Novel
始まりの翼
「じゃ、またね!」
現れた時と同じようないつもの調子で、あいつは飛び出していった。あの小さすぎる身体のどこにあんな元気があるんだ。
何にせよ、やっと帰った。帰ってくれた。あいつが長居したわけじゃねえのに、どっと疲れたせいでそう感じる。
疲れた。本当に疲れた。あいつの相手はとにかく疲れる。体力を消耗する。精神を摩耗する。
あと、とにかく口の中が苦い。
「何で俺がこんな目に……」
口直しをしようと立ち上がれば、唐突に疑問が浮かぶ。なぜ今まで謎に思わなかったのかと思うような、疑問。
あいつは、何だ?
少なくとも地下街の人間じゃねえ。
着ている服は地味でも上質で、多少汚れていてもここらの連中とは比にならない。
どう考えても『まとも』じゃなかった。
あいつは、何だ?
その疑問の答えを確かめるなら今しかないと思った。住処を出てあいつが消えたであろう方向を確認すれば、もう姿は見えない。だが、追うのは容易いはずだ。
その勘は間違ってなかった。現にすぐに見つけた。あいつはちょこまかと歩いてやがる。
だが、あいつを見ているのは俺だけじゃなかった。
盗み見るように壁へ身を潜めている、三人。どいつも俺よりかなり年上、大柄な男たち。よく見ればどれもつい先週痛めつけてやったヤツらだった。
「おい」
背後へ回って極力低い声を出せば、そいつらは振り向いて俺を見るなり顔を引きつらせて後ずさる。中にはまだ怪我が癒えてないヤツもいた。
対峙した瞬間、腰のナイフを使わなくたって、わかる。俺が勝つ。いや、すでに勝っている。
『いいか? 力には色々あるんだ』
これも『力』なのか、ケニー。
もう会うことも訊ねることも答えも聞くこともねえだろうけど。
感傷に近い何かについては考えないことにした。
距離を詰めて、問い詰める。
「何してやがる」
すると相手は怯えるように距離を取りながら拳を構えて、
「何だよ、お前はここにいなくても食いもんにありつけるだろ!?」
「これが俺らのやり方なんだ! どっか行けクソガキ!」
「あの子には手出しさせねえぞ!」
何を喚いてやがるのかわからねえ。そのことに苛立つ。こいつらはあのガキに何がしたいんだ。
「わかるように答えろ。お前たちは誰かに雇われてあのガキの面倒を見てるのか?」
わかりやすく指を鳴らせば目の前の男たちは震えあがって、
「違う! あの子のことは何も知らねえよ!」
「ただあの子が『消える場所』に――!」
「あ、おい! こうしている間に!」
背後の騒ぎなんざ気にせずにさっさとあのガキは足を進めていく。この地下街で浮いている存在のはずなのに、人目に付く前にすばしっこく移動している。
慌てて追いかける三人の男に俺も同じことをする他なかった。さっき男たちが話していた意味は何だと考えながら。
するとまた怪しい連中が視界に入った。今度は数日前にぶちのめした連中だった。この三人も怪我は治ってない。
「げ、リヴァイ!?」
揃って俺を見る顔をしかめたそいつらが装備しているのは縄や網、布袋。人間を連れ去ろうとしていることがありありとわかる装備だった。
それを見た最初の三人が目を吊り上げて、
「貴様らは手を引け!」
「誘拐なんかさせるか!」
「俺たちがあの子を守る!」
すると後から来た三人が首を振る。
「誘拐とかしねえって! 俺たちだってお前たちと考えてることは同じだ!」
「じゃあその縄や網は何だ!? どう見てもそうとしか思えねえだろうが!」
「あの子に危害を加えるヤツを縛るもんだ!」
「嘘つけ! 分け前が減ってもいいのかよ!」
「そんなもん人数分だけ増えるかもしれねえだろ! 神様は見てるんだからな!」
「そうだ、あの子は女神だ!」
「異議あり! オレはあの子が天使だと思う!」
大人の男どもが何人もごちゃごちゃやり取りしている間に、あのガキは大きな馬車へ近づく。一見しただけでわかる、地下商人のものだ。
この世界には地上にしかないものが大半だが、地下にしかねえものもある。そこに停まっていたのはそれを流通させる商人だった。
地下と地上を繋ぐのはいくつかある階段だが、中には一つ、馬車での行き来を可能にする坂となっている通路がある。そこを通って来たんだろう。そして出て行くはずだ。
つまりあいつは、あの商人の娘なのか?
だが、座席に入るのかと思うと荷台だった。滑り込むように乗り込んで、そのまま小さな姿が見えなくなる。商人はあのガキに気付く様子がない。取引をしている相手と談笑している。
やがて商人が話を終えて、馬車を出した。予想通り、通路のある方角へ走って行く。
そして、それまで停まっていた場に残されたのは――荷台に積まれていたらしい食料や包み。それがいくつも散乱していた。
近くにいた男たちは奇声を上げながら、地面に散らばっている荷へ突進する。そしてそのうち一人が誇らしげに声を上げた。
「ほらな! あの子が消える場所にはいつも食料や金目のもんが残されるんだ!」
いや、あのガキは自分が隠れて身を潜められるように、代わりに中に詰まっている荷物を適当に捨てただけなんじゃねえか。こいつらを慮る気持ちは微塵もないだろう。
「……なるほど」
たった今こうして俺が見ている限り、誰もあのガキに手を出したりといった妨害はなかったが、今までがそうであったとは思わない。その時は、恐らく影から見ていたこの男たちが身を挺して守っていたんだろう。
下手に危害を加えたり利用するよりも、守ることで利を得ることにしたらしい。
絡繰りを理解して、あのガキの強運と目の前の連中の馬鹿さ加減に何も言う気がなくなった。
やがて散らばっていたものをすべて回収した連中が拳を突き上げて、
「女神様万歳!」
「天使様最高!」
声をあげる連中を心底馬鹿だと思いながら上を仰いだ。空なんか広がってない、ただの闇を。
あいつは人間だった。
ただの地上の人間だ。
そんなヤツに振り回されて、疲れた。本当に疲れた。――おかげで、ケニーがいなくなった寂しさなんか感じる間がないくらいに。
窓から射すやわらかい陽の光さえ眩しく感じていると、そこで気がついた。夢を見ていたらしい。
「あ、目が覚めました?」
向かいの椅子にリーベが座っていた。
手には裁縫道具。肩が裂けた兵団用のジャケットを繕っている。
「……何してるんだ」
リーベははっと顔を上げて、
「すみません、ゲルガーさんの機嫌が悪いので勝手ながら避難させて頂きました」
「それは何だ」
「枝に引っかかったら思ったより派手に破けてしまって修繕中です」
「怪我は」
「大丈夫ですよ」
嗅覚に集中すれば、かすかに消毒液と包帯のにおいがした。『大丈夫』ではあっても無傷ではないということだろう、恐らく。
こいつの言葉選びには時々騙されそうになる。現に騙されていることも多いだろう。
「うーん、これでどうしょうか?」
リーベが手先で器用に針を操って、糸を切る。破れた箇所はほとんどわからなくなっていた。少し気になった箇所があるとすれば、
「紋章まで直したのか」
「見よう見まねでやってみましたが少し歪になってますね」
確かに支給されているものに比べると違和感はある。だが、それでも充分な出来だった。
リーベが裁縫道具を片付けている間に、寝起きのせいか喉の渇きを感じた。目の前にあるポットの中の茶が冷めないようにかけていた布を外し取っ手をつかんでポットを傾けてカップへ注げば、
「あ、その紅茶は……」
「何だ」
リーベは少し困った表情になって、
「私が調合した紅茶なので、お口に合うかわかりませんよ。いつ起きられるかわからなかったのでいつもの紅茶は用意していません。すぐに新しく淹れてきます」
「今まで誰に飲ませた」
「ペトラとニファさんには微妙な反応をされましたね。ハンジ分隊長にはもっとえぐ味が欲しいと言われました。モブリットさんとナナバさんからは『変わった味だね』と。ゲルガーさんは飲めれば何でもいいそうなので参考になりませんし」
「飲ませろ」
カップは一つしかなかったが、相手がこいつなら当然問題じゃねえ。
「ど、どうぞ……」
少し震える手で渡されたそれに口をつける。
「…………」
なるほど。好みは分かれる味だろう。だが、俺にとっては悪くない。
ふいに懐かしさを感じた。
「……俺も贅沢になったもんだな」
「え?」
「時々、不味い紅茶が飲みたくなる」
「ええ!? どうしたんですか!?」
この平穏を昔の自分が見れば信じないだろう。
今の俺でも信じられないくらいだ。
だから、いつかこの時間の代償を払うかもしれない。そして喪うかもしれない。
いつ巨人が壁を蹴破って現れるかわからないこの世界なら容易くそれは引き起こされる。
そんな世界で結局のところ俺は無力だ。仲間の多くを守ることは出来ないだろう。
目の前にいるこの女を守ることさえ出来ないかもしれない。
だが、リーベ。
俺は、お前の強さと、お前の生きる力を信じている。
あの頃から、ずっと。
「――いや、何でもない」
「そうですか?」
そこでリーベが何かを思い出したように瞳を輝かせた。つい呼吸を忘れて見惚れていると、
「そういえば、もうすぐ兵長のお誕生日ですね。今年も楽しみにしていて下さい」
はっきり言ってどうでもいいことだった。だが、兵団の連中がこぞって計画してやがることをわざわざ止める気にもならない。放っておくことにした。
むしろ関心があるのは、
「……今年も終わりか」
もうすぐ、850年の幕が上がる。
(2017/08/04)