■ 恋は苦い幸福

「寝坊したあああ!」

 起床時間はとっくに過ぎて、部屋にはもう誰もいない。
 わたしは慌てて戦闘服へ着替え、立体機動装置を身に付ける。
 毎日規則正しく生活していても、こんな風に時々うっかり寝過ごしてしまうのだ。後から「起こしたけれどイリス、全然起きなくて……ごめんね」とクリスタに謝られるのが心苦しい。悪いのはわたしなのに。

 食事をする時間はない。きっとサシャが食べているだろうから粗末にはならないだろうと諦めることにして髪をまとめながら訓練場へ行けば、アニがわたしを見て軽く目を見張った。

「驚いた。さっきまでいびきかいて寝てた人間が」
「あはは……」

 全身を巡らせるベルトと、精密な立体機動装置を整備するにはそれなりに手間と時間がかかる。しかしわたしには人の半分以下の時間でそれが出来た。同期の間で秀でているのはそれくらいだ。

「まあ、わたしはそれだけだし。特技って呼べるほどのものじゃないけどね」
「そんなことはないんじゃない」
「え?」

 その言葉に驚けば、アニは続ける。

「正確なだけじゃなく速度があるのは、自慢できることだと思うよ」
「アニ……」

 教官室の資料で調べたから、アニもライナーみたいにベルトルトと同郷だとわたしは知っている。

 でも――そのことについて彼女に言うことはなかった。

 それはベルトルトの好きな人がアニだからではなくて。
 ベルトルトに振り向いてほしいがためにその身辺を探ったことをアニに知られるのが恥ずかしいと思ってしまったのだ。

 今更だけれど、自分が情けなくて嫌になる。
 何をやっているんだ、わたしは。

「あーあ。こんなじゃベルトルトに好きになってもらえるわけがないよ……」

 投げやりになりながら、夕方の自由時間。わたしは座学の課題を終わらせるため、図書室にいた。
 重くため息をつきながら、本棚の上の方にあった『アンヘル・アールトネンの功績』と題された分厚い本を考えなしに無理やり抜き取る。そんな横着をしたせいだろう。その周りにあった本がばさばさと振ってきた。

「わ……!」

 慌てて腕で頭を庇って――衝撃は来なかった。

「あれ?」
「何やってんだ、イリス」
「ジャン……」

 どうやら彼に助けられたらしい。わたしの頭に直撃予定だった本はジャンの手の中にあった。

「ありがと。大丈夫」

 たまにいらっとする時もあるけれど、ジャンは悪い人ではない。教官の教えではちんぷんかんぷんだった立体機動装置の性能も彼のおかげでずいぶんと理解できたものだ。
 ベルトルト絡みでも時々相談させてもらっていて、救われる時もある。

 わたしはふと、思ったことを口にしてみた。

「……ジャンはさ、いつか誰かの王子様になれると思うよ」
「は?」

 わたしの王子様はベルトルトだけどね。

「何言ってんだ、様子が変だと思えば。――どうせベルトルト絡みだろ」
「そうだけど」

 するとジャンが鼻で笑う。

「周りをよく見てみろよ。他の男なら、お前だって付き合えると思うぞ。黒髪でそばかすのやつとか」
「ユミルのこと? あの子はクリスタと結婚するらしいから無理」
「馬鹿野郎、俺が言ったのは男の話だ」

 誰のことを言っているのだろう。わからないけれど、誰にせよ答えは決まっている。

「他の人じゃ、駄目なの。ジャンだってそうでしょ」
「な、何言ってやがる、オレは……その……」

 ジャンはふと視線を伏せた。ミカサを想っていることは想像がつく。

 したくてするのが恋じゃない。
 いつの間にか落ちているものだから、どうしようもない。

 そのことが時に切なくて、もどかしくて――苦しい。
 だが、そう感じているのはわたしだけではないのだ。

 そう思うとほんの少しだけあった虚ろな気持ちが楽になった。

 でもね、ベルトルト。あなたに恋が出来たことは、わたしにとって世界が誕生した奇跡と同じくらい幸福なことなんだよ。

 あなたにそれを伝えられたらいいな――そんなことを思っていると、

「あ」

 窓の向こう。遠くの方に――背の高い彼を見つけた。

 わたしが見間違えるはずがない。ベルトルトだ。

 ひとりで沈みゆく夕陽を眺めている。

「ジャンごめん、これ戻しといて」

 持っていた本を押し付ければ、わたしの視線の先にある彼の姿にジャンは全てを察したらしい。

「は? お前、この周りに散らばってる本はどうするんだ?」
「ごめん、本当にごめん。――片付けといて?」

 窓に足をかけ、わたしはそこから外へ飛び出した。

「待ちやがれ! イリス!」

 ジャンの声を背中で聞きながら、わたしは一直線にベルトルトを目指す。

 愛しくてたまらない、その背中に飛びつくために。


(2013/10/15)
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