Novel
続・街の酒場の看板娘
事の発端は一週間ほど前になる。
「ゲルガーさんのばかあああああ!」
リーベが飛び込んで来た部屋にいたのは俺とハンジにモブリット、あとはペトラだった。
「どうしたの?」
「聞いてよペトラ! ミケ分隊長が食べ損ねた昼食を作ってたんだけど、隠し味にお酒使おうとしたらゲルガーさんに『酒は飲むもんだ』って怒られた! しかもその口調がこっちの神経を逆撫でする言い方で……! 何であんな風に言われなきゃいけないの、ゲルガーさんなんてアルコール中毒になればいいのにー!」
何だかんだ言いながらリーベはゲルガーと仲が良い。そのうち機嫌を直すだろうと放っておけば、放っておかないヤツがいた。
「それは不愉快な出来事だったね。ゲルガーってばいつもリーベの世話になってるのにわかってないよ。まあ、嫌なことは忘れるに限るからこれあげる」
ジャケットをまさぐりながらハンジがリーベに近寄って、馴れ馴れしく肩を抱いた。
「何ですか、これ」
「ハンジ・ゾエ特製『忘れ薬』。直近にあった出来事を忘れられる優れもの」
「わ、それはすごいですね。おいしそうですし」
リーベは小瓶を素直に受け取って、軽く匂いを嗅いでから水色の液体を飲んでしまう。俺が口を挟む間もない出来事だった。そこで経費書類を睨んでいたモブリットが怪訝そうに顔を上げる。
「分隊長、それまだ試作品じゃありませんでしたっけ……?」
「あれ? そうだっけ? 完成したのは夢の中だったかなあ?」
「リーベ大丈夫!?」
ペトラが悲鳴のような声を上げながらリーベの肩を揺らす。
「と、特に異常はないような……」
「本当に?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう、ペトラ。――あ、もうこんな時間。私、午後から非番だしちょっと出かけるね」
リーベは扉へ手をかけて、残る俺たち四人に笑顔を向けた。
「お騒がせしました。じゃあ、行ってきます」
その言葉に、
「行ってらっしゃーい!」とハンジ。
「お土産よろしくっ」とペトラ。
「気をつけて」とモブリット。
俺も口を開いた。
「さっさと戻れ」
リーベは笑って頷いた。
「はい」
しかし――リーベは帰って来なかった。
深夜。
「おかしいですよ絶対に! こんな時間になっても帰って来ないだなんて……!」
「原因は『忘れ薬』だ! や、やっぱり何らかの誤作用か副作用が働いて……!」
ペトラとモブリットが顔面蒼白になっていた。
「単に遊んでるだけじゃねえかあ?」
「リーベは夜遊びする子じゃないです!」
ゲルガーの言葉にグンタが噛み付いて、全員が後者に同意した。ここには俺とミケとハンジの班員が全員集合している。
「こうしちゃいられません! ハンジ班出動! 付近を捜索開始! 分隊長は薬の原因究明と解決法を調べておいて下さい!」
ニファを筆頭にハンジ班が部屋を駆け出して行った。
「誰が原因かわかってる?」
「俺かよ! あの酒はなあ――」
「ミケ班も行ってきます!」
ナナバ、ゲルガー、トーマが続き、
「私たちも行くわよ!」
「ぐえっ」
「エルド、行くぞ!」
「わかった」
さらにペトラ、オルオ、グンタ、エルドが続く。オルオはペトラに胸ぐらをつかまれていた。
残ったのはハンジとミケ、俺だけになった。
「うーん、何がいけなかったんだろう……試作品段階とはいえほぼ完成に近かったんだけど……」
「お前、自分が何をしたかわかってるんだろうな」
元凶を睨んでから、俺も部屋を出る。
「探しに行くのか」
ミケに訊かれたが、わざわざ答えるまでもないことだ。
「待機を任せる」
そして俺は闇へ飛び出した。
リーベ。お前はどこにいるんだ? 何をしている? 無事なのか?
答えのない問いかけを繰り返しながら当てもなく足を動かす。他の連中が探さないような場所――地下街も見て回った。まさかここには来ないはずだと思いながらも、何が起きているのかわからない以上は捜索から外すわけにはいかない。相変わらず掃き溜めのような場所で、リーベがここへ来ていたらと思うと気が気でなかった。
そうして時間が許す限り探し回った。何日か眠らないからといって、この身体は支障ない。とはいえ精神的に磨耗しないかと言えばそうではない。
手詰まりを痛感していた三日後の夜、
「見つけましたあああああ!」
発見者はゲルガーだった。
リーベは地上にいた。それは良かった。問題はここからだ。
「いらっしゃいませー!」
リーベは酒場の看板娘になっていた。
つまり、
「原因がわかった! 薬を強力に作りすぎたんだよ!」
忘れすぎていたのだ。
リーベは両手に乗せた盆の上に大量のグラスや料理を危なげなく軽々運んでいる。そして普段なら絶対に着ない、胸元の広く開いた服を身に付けて接客していた。悪くない。が、他のヤツがあいつを舐めるように見ているのが気に食わない。
リーベが接客している小太りの男を睨んでいると、相手が俺の視線に気づいて挙動不審になる。
「顔色が悪いですよ? 大丈夫ですか?」
「あ、ああ、大丈夫だよリーベちゃん……」
俺は二人から視線を外し、店主を呼んだ。ヒゲを生やした初老の男だった。リーベの服はこいつの趣味なのかと思いながらあいつを雇った経緯を訊ねれば、
「酒屋で今月の仕入れをしてたら隣に小さい女の子がいたんですよ。それがあの子。家のお使いかと思っていたら突然ばたりと倒れちゃって。驚いているとすぐに目を覚ましましたが、どうも様子がおかしいから話しかけるとリーベって名前以外は覚えてないって言うもんだから困った困った。憲兵に保護してもらおうと思いましたが荷物を店まで運んでくれるわ開店準備手伝ってくれるわてきぱき動いてくれるので本人さえ良ければ雇おうかと。ちょうど前の子がいなくなってましたし」
「…………」
記憶がなくなっても、あいつの本質は変わらないらしい。
酒屋へ行ったのは間違いなくゲルガー絡みのせいだろう。たまたま居合わせたこの店主が見る限り悪人ではないことは幸いした。
もしも娼館に拾われたり貴族の慰み者にでもなっていたらと想像した瞬間、手にしていたグラスが割れた。
「ぎゃっ!?」
店主が悲鳴をあげる。
「大丈夫ですか!?」
何事かとリーベが駆け付けた。
「申し訳ございません、割れやすいグラスだったようで……!」
「……別にいい。悪いのは俺だ」
「いえいえそんな!」
どう考えてもリーベにも店にも非はない。しかし客に責任を持たせるわけにはいかないのだろう。
手を見るが出血はない。酒はカウンターと手に飛び散っただけで服も汚れなかった。
確認していると清潔な布でそっと手を拭かれる。リーベだ。まずは濡れたもので丁寧に、次は乾いたもので念入りに。
「怪我がなくて、本当に良かった……」
すぐ近くにいるリーベは普段より甘ったるい匂いがして、こいつが花ならここにいる男連中は虫のように思えた。自分も例外ではない。劣情が込み上げるようで苛立つ。こいつは無闇に飾るより何もしないそのままの方がずっといいのに。
柔らかいことがよくわかる胸元を見ないようにしていると、やがてリーベが拭き終えた俺の手を離そうとした。思わずその手を握る。
「あ、あの……」
戸惑うような声だった。
今のこいつにとって俺は何か。単なる客だ。間違いない。それなら以前のリーベにとって、俺は?
はっきりとした返答はされていないが、少なからず好意は持たれていたはずだ。ほんの片鱗でもいい。何か思い出して反応が得られないだろうか。
少なくとも手を振りほどかれることはない様子に安堵すると、
「だめですよお客さん。ここ、そういう店とは一線を画しているんで」
店主がグラスを磨きながら静かに言った。さっき慌てた様子はもう微塵もない。
俺が口を開こうとすれば先にリーベが、
「マスターったら。この方はそんなつもりじゃないですよ。――新しいご注文ですか?」
「……ああ、頼む」
簡単に記憶は戻らないようだと諦めて、俺は手を離す。リーベは割れて散らばったガラスや酒を手早く片付けて一度店の奥へ消えた。すぐに出て来て新しい酒を注ぎ、何事もなかったように客たちへ笑顔を振りまいている。
その様子に店主が満足げに頷いて、
「最近思うんですよ、あの子はきっと三つの壁を司る女神たちがこの酒場へ与えてくれたんじゃないかと」
「…………」
それは違う。あいつは俺のだ。
酒場へ通い始めて何日か過ぎた。兵団へ戻ればハンジとモブリットが何やら怪しげな薬草を擦っていた。普段の業務に加え、解毒剤調合で疲労の色は濃い。
「おかえりー。リーベは元気にしてた? 酒場って酔っ払いが多いし絡まれたりとか心配なんだけど大丈夫?」
「…………」
あいつの自己防衛能力は健在だ。今日は店の奥へ引っ込んでしばらく出て来ないから店主の目を盗んで様子を見に行けば、男をひっくり返していた。
記憶がなくなっても身体は覚えているのだろう。俺が今のリーベに触れても拒まれることがないように。
「それにしてもたくましいよね。記憶がなくなってもちゃんと生計立てて生きてるなんてさ」
内心同意しながら俺はハンジを睨む。
「解毒剤の調合はまだか」
「エルヴィンにも急かされたけど、まだ時間がかかりそうだ。……でも他に何も方法がないわけじゃない」
ハンジが指を一本立てた。
「このタイプの薬は、強く根付く記憶を思い出せたら芋づる式に思い出すよ」
「……つまりリーベの何よりも幸福な記憶を再現しろって?」
「残念ながら違う」
眼鏡をかけ直してハンジが続ける。
「記憶っていうのは――恐怖や悲しみ、絶望の方が強く深く刻まれるものなんだ。だから、思い出すにはそういう類のものが引き金になる」
部屋が沈黙する。モブリットも手を止めていた。するとハンジが机を叩き立ち上がった。
「そこで私は提案する! リーベを壁外調査へ連れて行こう! 巨人に会えば間違いなく記憶が――」
「却下」
俺は言い捨てて自室へ戻った。
翌日。夜が深まり、酒場へ向かいながら考える。
これから一体どうしたものか。
そもそも俺はどうしたいのか。
もちろん記憶が戻ればいいと思う。過ごした時間を忘れられることは今回が最初でないとはいえ、やはり堪えた。
だが、それと同時に――記憶も思い出もこれからまた紡げばいいと思う。リーベはリーベだ。
何より、兵士ではなくなる。
壁外へ出る必要がなくなる。
危険な目に遭うことも――
『あなたはずっと、助けきれないのよ。いつも間に合わない』
思い出した占い師の声を即座に打ち消す。
助けてみせる。守ってみせる。
今度こそは、何があっても必ず。
今日にでもあいつが忘れている素性と関係を話して、俺の近くへ置こう。
あまりにも充実して働いているものだから気が引けたが、いつまでも酒場の看板娘でいさせるわけにはいかない。
まだ時間がかかるかもしれないが、解毒剤はいずれ完成する。
思い出す思い出さないの問題はそれからだ。
そんな風に考えながら店へ近づけば、今日はいつもより静かだった。それどころか店内は暗く、開いている様子がない。休業日だろうか。しかし扉へ手をかけると鍵がかかっていなかった。
そのまま開ければ、
「…………」
ここしばらく通って見慣れた酒場は、すべてが血に沈んでいた。
(2015/09/17)