進撃短編 | ナノ

接吻未遂

 朝から姿が見えないことを不審に思い、私は兵長の部屋を訪ねた。

「兵長ー? もうお昼ですけれど、どうされましたー? 開けますよー? 失礼しまー……す……」

 何度かノックをしてから扉を開けて絶句した。ベッドの上に全身水浸しの兵長が倒れていたからだ。

「へ、兵長っ?」

 悲鳴を上げながら駆け寄れば、なぜかその頬は少し腫れている。そしていくら声をかけても彼は目覚めることなく意識を失っていた。

「いやー、色々やってはみたんだけどね。水ぶっかけても顔叩いても全然起きないんだよ、これが」

 部屋の中にいたのは困ったように頭を掻くハンジ分隊長。そのそばで青い顔をしているのはモブリットさんだ。

「一体どうしてこんなことに……! 兵長に何があったんですかっ?」

 水に濡れた兵長の顔をハンカチで拭きながら私がそう訊ねれば、ハンジ分隊長が説明してくれた。

「私が実験用に作った催眠薬を混ぜたお茶を間違ってリヴァイに渡しちゃったんだ。気づいた時には遅くてね。それを飲んだ結果がこれ」
「何て危ないものを飲ませているんですか!」
「だから自分を実験台にしようとしたんだけど、結果はこうなっちゃったね。もうすぐ眠り始めて十二時間になるかな」
「十二時間! そんなに……!」

 何てことだ。どうしよう、このまま兵長が目を覚まさなかったら――。
 込み上げる恐怖をぐっと押さえ、私は現状を打開する方法を探る。
 不安に怯え、嘆いてばかりでは何も変えられない。兵長に教えられたことの一つだ。

「兵長って人の気配があるとすぐに起きるはずなのに、水を被せても叩いても起きないなんて……あとはどんな手段が……」

 考えろ、考えろ、考えろ。
 どうすれば兵長は目を覚ます?
 私に出来ることは何だろう?
 出来ることなら何だって、やってやる――!

 そこでハンジ分隊長がぽんと手を打った。

「次は窓から落としてみる? 衝撃で起きるかも。或いは絶体絶命の危機に覚醒するとか」
「殺す気ですか!?」

 人が真剣に考えている時にこの人は!

 あ、とそこで声を上げたのはモブリットさんだった。

「ハンジさん。俺、こんな話を聞いたことがあります」
「何ですか? 教えてください!」

 思わず私が詰め寄れば、後退りしながらモブリットさんが話してくれた。

「昔々、あるところに百年間ずっと眠り続けるお姫様がいて――」
「百年! そんなに兵長は起きないんですか? ずっと、このまま? そんなの嫌です!」

 私が叫べば、ハンジ分隊長が指を鳴らした。

「あ、それ知ってる。そのお姫様が目覚めたきっかけというのが王子様のキスだっけ、モブリット?」
「そうです」

 部屋に沈黙が満ちた。

「よーし、なら次の手は決まった。リーベ、やって」
「私っ? 誰が王子様ですかっ?」
「いやあ、モブリットだと絵的にきつい」
「あんた自分がやろうって気はないんですか!」

 私とモブリットさんが詰め寄ってもハンジ分隊長は笑うだけだった。

 ため息をついて、私は眠り続ける兵長を見つめる。

「兵長……」

 いつだって厳しくておっかない人だけれど――本当はとても優しくて、部下や仲間のことを大切に思ってくれていること、私は知っている。

 このままずっと眠り続けていてほしくない。
 立体機動装置で自在に飛ぶ姿をまた見たい。
 怒られながらでも、また一緒に掃除したい。
 兵長の声がもう二度と聞けないのは、嫌だ。

 私の名前を――どうかまた、呼んでほしい。

 その一心で私は決意する。そうだ、出来ることなら何でもやってやると思ったじゃないか。

「――私、やります!」
「よく言った、リーベ! それが男だ!」
「女です!」

 深呼吸してから兵長が横になっているベッドへ屈み込む。ごくりと唾を呑み込んだ。

「い、いきます……!」

 兵長の肩へそっと手を添えれば、水をかけられたせいで服が冷たく濡れている。早く起こして着替えてもらわなきゃ。

 覚悟を決めてゆっくりと顔を近づけようとすれば、たったそれだけでどきどきと心臓が痛いくらいに鳴る。

 そういえば兵長のこんな無防備な顔、見たことない。いつも鋭い目が閉じられると、何だか――。

「リーベ、動きが止まったよ」
「頑張れ!」
「た、他人事だと思って……!」

 ハンジ分隊長とモブリットさんに急かされて、私は再び兵長と向き合う。

 だめだ。躊躇うな。でも、緊張で手が震える。

「兵長……」

 起きてください。どうして目を開けてくれないんですか。
 ああ、泣きたいくらいに切ない。どうしてこんなに苦しいのだろう。
 どうにか呼吸を整えて、私は今度こそ兵長へ自分の顔を近づける。
 そうだ、唇に触れるのはほんの一瞬でいい。キスなんて、そんなもの。私は考えすぎているだけだ。

「…………」

 でも、何の想いも込めないで触れることは、哀しい。
 百年も眠ったお姫様が目覚めたのは、単に口づけられただけではないはずだから。
 そこにはきっと、王子様の想いがきちんと込められていて――。
 私も同じようにしたら、兵長は目覚めてくれるだろうか。

「兵長……」

 そこでようやく震えも迷いもなくなった。
 顔を寄せて、ついに鼻先が触れる。あと数センチ。
 目蓋をそっと下ろそうとした瞬間――兵長の目が開いた。

「え?」

 それを見て、私は動きを止める。つい呼吸も止まったような気がした。

「――のわぁああああっ!」

 あまりの近さを再認識して、悲鳴を上げながら私は兵長から素早く顔を離す。その勢いを殺しきれずに身体のバランスを崩して床へ尻餅をついた。

「うるせえ……」

 兵長はむくりと起き上がる。そして自分の状態を認識すると、盛大に顔をしかめた。

「おい、お前ら。これは……どういう状況だ?」

 ああ、兵長だ。低い声に鋭い眼光。間違いなく、兵長だ。
 良かった。本当に、良かった。また、会えた。

 そのことが嬉しくて――しかし同時にたった今まで自分が何をしようとしていたのかを思い出す。顔へ一気に熱が集中するのがわかった。

「なるほど、つまり効果はきっちり十二時間ってことだね。時間が経てばちゃんと目覚めるようになっていたってことかー」
「説明しろ、クソメガネ」

 ハンジ分隊長とモブリットさんが不機嫌全開の兵長にこれまでのことを説明している間――私はその場から逃亡することにした。
 全速力で部屋を飛び出して、誰に名前を呼ばれても決して戻ることはしなかった。


(危なかったー! どうしよう、もう兵長の顔見れない……!)
(ちっ、寝たふりでもしておけばよかった)


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