Novel
凶に還る
リーベが憲兵団兵士に襲われた。
その意味を理解した途端、血の気が引いた。
自分がどのような顔をしていたのかわからないが、すぐさまミケが続けた。
「落ち着け、彼女は軽傷だ」
軽傷だから、それがどうした。
そう口にしようとして、続いたミケの言葉に再び胸が騒いだ。
「しかし処分を受けることになった」
「待て、おかしいだろうが。被害を受けたのはこっちだ」
「憲兵団側が彼女のしたことを『やりすぎだ』と判断したからだ。正当防衛であるとはいえ――」
ミケが言葉を濁し、それから重く口を開いた。
リーベを襲ったその兵士は完全に視力を失ったという。
「…………」
当然の報いだろう。
そんなやつは殺したって良い。
真夜中。
暗い通路で待ち構えていると、出て来た。
質素なブラウスに紺のスカート姿、手には小さな鞄を持ったリーベは俺の姿に驚いたように目を見張った後、口を開く。
「どうされました、兵長? もう夜中ですよ」
「そんなことはどうでもいい。それよりお前――」
平気かと訊きかけて、やめる。平気なはずがない。それにこいつは嘘でも大丈夫だと言うだろう。この問いは無意味だ。
俺は改めて目の前にいる女を眺めた。
開拓地にて十日間の労働。
それがリーベに下された処分だった。
これでもエルヴィンとリーベの直属である上官のミケが力を尽くした結果だとわかっている。下手をすれば憲兵団の地下牢行きだったからだ。
それでも納得など、出来るはずがなかった。
「行くな。前の処分の時みたく俺の部屋にでもいろ」
するとその時のことを思い出したのかリーベは曖昧に笑って、
「ミケ分隊長を投げ飛ばした時のことですね。――前とは事情が違いますよ。私が相手にしたのは癒えることのない傷で、兵士として使い物にならなくなることです」
「何言ってやがる、お前」
その言葉に苛立ちが募る。
そうしなければ、誰が傷を負っていたのかわかっていないのか。
ふざけるな。お前が重い傷を負わなければ誰も納得しないのか。
薄闇ですぐには気付かなかったが、リーベの頬には擦過傷が出来ていて、よく見れば左手と首に包帯が巻かれている。
そのことに自分でも驚くほど胸が痛んで、知らず拳に力が入る。
「どう考えても被害者はお前で今回の処分に従う必要はない。その頬や左手が証拠だろうが」
「私がこれくらいに済んだのに、ですよ」
「『これくらい』だと?」
思わず声を荒げたが、顔色を変えることなくリーベは言った。
「十二歳の時と同じです。相手が死んだから私は屋敷を追い出されて――相手を傷つけたから、今回はしばらく処分を受ける。こちらとしては正当防衛でも、仕方ないことです。兵団から追い出されなかっただけマシだと思わないと。相手もしばらく憲兵団の地下牢みたいですし、喧嘩両成敗?」
「……お前はそれでいいのか」
「私の正しさが世の中の正しさじゃないことは知ってます」
そこでリーベは首を傾げた。
「兵長らしくないですね」
「俺らしいって何だ」
「取り決めに対して従順なところです」
リーベは困ったように笑う。まるで俺が駄々をこねているように。
だが、俺は間違っていない。
その一心で自分の部屋へ引き入れようとリーベの腕へ手を伸ばす。
「今後のことは俺も考える。とにかく今は行かせねえ。いいから俺の部屋に――」
「だめですよ。私は行きます」
あっさりと拒まれて、面食らう。
こいつは基本、いつも俺に従うのだ。強いれば尚のこと。だから言う通りにするものだと、そう思っていた。
予想と反したせいか腕をつかもうとした手は届かない。動かなくなってしまった。
「少しの間ですけれど――」
リーベが言った。その表情は見えない。
そして、今後俺を苛むことになる悪夢のような言葉を口にした。
「お別れです」
思考が止まったわずかな隙に小さな身体がそばを通り抜ける。微かに甘い花の匂いがして、消えた。
離れて行くその姿に声をかけることはもちろん、追いかけることさえ出来なかった。
血がにじむほど拳を作っていたにもかかわらず、長らくそのことに気づかなかった。
翌朝。
気分は最悪だった。
兵士の務めとして眠ることはしたが、とても休まった気がしない。
「殺してえ……」
元凶である、その男を。
小さな女だから、力で押さえ付けてしまえば身体を自由に出来ると安易に考えたのだろう。
もしもあの女が弱く、今回のことが未遂で済まなかったならと思うと、想像するだけで苛立ちや怒りなどでは言い表せない感情が果てなく広がり、精神が摩耗する。頭の芯が熱くなって気がおかしくなりそうだった。
ただ殺すだけでは済まさない――死以上の苦痛を与えてやる。
同時に胸の内を苛むのは、彼女の言葉。
『お別れです』
互いに務めがあるのだから、会えない日などこれまでいくらでもあった。それが何日か続いたことだってある。
だが、それは会おうと思えば簡単に埋められる距離のものだった。
それが今は違う。兵団本部内のどこにもいないのだと思うだけで、胸の内が荒む。十日という時間が永遠に続くように思える。
「クソが……」
あの時。
振り払われる覚悟で手をつかめば良かったのか?
振り払われても力づくで傍に置くべきだったか?
わからない。
どうすれば良かったのか。
もう、何を選択しても変わらないというのに。
その時部屋に響いたノックの音に返事をすれば、ミケだった。
「午前の幹部会議が夕刻に変更された。エルヴィンからの伝言だ」
そういえばそんなものがあったか。
あの女のいない日常をしばらく過ごさねばならない事実が改めて押し寄せる。
どうにか了承の意を伝えるが、ミケは動かない。
「何だ」
「リーベは果敢で躊躇いがない。相手が巨人でも――人間であってもな」
「おい、用が済んだなら出て行け」
ただでさえ荒れた感情を逆撫でされたように思えて、射殺すように容赦なく睨む。
視線を受け止めたミケは肩をすくめた。
「ああ、そうだな。……ところで午前は空いただろう。医務室にでも行っておけ、リヴァイ。ひどい顔をしている」
「医務室になんざ、用はねえ」
「あそこは休む場所だ。心も、身体も」
「…………」
十分後。医務室前。
なぜミケの言葉に従ってここまで来たのか自分でもわからない。俺は気がおかしくなったのか。
医務室へ入るなり、医療班を束ねる老婆に窓のない部屋へ通された。様々な症状の人間が利用するのだから、このような部屋も必要なのだろう。どうでもいいことだが。
ベッドもあったが大きなソファへ身を預けた。
疲労から片手で顔を覆っていると、小さなノックの後に扉が開く。
白い衣服――医療班の制服に身を包んだ女が茶を置いて行った。
朝から何も口にしていないことを思い出し、無造作にカップを取る。
何も心に浮かべることなくそれに口をつけて――思考が止まった。
「…………」
この味は、知っている。リーベが淹れたものだ。
なぜだ。あいつは今、ここにいないのに。
俺は味覚までおかしくなったのか。
まじまじと茶を見ていると、そばで声がした。茶を持ってきた女がまだそこにいたのだ。
「お味はいかがですか?」
柔らかい声に、はっと顔を上げて目を見張る。
そこにいたのは、ここへいないはずの女だった。つい昨夜別れたばかりの女だった。
「お前……」
リーベ。
思わず名前を呼びかけて、静かにとジェスチャーで指示される。
「どういうことだ」
説明を促せば、リーベは包帯の巻かれた左手を軽く持ち上げた。
「先日の壁外調査で左手を負傷した退団希望の女性兵士と入れ替わりました。開拓地にいる憲兵団は私の名前しか知らないから問題ないとエルヴィン団長が考案して、その女性も今後開拓地で生きるつもりだからと最後の任務として引き受けて下さって。もしも845年のようなことになった時、私には開拓地ではなくここですべきことがあるはずだからと――」
思いがけない真実に脱力する。
ミケが医務室へ行けと言った理由も、わかった。
「――ということで、人の目を盗むために今日から十日間はほとんどこの部屋で過ごすことになりました」
「医務室なら簡単に来れるだろうが。言えよ、お前……」
「……知らないなら、ああ言うしかないでしょう。大体、私は兵長がこの入れ替わりを知らなかったことに驚きましたよ。幹部は全員知ってるとばかり」
俺に情報を与えなかったのはミケだとすぐにわかった。結局教えておきながら、どういうつもりだあいつ。
同時に、悪夢にも似た昨夜のことを思い出して、それだけで胸が締め付けられた。
わかったことがある。こいつの決めたことに、俺はどうすることも出来ないのだと。
たとえ離さないと俺が決意しても、こいつの意志があれば俺は離さざるを得ないのだと。
だが――少なくとも今はそばにいる。
「おい」
「何です?」
会えないとばかり思っていた女の頬へつい手を伸ばしかけて、やめた。
今さらではあるが、思えば俺もこいつを襲った兵士と同じ男だ。
『お前は男が怖くないのか。昔、襲われかけたんだろう』
『その通りですけれど、別に恐怖症ではありませんね』
かつてそんなやり取りをしたが、今はどうなのかわかったものではない。
触れることでリーベにどのような感情を与えるだろうかと考えて――それは違うと気づく。俺はただ、この女に昨夜のように拒まれることを恐れているだけだ。自分のことしか考えていない。
これではこいつを襲った男どもと同じだと歯噛みして、じっと目の前にいる女を見つめる。
すると、
「あ、お茶のお代わりですか?」
リーベは俺へ向けて穏やかな笑みを浮かべた。その表情は――思わず呼吸を忘れるほどのものだった。
駄目だ。
抑えられない。
俺は最悪だ。
止められない。
「リーベ」
手を差し出し、それ以上は何も言わずに彼女が触れるのを待つ。
相手の心中もわからない上に、これなら拒まれても自分は傷つかない、最低のやり方だ。
彼女が動かなければ「何でもない」と手を引けばいいだけなのだから。
情けない話だ。
こいつの心だけは、きっと守りたいと思っていたはずなのに。
結局、俺は――
「どうされました?」
リーベがそっと、指先を置いた。
きょとんとして、わけがわからないというように――そして、そうすることが当たり前のように。
その小さな手の感覚に――自分がどれだけそれを渇望していたか思い知った。
『リーベは果敢で躊躇いがない』
ミケの言った通りだ。
人間だろうが巨人だろうが、どんな敵を前にしても、揺らがず容赦ないまなざしでこの女は対峙する。
そして、それだけではない。
「お前は……強いな」
呟くような声に対して、リーベは律儀に返事をする。
「そんなことはありません。――だから兵長みたいに強くなりたいですね」
「……そうか」
この女に焦がれるような強さを身に着けていたいものだと思いながら、名残惜しくも手を離して立ち上がる。もう午前が終わろうとしていた。矢のような時間の速さだ。
「また来る」
「いつも来ない人が急に医務室に通うようになったら皆びっくりしますよ」
「じゃあ夜だ」
「逢い引きみたいですね」
「間違っていないだろう」
そう言えば、リーベはうっすら頬を染めた。その表情に、胸が満たされる。
この時間が、失われなくて良かった。心底そう思う。
手の届かないところへ消えなかったこともそうだが、こいつが愚かな男に屈せずにいたこともだ。
そこで遅蒔きながら気づく。やるべきことはまだ、残っていると。
数日後。俺は内地の憲兵団本部にいた。
「本当に来たのか、リヴァイ」
「お前らが手続きだ何だのとうるせえから俺は数日待ってやっただけだ、ナイル」
射殺すように睨めつける。ミケと違ってこいつはすぐに目を逸らした。
「恐ろしい男だな、お前は」
「言っておくがあいつを憲兵団に渡すつもりはない」
「……何のことだ」
「とぼけるな。今回の件にかこつけて憲兵団で見張るだの言いがかりで調査兵団から抜けさせ、手元にでも置くつもりだっただろう。――お前はまだあいつの腕前が忘れられないようだからな」
「…………」
渋い顔をしたナイルをやり過ごし、目的の地下牢へ足を踏み入れる。
中にいるのは一人の男。目には包帯が何重にも巻かれている。
「人類、最強……?」
わけがわからないというような声だった。
「なぜここへ……」
俺はその男へ無言で歩み寄る。
こんなことは誰一人望んでいない。リーベさえも。そんなことはわかっている。
だがそれでも――。
迷いなどなく、目の前にいる男へ告げた。
「お前が知るのは痛みだけだ」
(2013/12/04)