Novel
これもひとつの悔いなき選択
きっと命は守れない。
そんな予感があった。
班で朝の訓練を終え、自室へ戻る途中に鼻歌が聞こえた。見れば、予想通り日当たりの良い物干し場にいたのはひとりの小柄な女がいた。リーベだ。戦闘服を着ていなければとても兵士とは思えない、その背中には調査兵団の証である自由の翼がある。
リーベは洗濯を干している時にいつも機嫌良く歌う。
この女に惚れている男は割といて、身近な例だとグンタ・シュルツ。誕生日や「偶然見つけた」とかこつけてよく花を贈っている。面白くないとはいえそれがリーベに似合う花ばかりでわざわざ邪魔をする気にはならない。
他にもリーベが昔仕えていた家にいた、今は当主の男もそうだ。一度兵団にやって来て連れ帰ろうとした時には出資者だろうがどう始末してやろうかと思った。以来、実は出資話と称して時折来ているが、もちろんリーベとは会わせてはいない。
可憐で愛らしい、平穏の象徴のような女。
その反面、容赦なく敵と対峙する強さを併せ持つ。
射抜くような鋭いまなざしにも惚れているのは自分くらいだろう。
それで、いい。
あいつが話さないことも、すべてではないが周りよりは知っているつもりだ。
訓練兵としての卒業成績は十六番。悪くない成績とはいえ十番以内でなければ憲兵団へ入れないはずが、実は異例の許可が下りていた。
射撃の腕が同期の中では群を抜いてトップだったためだ。ナイル曰く『十年に一人出るか出ないかの逸材』だとか。立体機動のように点数の高い技術であれば、十番内は堅かっただろう。
そして憲兵団管轄の内地は巨人ではなく人間相手の仕事のためか銃器を扱うことが多いらしい。腐敗した組織でも力ある兵士は必要だ。立体機動を扱える者ほど巨人から離れて内地へ行けるシステムが、そんな異例を出さねばならないという皮肉な結果だった。
そんな秘密裏に進んだ話もリーベはあっさりと蹴って調査兵団を選んだわけだが。
自主訓練時間に人知れず銃を扱う姿を垣間見たことがあったが、確かに腕は上々だった。
しかし、射撃で巨人は殺せない。目眩ましが精々だ。
単に自分の持つ力を磨いているだけか、別の目的があるのか――そこにどのような意思があるのかはわからない。
訊ねたことはないし、そもそもあいつは俺がここまで知っていることを知らないだろう。
足を向ければ、鼻歌がやんだ。気配に気づいたのか髪を揺らしてリーベが振り返る。
「お疲れ様です、兵長」
そしてふわりと微笑んだ。何度見ても、ずっと眺めていたいと思うような表情だった。
「ああ」
ついそのやわらかな頬へ手を伸ばしたくなるが、それ以上のこともしたくなるのでやめた。
「お前もご苦労なことだな。何人分だ、これは」
「今日は九人です。まあ、好きでやっていることですから」
「知ってる」
「ですよね」
邪魔をするつもりはないので早々に会話を打ち切る。それからその場を離れるふりをして、死角となる近くの適当な壁にもたれた。
「…………」
唇は重ねた。その気になれば、きっと身体も合わせられる。
こちらが容赦などしなければ、いくら兵士でも女だ。強いとはいえ自分には及ばない。身体くらい簡単に暴けるだろう。すべてを味わい、肌にその証を刻み込み、自分で埋め尽くせたらと思う時もある。
だが結局、強引に先へ進むやり方よりも、今のような関係を選んだ。
きっと命は守れない――そんな予感があったから。
四六時中そばにいられるわけではないし、物理的に不可能なことは起こり得る。人類最強と呼ばれても、出来ないことは多い。
いつの壁外調査だったかリーベを口へ含んだ巨人を屠ったことがあったが、あいつは先に自力で脱出していたので助けた内には入らない。
出来るのは、死ぬなと言い聞かせることだけ。
だからせめて、その精神の在り方を――心は大切に慈しんでやりたいと思った。
また、歌が聞こえてきた。
今度は鼻歌ではなく、小さな声で何かを口ずさんでいる。
それは甘やかで、耳に心地良い響きを伝えた。
『いにしえに出会えたあなたと
とこしえに生きていけたなら
いとしさが私のすべてになる』
歌詞や曲調はいつも即興のものだ。一度しか聞けない。
だから目を閉じて、耳を澄ませる。
こんな時間が続くなら充分だと思えてしまう。他には何もいらないと。少なくとも、今はまだ。
柄ではないと笑う奴もいるだろうが――
後悔は、しないだろう。
(2013/10/27)