Novel
未来は誰にもわからない

 離れた通路で見かけたリーベは普段と違う恰好だった。医療班用の白い服だ。
 前にも一度見たことはあるが、何でまた。怪訝に思っていれば俺の視線に気づいたリーベが近づいて来た。

 リーベは巨大な洗濯籠を抱え直しながら、

「手が空いたので医療班のお手伝い中です。ミケ分隊長の許可はもらってますよ」
「何をするんだ」
「医療の知識はありませんが掃除や洗濯とか雑用は出来るので。あと脱走者の取り押さえとか」
「最後は何だ」
「皆さん、早く退院したいんですよ」

 その時、リーベの頬に長い睫毛が一本ついていることに気づく。手を伸ばして、

「目、瞑れ」
「え、あの……こ、ここではちょっと……」

 リーベが想像しているようなことをするつもりはなかった。さすがにこの場所だと人目につく。俺は構わねえがこいつが嫌がることはわかっている。

「いいから」
「は、はい……」

 理由を言わずとも指示通りにするリーベが見られるだけで充分だ。

 目尻から頬へ軽く指先でなぞるように払えば、目蓋が小さく震えた。そして開く。

「何か、ついてました……?」
「睫毛」
「あ、りがとうございます……」

 ほっとしたような表情と憮然としたような表情が混ざった顔つきだった。

「…………なあ、リーベ」

 いつまでもこのままでいたい感情と、先へと進みたい感情、俺にはどちらもある。
 だがこいつは一体どっちなんだと考えていると、そこで腹の鳴る音がした。リーベだ。

 リーベは照れたように曖昧に笑って、

「そういえばお昼をまだ食べてませんでした」

 懐中時計で時間を確認してやれば、

「おい、もう昼の食堂は閉まってるじゃねえか」
「え!?」

 リーベも時間を確かめるなり顔をしかめて、

「……うっかりしていました。仕方ありませんね。何か作る気力もないので夕食まで我慢します」
「するな馬鹿。外で買ってきてやるから休んで待ってろ。あと――」
「そ、それはだめですよ! 申し訳な、ぐっ」

 言い終わる前にリーベの左の二の腕を強く掴めば小さく呻いた。
 昨日、偶然目撃したから知っている。立体機動中にバランスを崩して強く木の幹にぶつかって痣になっているはずの場所だった。

「ミケが許可出したことに口出しするつもりはねえが、怪我人の世話する前に自分の怪我を治せ」
「で、でもこれくらい大した怪我ではないので、というかあの、兵長、わかりましたからこれ以上、むにむにしないでください、私の、二の腕を……!」




 リーベが気に入ってるパン屋を目指せばすぐに着いた。だが昼も過ぎた時間帯のせいか品数は少ない。その中から適当に見繕っていると、

「あと五分で新しい商品が焼き上がりまーす! もう少々お待ち下さいませー!」

 明るい店内に店員の声が響く。それくらいの時間なら待ってやるかと考えていると新しい客が店に入った。髪の長い女だ。

「――あらあら、ちょっと品数が少ないわね。もう少し早く来れば良かったかしら。残念だわ」

 髪を揺らして歩きながら棚を吟味している瞳を見て、妙な感覚が走る。嫌な既視感だった。

 理由がはっきりしなくても店を離れるべきかと考えた矢先、その瞳に捉えられる。

「あら。久しぶりね、兵士さん」
「…………」

 誰だ、こいつ。

「もしかして私が誰かわからない? 思い出せない?」
「…………」

 俺が黙っていると、女は鞄から布を取り出して頭に被った。

「こうしたらわかるかしら?」
「!」

 そこでやっと思い出した。表情に出したつもりはねえが、女は嬉し気に目を細めて、

「そう、あなたの街の占い師さんでーす」

 晴れやかに笑う女と正反対の感情がこみ上げる。

 覚えている。顔は覚えていなかったが、思い出そうとしなくてもこいつの言葉はよみがえる。

『――あなたは「間に合わない人」なのね。今までも、これからも、ずっとそう』
『あなたはこのまま変わらない。いえ、悪化するわね。これからはもっと酷いことになる。「彼女」は血を流すし、あなたが伸ばした手は届かない』
『「彼女」は死ぬ』
『死を前にすればどんな意志も、強靭な肉体も、人と人を結ぶ約束や誓いも――そんなものは関係ない』
『あなたはずっと、助けきれないのよ。いつも間に合わない』

 ろくでもないことを言っていた。当たるとか当たらねえとかじゃねえ。そんなことは聞きたくも考えたくもなかった。

 当然、人間はいずれ死ぬ。俺も、リーベもそうだ。ガキみてえにそれを否定したり拒んだりはしない。

 それでも――

「私は基本的にシーナ中心でこの辺りに来ることはないんだけれど、ちょっと気が向いて来てみれば嬉しい再会があるものなのね。私はほら、他者の未来を見通せても自分の未来に関しては何もわからないから新鮮で嬉しいわ」

 どうでもいいことを話す女を黙殺していれば、

「そうだわ、新しいパンが焼けるまでの時間にあなたの未来を視てあげましょうか」
「やめろ」

 どうせまたろくでもねえことを言われるに決まっている。付き合ってられるか。

「私が対価なしに未来を視ることなんてないのに、もったいないことをするわね。――もしかして前と同じことを言われるんじゃないかと思ってるのかしら? そんなことはないわよ、だって一分一秒一瞬ごとに未来は変わるんだから」

 歌うように女が言葉を紡いで、少しのパンしかないはずの俺の背後をじっと見つめる。以前と同じ仕草だ。

「あなたの大事な人が死んでしまう未来は変わっていないみたいだけどね。『変わらない未来はない』けれど『死』は例外だし」

 その言葉で心臓が鉛のように重くなった気がした。クソ。真に受けないよう身構えてもこれだ。

 俺は恐れている。リーベを喪うこと。たとえもう二度と会うことがないとしても、生きていると信じられるならいい。だが、死を目の前で確かめることになればそうはいかない。

 感情を押し殺していると、女は相変わらず俺の背後を見ながら首を傾げる。

「――あら? うーん、『これ』ってどういうことなのかしらね?」
「…………」

 何だ、こいつ。急に何を言ってやがる。この前の自信満々の態度はどこに行ったんだ。

 俺が怪訝な顔をして見せても、女は晴れやかな表情になるだけだった。

「よくわからないけれど、わからないことがあるのは素敵なことね。やっぱり未来はそうでなくちゃ。そう思わない?」

 未来。

 過去にとっての現在。

 何年も昔――『あの頃』の俺が今の俺を知れば、どう思うだろうか。

 それさえもわからないんだ。先のことがわかるはずない。

 わからないから、リーベを喪う未来の現実を俺は受け入れられないかもしれない。

 だが、

「……あいつが死んだとして、あいつ自身はきっと悔いを残さない」
「そうかしら? 生まれる前の状態へ還るだけとはいえ、生きる人間には基本的に死の恐怖が備えられているの。だから死を前にして、それを受け入れるなんて容易ではないのよ?」
「恐怖と後悔は別だ。あいつは好き勝手に生きていくヤツだからな。俺が何をしようと、何を思っても関係なしに」

 最初はろくでもないと思っていた。振り回されて冗談じゃねえと。

 それでも、仕方ねえだろ。

 そういうリーベに惹かれるようになっちまったんだから。

「だから、それでいい」

 どんな未来だろうと、そこまで思うように生きるといい。俺も、そうするから。

「――良い目ね。未来と向き合い、戦う人の目だわ」

 女がそんな風に話した矢先、

「お待たせしましたー! 話題沸騰中で常に即完売の新作《季節のパン》スペシャルエクストラセットの販売を開始しまーす!」
「あら、待った甲斐があったわね。それを下さる? それから――」

 女が嬉々として店員へ近づいてあれこれ注文を始めれば、周りの空気が一気に出来立てのパンの匂いに包まれる。

 やがて会計を済ませた女が俺の横を通って店の扉へ手をかけた。

「さよなら、兵士さん。私は自分の未来に関して何もわからないけれど、きっといつかまたどこかで会えるでしょう。その時に、あなたが素敵な未来をつかみ取ることが出来ていますように」




 来店1000人目記念だとかで店員から無料で大量に渡されたパンを抱え直しながら考える。

 未来は誰にもわからない。だが、俺にだってわかる未来はある。

 例えば兵団で待つリーベが最初に口にする言葉。

 嬉しそうに駆け寄って来て、目を輝かせて――

「おかえりなさい!」

 俺が何より見ていたい、かけがえのない笑顔と一緒に。


(2017/07/23)
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