Novel
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
「兵長」
「何だ」
「私、邪魔だと思うんですけれど」
「問題ない」
兵長は私の腰を抱く腕に力を込める。
まるで動く気配のない様子に、私は小さくため息をついた。
現在、私はソファに腰を下ろす兵長の足の間に同じ向きで座らされている。お茶の用意をして兵長の隣に腰かけたら、軽々と持ち上げられてこの状態になった。
「ええと……」
この姿勢になる意味は何だろうと疑問に思っていれば、後ろから兵長がのしかかる。肩の上に顎が乗せられて、重い。けれど、その重みが割と心地よくて、まあいいかと思ってしまう。
お茶と一緒に用意した、ひとりの時間に焼いた野菜のパイをカットすれば、肩の上にいた兵長が軽く口を開ける。食べさせろということだろう。私はそれを兵長の口へ運んだ。
「おいしいですか?」
「ん」
「残った分は団長と分隊長たちに持って行って下さいね」
「断る」
「だめです」
しかし結局、二人でワンホール食べてしまった。私もお腹が空いてしまったのだ。
「…………ふう」
空腹が満たされて、ふと風を感じたいなと思った。しかし、つい先日のある一件から、私は窓のない医療室の一室で十日間を主に過ごすことになっていたので無理な話だ。今日で六日目である。
部屋には生活する上で最低限の設備があるとはいえ、ずっと中にいれば気が滅入るし体内時計も狂うし簡単な訓練や鍛錬しか出来ないし――問題は多くあるが、仕方ない。
「ん……?」
ずしっと肩と背中が突然重くなったので何事かと視線をやれば、兵長が眠っていた。角度の問題で寝顔は見えないけれど、深く寝入っていることはわかる。
そっと離れようとしたものの、相変わらずがっちりと腕で腰を抱かれていたので諦めた。片づけは後でしよう。
「はあ……」
よくこの姿勢で眠れるものだと思うけれど、無理もない気がする。きっと、この部屋に居座るために夜は仕事の多くをこなしているのだろう。だって毎日――いや、一日だけ内地に用事があるとかで来なかったけれど、その日以外は日中の貴重な数時間を空けてこうしてやって来るのだから。
当初は夜に来ると言っていた兵長だが、それは駄目だと医療班を束ねるお婆さんに言われてしまったのだ。
どうしてこんなことになったのかと思い出して、またため息が漏れた。
違和感はあった。ゲルガ―さんの飲み散らかした酒瓶を箱ごと然るべき場所まで運んでいる途中、調査兵団内の監査に来たらしい憲兵団兵士とすれ違った時から。
直感と呼ぶのだろう。十二歳だったあの夜と同じ、異様な気配。
気のせいだと思いながら数刻後――酒瓶を運び込んだ暗い小屋で大きさごとに分別していると開けていたはずの扉が閉められた。ただでさえ暗かった空間が闇に堕ちる中、誰かの気配を感じた次の瞬間には首を強くつかまれ足を払われて身体が床へ叩きつけられていた。
その拍子にそばにあった箱がひっくり返り、大量の酒瓶が割れる音が聴覚を襲う。
床へ背中から叩きつけられた瞬間こそ呼吸が止まり、条件反射からか身体が強張ったものの、即座に意識をかき集めて全身に力を込めた。動けなくなることが一番危険だとわかっていた。
恐怖することは後ででも出来る。
身を守ることは今しか出来ない。
立て。動け。抗え。挑め。戦え。
それを私は『あの夜』に知ったはずだ!
その一心で闇の中、近づいてきた顔へ頭突きを食らわせて、その勢いを殺さず肘で相手の喉元を強く突く。
相手が声を上げて怯んだ隙に身を起こそうとすれば、男は舌打ちしてそばにあった瓶を掴み、こちらの頭に向かって振り下ろした。今度は生命の危機に血の気が引きながら、とっさに首を曲げるようにして凶器から逃れる。しかし同時にすぐそばで瓶の砕ける音に身が竦んだ。
しまった、と思った時には遅い。その瞬間を見逃さず、男が体重をかけて私の身体にのしかかり、左手を潰すような勢いで握ってきた。
「う、あ……!」
呻く私を見下ろして――男が嗤う。
ああ、その顔は知っている。
同じ顔、するんだな。
我が物顔で触れてくる、身体を這い回る手が気持ち悪かった。
荒い呼吸と共に、片手でシャツを破られて背筋が凍りつく。
なんて甘く見られているのだろう。
なんて弱く思われているのだろう。
だからこんな場所で押し倒されるし、身体を押さえつけられるし。
甘く見られて、弱いと思われているから――私の右手はまだ自由だ。
片手では何も出来ないと思ったに違いない。
床へ這わせた右手が、割れた酒瓶の上半分に触れた。それを、強く握る。
そして――男が再び顔を近づけてきた次の瞬間、私は手に力を込めて男の眼前を一閃したのだった。
あとは男の絶叫を聞きつけて駆け付けた第一発見者モブリットさんのおかげで助かった。彼の的確な判断で、この騒動が各兵団幹部にしか知れ渡らなかったのも助かった。
私の怪我も大したものではなかった。床に倒された際に出来た頬の擦過傷くらいだ。強く握られて痣になった左手と首には念のためだと包帯を巻かれたけれど、問題はない。
『どれもすぐに消える傷だ。心配なのは、精神の方か』
『問題ありません。平気です』
『……簡単にそう言ってしまえることが問題だとは思わんかね?』
唐突に思い出した、手当をしてくれた医療班を束ねるお婆さんの言葉。
「…………」
別に、平気だ。
男に対して恐怖を持つかと訊ねられたら、その質問は正しくないと答える。
男と、欲に狂った男は違うのだ。少なくとも私にとって。
だから、平気。
「悪い、寝てた……」
耳元で聞こえた、寝起きの掠れた声。兵長が起き上がる。
「おはようございます」
やっとのしかかる重みから解放されたかと思うと、兵長はまた私の肩に顔を埋めてぐいぐいと押し付けてきた。
「何してるんですか」
「何も」
お腹をまさぐる兵長の手がくすぐったい。つい笑ってしまう。
「兵長、そんなに動かないで下さいよ」
「嫌だ」
最初にここへ来た時、兵長は私に触れようとしなかった。
だから私にはもう触れたくないのだろうと思ったのに。男にされたことや私が男にしたことから、それも仕方のないことだと理解したのに。その哀しい感情を隠して笑って誤魔化したのに。
『リーベ』
触れたくないのならば手を伸ばさなければいいのに、と思ったけれど、私が少し指先で触れてからは毎日こんな風に密着してくる様子を見ると違うらしい。
私を気遣っていたのかもしれない。
私が拒むと思ったのかもしれない。
そんなことを考える必要はないのに。
だって、あなたは――。
「そろそろ午後の訓練の時間ですよ」
そう告げれば時間を確認して、仕方なさそうに兵長が私を離して立ち上がる。
ふと、その背中に目が奪われた。人類最強と呼ばれるその背中、またある者は英雄とも呼ぶ人の背中、そして誰よりも力強い背中。
「行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
つい自然に交わしたやりとり。
まるで私がここで帰りを待っているようだと思うと、兵長が私を見下ろした。
「お前がずっとここにいるというのも、悪くない」
「え?」
「やろうと思えば可能だろうな。俺が権限も力もすべて尽くしたら恐らく出来る」
「兵長?」
「だが――自分の理想だけを押し付けることは、ただの欲望だ」
一度視線を伏せてから、兵長はまた私を見つめた。
「お前の望みは、何だ」
「望み……?」
「やりてえことや……俺に、して欲しいことだ」
突然どうしたというのだろう。
「そんなことは――」
ありませんよと言いかけて、
「あ……」
思い出した。よみがえった。あふれだした。
恐怖、痛み、嫌悪、苦しさ、絶望――後回しにした多くの感情が今になってたくさん混ざり合い、どっと胸に押し寄せるのがわかった。立っているのがやっとだ。
「…………」
今度も私は私自身を守れて良かった。
今度はひとりにならなくて良かった。
「…………」
あの日を、私はいつかまた思い出すだろう。
あの夜を、私はいつまでも忘れないだろう。
「…………」
逃れようと思っているわけではないけれど。
「兵長」
今だけはあなたで埋め尽くしてしまいたい。
「抱きしめて、欲しい、です」
何言ってるの、私。
今まで、ずっと、離れることを知らないように兵長に触れていたのに。
ほら、兵長が驚いた顔をしている。
でも――私自身も驚いていた。
こんなにも自分の声が震えているなんて。
兵長はすぐに私の願いを叶えてくれた。
(2013/12/23)
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