を堪能した後で。
 今日は天気が良いから彼の目覚めも良いなんて考えればわかることだったのに……!

 主人の氷の視線を一身に受けながらお布団の中にいるはずなのに冷えていく体温。いいお天気なのに、冬の夜より体の芯が強張る。

「主人の眠りを妨げるだけでなく許可もなくワタシの体を触るなんてねぇ、リシャナ?」
「いやえーと……無意識に手が伸びちゃったというか……」
「無意識ねぇ……主人のことを日頃変態だの何だの言っておいて、ね?」

 そんなこと根に持ってたのかこの人……!
 しかし日頃のマスターの変態っぷりを差し置いたとしてもこの冷たい視線は至極真っ当な反応であるわけで、私は返す言葉もなくお布団の中に顔を埋める。本日のお仕置き回避は諦めたほうが良さそうだ。

「でも、ほんとに綺麗だって思ったんですよ? ──それに、」

 そこまで言って、ふと私は口を噤む。

 ……それに、気づいてしまった。その美しさに紛れ、時間と共に薄れてはいるものの数えきれない古傷を彼が抱えていることに。
 ──全てはたった一人の存在を助けるために得たもの。
 そして彼にあるのは目に見える傷ばかりでなくて……今も血を流し続ける見えぬ傷も、少なからずあるのだろう。

 閉口した私の考えを知ってか知らずかギラヒム様は続きを促さず、かわりに溜め息を一つこぼして毛布に埋もれていた私の顎を無理矢理掬う。

「ワタシの身体が美しいことは公然の事実だからね。その手に触れたくなるのも当然だろう」
「ま、全くです、マスターすごーい」
「けれどその対価が必要なのはお前の小さな脳みそでもわかるだろう?」
「う……」

 言ってる間にも主人の細くて長い足は私の下半身に絡みつき気づけば為す術もない状態に。そのまま技をかけられてもおかしくない体勢というか、この細さでどっからこの力が出てくるんだ!!

「触った対価は触られて返すのがシンプルだよね?」
「えっとマスター、それいつもやってることと大して変わんな……うああそこつかまないでー!」
「うるさいねぇ朝から。ああそうだ。このあたりはいつも触っているし、今日は普段触れていないところを触ってあげようか」
「ふ、触れてないところって……!? そこ朝から触るとこじゃないです!! ゆ、許してぇぇ!!」

 好奇心は猫をも殺す なんて言うけれど、彼の場合は殺す前にいじられ遊ばれ好奇の対象から引き剥がされてしまうのだろう。
 やはり我が主人はいつまでも私の手綱を握って離してくれないらしい。