Novel
盤上をひっくり返せ
「……参りました」
今日は非番が重なったモブリットさんからチェスの手ほどきを受けていた。入団した頃から時々手合わせを願っているけれど、基本的に結果は変わらない。
私は役目を終えた駒たちを見下ろして、
「なかなか勝てませんね。勝機が見えた瞬間に霧散してしまって」
「最初の頃より強くなってる」
「その頃と比べたら強くなってなきゃ困ります」
私がむくれると「それもそうか」とモブリットさんが笑った。
チェスの世界は奥深い。64に区切られた盤上で6種類の駒、白黒合わせて32個の駒とその動きからなる組み合わせによって生み出される多様な局面は一種の芸術とも言われている。
私の場合、モブリットさんが誘ってくれたのがきっかけで嗜むようになった。
「私が新兵の頃はまるで試合になりませんでしたよね」
「懐かしいな」
「そういえば、どうして初心者を相手にしようという気になったんです? あの頃はもう今みたいにハンジ分隊長の副官で忙しかったんじゃないですか?」
「それは――」
そこでノックの音が響く。ちなみにここは二人で片付けたばかりのハンジ分隊長の部屋だ。
「どうぞ」
モブリットさんが応じれば扉が開く。兵長だった。
「モブリット。ハンジはどこだ」
「王都へ文献を漁りに行ってます。今日は戻りません」
「あいつ、俺の資料持ち出したきり戻してねえぞ」
「すみません、確かこの辺りに――ありました!」
そのやり取りに部屋を掃除した甲斐があったと思いながら時間を確認し、片付けた駒や盤を抱えて私は腰を上げる。
「では失礼します。モブリットさん、ありがとうございました」
「ああ、また」
チェスは共用の本棚と同じ場所にあるものを取って来たから戻しに行こうと廊下を歩いていると、
「リーベ、今日の予定は」
後ろから兵長が来たので足を止める。
「一日非番なのでハンジ分隊長の部屋を掃除して、モブリットさんにチェスの手ほどきを受けてました。なかなか勝てないんですけれど面白いし勉強になります」
中盤でもっと鋭く攻めるべきだったとさっきの試合を思い出しながら続ける。
「午後はのんびりしようと思います」
「――俺の部屋へ来い。相手になってやる」
まさかのお誘いだった。
私は少し考えて、
「でも、兵長はお休みじゃないですよね? それに書類仕事が溜まってるって聞きましたよ?」
「盤と向き合わねえと出来ねえのか?」
「ええと……それって『目隠し指し』ですか?」
盤面を見ずに指すということだ。つまり自分が指した手はもちろん、相手の動きまで記憶して全ての駒の位置を常に把握する必要がある。
当然、単に先を読んで指すよりも難易度が跳ね上がる。
「……地下じゃ道具揃えるのが難しかったからな」
ああ、なるほど。
納得してから兵長の執務室へお邪魔して盤の上へ駒を並べる。『目隠し指し』は身に付けたい技術ではあるけれど今の私には難易度が高すぎるのでいつも通りにやらせてもらおう。
「どちらから始めます?」
準備を終えて訊ねれば、兵長は書類の山になっている執務机で順番にサインをしていた。この状態で試合をするらしい。
「俺が黒でいい。お前は白だ」
「では、私から。――e4」
「e6」
兵長は本当に盤面を見ていなかった。
私は自分のポーンを動かしてから、兵長のポーンも言葉通り動かしていく。
そして一時間後、
「……参りました」
完敗だった。こてんぱんにやられた。
兵長は片手間にやっていて盤と向き合っていた私の方が有利だったはずなのに、どうなってるんだろう。モブリットさんの手ほどきを受けているし、私が弱すぎるとは思わない。つまり兵長が強いということだ。
「……私が兵長に勝てるはずないですよ」
考えてみれば当然のことにため息をついて、お開きにしようと片付けを始めたら、そこで兵長が腰を上げて近づいて来た。
「もう一戦だ」
「え、あの、たくさん指したので今日はもう充分――」
さすがに疲れたし、せっかくの休みだから違うこともしたい。そろそろ朝の洗濯物が乾く時間だ。
やんわり断ろうとしたら、
「負けたら一枚脱げ」
「へ? 何ですか?」
「負けたら、脱げ」
「はい!?」
耳を疑ってしまう言葉を聞き返せば繰り返されて、駒を倒してしまった。
「どうしてそんなこと……!」
「負けなきゃいい話だろうが」
「そ、そんなの無理です、出来ません!」
「だから負けなきゃいい」
ふと我が身を顧みる。
今日は非番だから私服で、着心地を重視に選んだシンプルなワンピースドレスだ。一枚たりとも脱げない!
「……冗談ですよね?」
「本気だ」
兵長が向かいに座った。言葉通り、本気らしい。さらに『目隠し指し』をやめるようだ。どう考えてもこっちが不利になるけれど、正面から見据えられて、逃げられないと悟る。
「今回も先手を譲ってやる。リーベ、お前が白だ」
ちょっと待って。
どうしてこんなことに?
いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない。
負けられない。絶対に。
「…………」
だから、負けなければいい。
私はゆっくり呼吸してから、
「……d4」
クイーンの前のポーンを進めれば兵長が鼻を鳴らす。
「慎重だな」
こうして負けられない戦いが始まった。
二時間後。
「これで、ステイルメイト……!」
手に汗を握りながら私は宣言する。
ステイルメイト。即ち引き分けだ。
黒のキングの周りは白駒の支配下。つまり兵長はキングを動かせない。さらにキング以外の駒を動かすとなれば、次の一手で私がキングを取れる。
これで兵長は身動きが取れない!
「負けてませんよ! 脱ぎませんからね!」
「――これでわかったか?」
「……え?」
言葉の意味がわからなくて首を傾げてしまう。すると兵長が言った。
「勝てねえ相手の喉笛に食らいつくのがエルヴィンの専売特許だとは思ってねえぞ」
「……つまり?」
「これは直感を研ぎ澄ませたり戦略及び戦術を編む訓練に役立つ。モブリットも見込みがあるから班の違うお前をわざわざ可愛がってやがるんだろうが。どれだけハンジの世話に忙しくてもな」
「そ、そうなんですか?」
「そうだ」
確かに、よく書類仕事のコツとか役立つ本とか色々教えてもらっているけれど。
「お前には、どんな時も諦めない力がある。――絶体絶命だとか、土壇場でも思考を止めない、生きるために身体を動かす感性も悪くねえからな」
そんな風に評価されるほどのものか考えていると、さらに兵長が言った。
「リーベ。だからお前は今もこうして生きているはずだ」
「…………」
「狡くてもいい。意地汚くてもいい。――最後まで、諦めるな」
「…………」
「返事をしろ」
「は、はい……」
つまり兵長は諦めさせずに私の力を引き出すためにあんなことを言っただけで、本当に脱がせるつもりはなかったんだろう。それを必死になってしまって恥ずかしい。
「でも、買い被りです。私がここで負けたらどうするつもりだったんですか」
「それはそれで良かったがな。――だが、そうならないと思ってた」
兵長が黒のキングを手にしたかと思うと、私に向かって軽く投げた。落とすと欠けたり壊れてしまうかもしれないので私は慌てて両手で受け止める。
「それがお前の力だから」
(2016/09/03)