Novel
『ごめんなさい』【上】

 今になって思い出すのは、遠くなった季節のことだ。




「せっかくの新婚旅行ですしね!」と張り切るサシャやコニーに準備を手伝ってもらう中で最初から決めていたことがある。
 行き先は『誰もいない場所』にすること。
 俺もリーベも、今まで以上に人目を集める立場になっていたから。
 結果的に選んだのは豊かな森だった。サシャの家族が特定の季節に狩りで使う小さな家の一つを借りることになった。周りには植物の種類が多く、特にこの季節なら食べられるものがいくらでもあるという。あと、動物も多い。遠目に見かけただけでも兎に狐がいた。稀にではあるが熊も出るとは聞いたが、訓練兵時代にリーベが倒したヤツには及ばないだろう。

「あの時は囮がいたから何とかなっただけで、私一人じゃ無理でしたよ」

 遭遇しやすい季節でなくても用心しましょうね、とリーベが一定の間隔ごとに鈴を付けたロープを小屋から離れた場所からぐるりと囲むようにした。これで何かしら敵が来たら距離と位置が掴めるわけだな。この件は内々の計画で俺たちがここへ来ていることを知るヤツは少ないが、警戒しておくに越したことはないだろう。
 それからは掃除と荷運びを分担して、暮らせる環境を整えつつリーベの様子を窺う。新婚旅行の決行を当日になって知らせたことから出発時は一悶着あったが、もう大丈夫そうだ。

『行ってらっしゃーい! 美味しいお土産、待ってます!』
『ちょっと待って。私以外の全員が新婚旅行のこと知ってたのに、当事者が当日まで知らされずに旅立つってどういうこと?』
『事前に話していたらリーベさんのことだから業務を盾にして行かないように何か対策される可能性があるので、だったらそんな時間を与えないようにしようってアルミンが』
『アールミーン?』
『ゆ、ゆっくりしてもらえたらと思って……業務は滞りないように調整済みですし、戻られてからの負担もかけません』
『知ってるよ、私がいなくても仕事が回ることくらい。私が言ってるのはそういうことじゃなくて』
『どういうことです?』
『……そんなことしてる場合じゃないでしょ。これからのこと考えたら時間もお金もないんだよ。それをこう、使うのは――』
『だからこそ、お二人は行くべきだと思います』
『…………』
『とにもかくにも行ってらっしゃーい! 美味しいお土産、待ってます! 大事なことなので二度言いました!』

 多くはなかったが見送りの連中に押し切られる形で出発したことに、そしてリーベが心積りしていた仕事や予定を無視して無理矢理に連れ出したことを詰られても仕方ないとは思っている。
 だが、そういったことは一切なかった。
 掃除と馬に積んでいた荷物を運び終えたところで、リーベが目を伏せながら口を開く。

「あの……新婚旅行って……その、初めてなので……うまくできなかったら、すみません」

 やっと話したかと思えば何言ってやがる。当たり前だろ。あと俺だってそうだ。

「リーベ」

 言葉にして伝えるより先に顔を寄せて、唇を重ねた。求めていた感覚が久しぶりに満たされたのがわかった。




 紅茶を淹れてもらい、一息つく。川が近いから水汲みも問題なさそうだ。だからこの場所を選んだのもあるが。

「次に食料調達ですね。保存食は用意してもらった分がありますが、そればかりだと味気ないですし」

 飲み終えた紅茶のカップを置き、それから持参した地図を二人で覗き込む。リーベの持つ方位磁針と方向を照らし合わせた。

「狩猟禁止域は近いですが、この辺りは大丈夫みたいですね。猟銃も一式サシャが用意してくれてますし」

 何が食べたいですかと訊かれて「何でもいい」と俺は答える。前に「いつもそればかりですね」と困ったように言われたが、リーベが作れば何でも美味いから注文を付ける理由がなかった。

「私、お魚が食べたいです」

 眺めていた猟銃の箱を閉めて、別の荷物に入っていた釣竿と釣具一式をリーベが早速取り出した。食糧に関する準備はサシャに任せたが流石だな。

「では、釣ってきますね。行ってきます」

 ここ一年と違って穏やかだった数年前、調査兵団で湖だの川だの行った時、こいつはいつも釣りをしていた。他の連中は遊びに耽ったりゲルガーは飲んだくれている中でリーベはそのまま食事の用意をしていたことを思い出す。ここでいつもと同じことをさせるのもどうかと思った。

「釣りには俺が行く。お前は泳ぎにでも行けばいい」

 気ままに過ごすことを提案すれば、リーベは釣り道具の点検を続けながら首を振る。

「ありがとうございます。――でも私、泳げませんし」

 話しながらリーベは外へ出るなり近くに転がっていた大きめの石をごろりとひっくり返す。石の裏にいた虫をひょいひょい蓋のついた籠へ慣れたようにどんどん放り込んでいた。

「何だと?」
「え?」

 俺が聞き返して、リーベが動きを止めて何度かまばたきする。それから虫を入れた籠に蓋をして、首を傾げた。

「えっと、私が釣りに行きますって――」
「そうじゃねえ、泳げねえってどういうことだ」
「……あれ? ご存知なかったですか」

 意外そうな眼差しで俺を見るが、その通りだった。
 知らなかった。全く。
 だが思い返してみれば、俺は一度だってリーベの泳ぐ姿を見たことはなかった。
 数年前にあった壁外の水路工事だの多くの団員が水中兵服での作業が求められる中でも、リーベのいたミケ班は常に対巨人戦へ配置されていたことを思い出す。

「考えてみると、調査兵団に入ってから水辺に行く時は大体釣りをして過ごしてましたね」

 リーベも思い出すような顔つきになってしみじみと言った。

「本気で泳げねえのか。訓練兵団だかで何か訓練があったはずだ」

 正式配属前の兵士が戦闘方法を学ぶための兵団――俺は行ってねえが、そこでの訓練内容の類はいくらでも聞いたことがあった。

「はい、ありましたよ」

 リーベがはっきりと頷く。

「体力育成の一環で、川や湖での水中訓練とか遠泳とか。ただ、私のいた東方訓練兵団は助け合いがモットーでしたので。だから泳ぎが得意な同期にロープで引っ張ってもらいました。それでも教官から及第点はもらえましたし」

 私は泳げませんが浮くことはできたので、とリーベが懐かしむように言った。

「お前、泳げねえのに海に行きたかったのか?」
「はい。……泳げなくても海に行きたいと望むことはおかしくないのでは……?」
「…………」

 それもそうか。
 あの『約束の場所』へ着いた時のことがよみがえる。リーベは海辺を歩いて、波に手を触れて、水平線を眺めて――幸福そのものの表情を見せていた。

「…………」

 そうか。

 泳げねえのか。

 リーベのことは何でも知っているつもりだった。

 だが、そうではなかった。

 俺は何も知らなかったんだ。

 そう思い知らされるきっかけを振り返ると、始まりはここからだったように思う。


(2022/12/18)
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